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文化財の概要コンテンツ

文化財名称はぎやきふかわこようせきぐん
萩焼深川古窯跡群
指定県指定
市町長門市区分記念物時代江戸時代
一般向け
説明
 慶長5年(1600)の毛利輝元の萩移封に伴い、朝鮮の陶工 李勺光(りしゃっこう)の一統も安芸広島から萩に移住し、松本中ノ倉(現 萩市椿東)に窯を構築した。萩焼は、輝元によりひらかれたこの藩窯「窯薪山御用焼物所」(かままきやまごようやきものしょ)(松本焼)に始まる。   
 承応2年(1653)、李勺光の弟李敬の三男蔵崎五郎左衛門等は、藩に独立を願い出て許可され、深川 三ノ瀬(そうのせ、現 長門市深川湯本)に移って築窯し、明暦3年(1657)に「三ノ瀬焼物所」(深川焼)がひらかれた。   
 「三ノ瀬焼物所」は、最初から「自分焼」(自家営業)が認められ、半官半民的な性格をもっており、こうした経営形態は、江戸時代を通じて藩庁直轄支配であった松本とは異なっている。   
 元禄6年(1693)には、庄屋支配に移管され、以後、民窯の性格が濃くなった。   
 江戸時代中期には、窯元の数も増え、本窯のほかに東ノ新窯、さらに西ノ窯が築かれていったと考えられる。 
 江戸時代末期の『防長風土注進案』には、窯元の数が12軒と記されているが、明治時代に入って減少し、現在は、5軒となっている。 
 深川川支流の三ノ瀬川が形成した谷あいに立地する萩焼深川古窯跡群(本窯跡・東ノ新窯跡・西ノ窯跡)は、開窯当初から大正時代まで共同使用された深川焼の窯跡遺構である。昭和58~63年度(1983~1988)、山口県教育委員会が発掘調査を実施した。 
 いずれも連房式登窯で、このうち東ノ新窯跡は、全長36.1mと大規模である。本窯跡や西ノ窯跡には、部分的にドーム形の天井部が遺っている。各窯に付随する物原は、遺存状態も良好で、茶陶類を主に焼成した松本焼に比べ、深川焼は、「自分焼」が行われていたために生活雑器類を中心としていたこと等が確認された。 
 今日までに伝承される萩焼の技術と作風は、日本を代表する陶芸の一つであり、郷土産業として安定した地位を確保している。こうしたなかで、萩焼深川古窯跡群は、発掘調査により各窯跡の規模・構造・系譜等の実態を明らかにし、わが国の窯業史研究においても大変重要な遺跡であることが判明した。 
 なお、各窯跡とも、長門市教育委員会により崩落防止の措置が講じられている。 
 また、萩焼古窯跡群(萩市椿東)は、昭和56年に山口県指定史跡に指定されている。
小学生向け
説明
  1600年に毛利輝元が萩に移ってきたとき、朝鮮の焼き物職人 李勺光(りしゃっこう)も広島から萩に移り住み、松本中ノ倉(いまの萩市椿東)に窯(かま)をつくりました。萩焼は、輝元によりひらかれたこの藩の窯(松本焼)に始まりました。   
 1653年、李勺光の弟李敬の三男蔵崎五郎左衛門たちは、藩に独立を願い出て許可され、深川 三ノ瀬(そうのせ、いまの長門市深川湯本)に移って窯をつくり、1657年に「三ノ瀬焼物所」(深川焼)がひらかれました。   
 「三ノ瀬焼物所」は、最初から「自分焼」(自分で売ったりしてかせぐことのできる焼物)が認められ、藩と庶民が一緒に費用を出しています。こうした経営の形は、江戸時代の間、藩が直接支配していた松本とはちがっています。   
 その後、庄屋(町や村の長)が支配するようになりました。   
 江戸時代中ごろには、窯元の数も増え、本窯のほかに東ノ新窯、さらに西ノ窯がつくられていったと考えられます。 
 江戸時代のおわりごろには、窯元の数が12軒と記録されていますが、明治時代に入って少なくなり、いまは、5軒となっています。 
 萩焼深川古窯跡群(本窯跡・東ノ新窯跡・西ノ窯跡)は、窯ができたはじめから大正時代まで使われた深川焼の窯の跡です。 
 どの窯も、いくつかの部屋をつなげてつくってあります。このうち東ノ新窯跡は、長さ36.1mで大きいものです。それぞれの窯にある、失敗した焼き物を捨てた場所は、よい状態で残っており、茶道で使うための焼き物をおもにつくった松本焼に比べ、深川焼は、「自分焼」が行われていたために生活で使ういろいろなうつわを多くつくっていたことなどがわかりました。 
 今日までに伝えられている萩焼は、日本を代表する焼き物のひとつです。
画像<萩焼深川古窯跡群>縮小画像(オリジナル画像表示リンク)
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