1. ホーム>
  2. 学習サポート
  3. 文化財通史-文化財編

文化財通史-文化財編

天然記念物編はこちら 文化財通史-天然記念物編

  • 縄文・弥生
  • 古墳
  • 飛鳥・奈良
  • 平安
  • 鎌倉
  • 室町
  • 江戸
  • 明治・大正

 現在の山口県は、古く周防国、長門国と呼ばれていた。この二つの国を防長両国という。本州の最西端に位置していて、古代から大陸、朝鮮半島 この地に人類がいつ住みついたかは、はっきりしないが、その中には大陸からの渡来人も多かったと思われる。また稲作りも大陸から九州やこの地方に伝わり、日本の他の地方よりもわりと早く稲作りがなされていたと思われる。三方を海でかこまれ、あまり高い山もなく、気候は温暖なこの地は、人々が生活するに適した地で、古代から多くの人たちが住みついていたと考えられる。
 山口県下には、旧石器時代の遺跡といわれる地もいくつかあるが、山口県指定の史跡となっている遺跡は縄文・弥生時代からのものとなる。

ページトップへ

1.縄文・弥生時代の文化財

 縄文遺跡としては、平生町の「岩田遺跡」がある。縄文後期から晩期を主体とする集落跡で、土器・石器の特徴から当時の瀬戸内海と九州の両文化圏接触の実体を知ることができる。
 下関市の「綾羅木郷遺跡」は弥生時代前期から中期にかけての大規模な集落遺跡で、環濠に囲まれた1000期近くの貯蔵穴が確認され、土器、石器、鉄器など出土品も多彩である。「梶栗浜遺跡」もその近くにあり、弥生時代前期から中期にかけての埋葬遺跡で、銅鏡や銅剣が出土している。 
 弥生時代前期末を中心に営まれた集団墓地として、下関市豊北町の「土井ヶ浜遺跡」がある。300体以上の出土人骨は弥生時代人の形質を知る上に貴重であり、また当時の墓制や埋葬習俗を知るうえで大切な学術資料を提供している。
 弥生時代の「宮ヶ久保遺跡出土木製品」は阿東町徳佐盆地から出土した弥生時代の木器である。農具、工具、日用什器、狩猟具、武器形祭器など、弥生時代の一括木製品として質量ともに全国有数で貴重な資料である。

ページトップへ

2.古墳時代の文化財

茶臼山古墳  柳井市の「茶臼山古墳」は古墳時代の前期末頃のものと推定される前方後円墳で、全長90mの大きなものである。葺石、円筒埴輪列をもち、石室からは鏡5面の外、鉄剣、鉄鏃なども出土、鏡の面経は44.8cmで、わが国で古墳から出土した鏡としては最大のものである。平生町の「白鳥古墳」は古墳時代中期の前方後円墳で、全長120m、山口県下最大の古墳である。銅鏡2面、巴型銅器5個、管玉などが出土している。
 こうした銅鏡は、当時の威信財と考えられ、被葬者が重要な人物であったことをうかがわせる。古墳からの出土品で、特に注目すべきものとして、萩市「円光寺古墳出土品」の環頭大刀柄頭3箇がある。これは径約6cmの環の中に鳳凰を配したもの、銅に金メッキされた豪華なもので、この地にこの大刀を持つ権力者がいたことを示すものである。
 山口市の「赤妻古墳出土の舟形石棺」は、刳抜式の舟形石棺で、蓋の側面に4ヶ所、身の前後両端に各1ヶ所の縄掛突起をもつ。五世紀前半頃のものである。長門市の糘塚横穴墓群から出土した銅製の壷鐙(つぼあぶみ)や頭椎(かぶつち)大刀柄頭は、県下唯一の出土例で珍しい。防府市「大日古墳」には刳抜式家形石棺がある。棺は身と蓋からなり、蓋の左右両側に各2、前後に各1の縄掛突起がある。家形石棺としては県下唯一である。
 山口市の「朝田墳墓群」は弥生時代後期から、古墳時代後期にわたる墳墓群で、各種の墳墓があり、連綿と営まれた墳墓群の変遷過程がわかる。萩市の「見島ジーコンボ古墳群」は7世紀後半から10世紀初頭にかけて築造されたもので、約200基もの積石塚からなる群集墳が確認されている。古代の墓制や対外関係等を考察するに重要な価値をもつ。
見島ジーコンボ古墳群
 古墳時代から平安時代の初頭にかけて、須恵器を生産した窯跡は県下に多く残っている。その内山口市の「陶陶窯跡」は国指定の史跡で、天井部も残り、完全に近い窯の状況がわかる。その他美祢市美東町の「末原窯跡群」、長門市の「峠山の須恵器窯跡」が県指定史跡となっている。
 「石城山神籠石」も古代の遺跡として特異なものである。北部九州から瀬戸内沿岸一帯に多くの例があるこうした遺跡は対外関係の緊張化を反映した城砦跡とみられている。


ページトップへ

3.飛鳥・奈良時代の文化財

 646年(大化2)に、いわゆる大化改新の詔が発せられて、日本は天皇を中心とする中央集権の政治体制が確立した。今までの国造を廃して、あらたに国を設け、国の下に郡をおき、郡の下に里が設けられた。現在の山口県の地域は、周防国・長門国となるわけであるが、その国の行政を司った官衙のある所を国府といった。周防の国府は、現在の防府市にあった。国府は本来中央から赴任した国司やその他の官人の居住地に当てられ、国衙は官人達が国勢をとる政庁であった。 
 周防国衙は中世以降「土井八町」とよばれていたが、中央を南北にはしる朱雀通りと、条里にそって1町毎に縦横に街路があった。これは都に模して、それを小規模にしたものである。周防国は鎌倉時代初期、奈良東大寺の造営料国に当てられ、土井八町の国府域は、明治維新に至るまで公領の性格をとどめたため、今もよく国府の原形が残っている。このため全国に類例のない遺跡として「周防国衙跡」として、国指定の史跡となっている。
 周防国衙の西北方900mのところに、周防国分寺がある。ここが「周防国分寺旧境内」として史跡となっている。奈良時代聖武天皇の発願によって建てられた国分寺の一つで、今の建物は近世のものであるが、境内はほぼ奈良時代当時のまま維持している。国分寺境内が当初のまま残っていることは全国的にも珍しい。
周防国衙跡
 飛鳥時代末頃から、日本でも唐の制度をまねて、貨幣を造るようになった。この造幣の役所を「鋳銭司」といった。最初は都に近い地にそれがあったが、後には長門国・周防国に鋳銭司が置かれた。鋳銭司は役所でありまた工場であった。長門鋳銭所は、長門国府の近くにあった。奈良時代の通貨である「和同開珎」が、下関市長府から出土している。その地は「長門鋳銭所跡」として史跡となり、出土品は「長門国鋳銭遺物」として重要文化財となっている。
 長門の鋳銭司が周防国へ移ったのは825年で、その地は周防国府に近い現在の山口市鋳銭司であった。以後この鋳銭司は日本唯一の鋳銭司として150年余り存続した。この遺跡は近年発掘調査され、「周防鋳銭司跡」として史跡に指定された。
長門国鋳銭遺物
 飛鳥時代に大陸から仏教が伝来するが、それと共に仏像ももたらされたと思われる。しかし山口県下にはこの時代伝来の仏像はない。ただ日天寺の「金銅如意輪観音菩薩半跏像」は、大陸風な手法であるが、これは7世紀後半に日本で制作されたものといわれる。山口市神福寺の「木造十一面観音立像」は、少し時代が下り、大陸唐で制作されたものと見られる。奈良時代か平安時代に周防の国に将来されたものであろう。


ページトップへ

4.平安時代の文化財

 平安時代になると、その前期には、最澄・空海らが、新しい宗教活動をして、当時の精神史、文化史上に新生の気を送りこんだ。防長にもこの時代に創建という寺伝をもつ寺院がいくつかあり、平安京の新しい仏教の波及が感じられる。また神社においては、延喜式の制度では15座が防長の官社として神名帳に見られる。これらの神社に位階を授けられたことなども「六国史」に散見する。しかしこれらの平安時代の社寺の建物が、直接今に残っているものはない。
木造四天王立像  平安時代の初期の彫刻は、特に貞観彫刻といわれ、木彫の量感を誇示し、今までの奈良時代の仏像とは造型感覚を異にする仏像の製作がされるようになった。山口市正護寺の「木造薬師如来坐像」は貞観時代のもので、量感のある端正な姿は、中央作と思われる。平安時代この地方にあった周防鋳銭司の役人が、中央から将来して祀ったものであろう。下関市の国分寺蔵「木造不動明王立像」も平安時代初期のもので、明王像としては県下で最も古い。防府市の周防国分寺金堂の「木造四天王立像」もこの時代の作で、全国的に見ても四天王の古い遺品といえる。同じく国分寺金堂の「木造日光菩薩立像」・「木造月光菩薩立像」も平安時代の早い頃の作であり、立派である。
 平安時代400年は、後期になると、今まで日本のあらゆる面で支配的であった唐文化に代って、藤原氏の繁栄とともに和風文化の最盛期となる。それは建築・絵画・彫刻・工芸品などのすべての面にわたって、平明、優美、調和を特徴とする。仏像は仏師定朝やその一派によって造られ、尊容満月のごとく、慈悲あふれるような女性的なやさしい姿であった。
 周防・長門では平安時代になると、多くの寺院の建立があったと考えられるが、その堂宇は現在全く残っていない。しかし平安後期、いわゆる藤原時代の仏像は数多く残っていて、国指定、県指定の文化財になっているものがある。周防大島町の西長寺下関市豊浦町の安養寺山口市の玄答院にはそれぞれ阿弥陀如来の丈六像が存し、この時代を代表する仏像として立派である。周防国分寺の半丈六の「木造阿弥陀如来坐像」も、この時代の傑作で、定朝様式の完好の作である。
金造菩薩形坐像  さらに山口県下には藤原時代の仏像として、防府天満宮の「木造大日如来坐像」、山口市龍蔵寺の「木造大日如来坐像」、下関市専念寺の「木造薬師如来立像」、萩市南明寺の「木造聖観音立像」木造千手観音立像」など国指定重要文化財となっている仏像の外、県有形文化財になっている仏像は十数体に及ぶ。そのうち山口市大林寺の「木造十一面観音菩薩立像」は、治承2年(1178)に 仏師僧禅忍十輪坊が造ったと胎内銘がある。藤原時代の仏像で、造像年代、作者が明らかなものは珍しく、県下の彫刻史上重要な資料として価値が高い。
 また周南市楞厳寺の「金造菩薩形坐像」は、高さ4cmの小像で、鋳上りは充分でないが、純金の像として全国に例の少ない平安仏として特異な存在である。
 仏像以外の宗教美術として、工芸では防府天満宮蔵の「金銅宝塔」がある。塔身に長文の刻銘があり、承応2年(1172)、周防国衙の目代藤原秀助が、松崎神社の御前に安置したものとわかる。高さ40cmの小塔であるが、姿態は秀麗で、製作の年代が明らかなことで注目される。
 平安時代後期の書跡として、防府毛利報公会蔵の「紙本墨書古今和歌集巻第八」1巻と、「史記呂后本紀第九」1巻は共に国宝に指定されている。古今和歌集は11世紀半ばの写本で、写本としては最古のものである。文字が美しく紀貫之筆という伝承がある。史記呂后本紀は中国において正史の初めをなす史記古鈔本で、延久5年(1072)に大江家国が書き写したものである。共に1000年近く伝来してきたもので、文章博士大江家(毛利家)らしい遺品である。
紙本墨書 古今和歌集巻第八(高野切本)
 さらに山口市秋穂遍明院に蔵する「紺紙金泥法華経」8巻は平安時代後期の遺品で、県有形文化財となっている。巻子装で、各巻とも表紙は紺紙に金銀泥で宝相華唐草文、見返しには紺紙に金銀泥で、釈迦説法図など、経意にちなんだ仏、菩薩などが画かれている。 史記呂后本紀第九

ページトップへ

5.鎌倉時代の文化財

 平安時代、わが世の春をたたえた藤原氏は、新興階級として勢力をのばしてきた武士たちに取って代られ、世は源平時代となった。源氏、平氏の勢力の衝突は、度々の戦乱を起したが、ついに源頼朝は平氏をたおし、鎌倉に幕府を開き、武家政治を見るにいたった。この鎌倉時代初期の防長の文化財史は、まず俊乗坊重源の奈良東大寺の再建にかかわるものといえよう。源平の戦乱によって焼失した奈良東大寺は、平家滅亡後にこれを再興することになり、周防国がその造営料国に充てられた。そして俊乗坊重源が東大寺再建の大勧進として周防国の国務の管理を下知され、周防国に下向した。時に1186年であった。この重源は東大寺再建の任務だけでなく、周防国すべての国務が重源に一任されたので、重源は国司上人と呼ばれた。東大寺再建の巨大な木材は、佐波川の上流の山林を中心に集められて奈良に運搬された。機械力の無い時、巨木の伐採、運搬は難事であったが、重源の信仰心と熱意によって、ついに東大寺の金堂や南大門などの大伽藍のほとんどが周防の材木によって完成した。
この時代は川上流の山で伐った巨大な材木は、佐波川の水流を利用して海まで運んだ。その水を満たすため、川の118ヶ所をせき止め、関水といわれる狭長な水路を特設し、流材通とした。この関水は今に2箇所残っていて国の史跡となっている。重源はまた山で働く人夫の疲れを癒すため、各地に石風呂を造ったが、現在も残っていて、「野谷の石風呂」が国の史跡、「岸見の石風呂」が国の有形民俗文化財となっている。
月輪寺薬師堂
 重源は周防にある時、多くの社寺の創建、再興、仏像の造立をなした。仏寺は防府の阿弥陀寺をはじめ、防府市、山口市徳地には重源創建の寺、再興の寺の寺伝をもつ寺院がいくつかある。その内山口市徳地の「月輪寺薬師堂」は、1189年に重源上人再興の建物と伝えられる。鎌倉時代の質実剛健な手法を見せていて、県下最古の建造物である。
しかしその他の重源創建の寺伝をもつ寺は、建物はその当時のものは残っていない。仏像では防府市阿弥陀寺に、重要文化財「木造重源坐像」があり、同じく阿弥陀寺山門には重要文化財「木造金剛力士立像」2躯があり、鎌倉彫刻の力強さを見せている。あわせて阿弥陀寺の重源遺品を見ると、建久8年(1197)銘のある国宝「鉄宝塔(水晶五輪塔共)」がある。鎌倉時代の仏教工芸品として他に例のない傑作である。重源関係の文書では、重要文化財「紙本墨書阿弥陀寺田畠注文並免除状」「紙本墨書東大寺領周防国宮野庄田畠等立券文」「周防国一宮造替神殿宝物等目録」などが、阿弥陀寺その他に蔵されていて、当時をしのぶことができる。
 さて重源関係以外の文化財では仏寺では、1320年に建立された下関市の「功山寺仏殿」がある。この仏殿は鎌倉時代、禅宗と共に中国から伝えられた新しい建築様式、禅宗様式の仏殿で、禅宗様式建築としては日本最古の遺構といわれ、国宝になっている。
 仏像は長門市油谷二尊院の「木造釈迦如来立像・木造阿弥陀如来立像」がある。この釈迦如来はいわゆる清凉寺式釈迦像といわれる特異な形式である。文永5年(1266)の胎内銘があり、重要文化財指定の美しい仏像である。
 鎌倉時代の防長の仏像として忘れてならないものに、萩市大照院の重要文化財「木造赤童子立像」がある。赤童子は天孫降臨の時の使者である春日大明神であるといわれている。木造では全国的にみて他に例がなく珍しい。
 肖像彫刻として、山口市源久寺に「木造平子重経(沙弥西仁)坐像」がある。重経は源頼朝に仕え、地頭として仁保に下向した武士で源久寺の開基である。等身大の像で、法体ながら武人の気迫をただよわせる傑作である。県下では他にない鎌倉時代の肖像彫刻として価値が高い。
功山寺仏殿
 鎌倉時代の仏像で、県指定有形文化財となっているものは、柳井市浄光寺の木造薬師如来坐像、防府市国分寺の「木造阿弥陀如来立像」、山口市竜蔵寺の「木造千手観音菩薩坐像」、宇部市瑞松庵の「木造十一面観音菩薩立像」、平生町神護寺の「木造地蔵菩薩坐像」などがあり、まだこの外にも多くの如来、菩薩の秀作を見る。鎌倉彫刻の特色ともいうべき、活動的、写実的な技法を反映する仏像として明王、天部の像も当時のものがいくつも残っていて県有形文化財となっている。また鎌倉時代には、金銅の一光三尊立像、いわゆる善光寺式如来といわれる形式の仏像が全国的に造られるが、県下にも長門市極楽寺その他にそれが伝わり、極楽寺のものは県指定有形文化財となっている。
 仏教文化財の工芸品では、先に述べた国宝阿弥陀寺鉄宝塔は別格であるが、その他のものに鰐口、銅鐘がある。県立山口博物館寄託の「鰐口」は、弘長元年(1261)の銘がある。表面は鍍金されていて美しい。小型であるが全国的に見て古い年号を持つ珍品である。防府天満宮蔵の文応九年(1261)銘の「梵鐘」は、もと福岡の天福寺の鐘であるが、銘は陽鋳、形姿は堂々として秀作である。 紙本著色松崎天神縁起 箱入
  絵画としてはまず防府天満宮の重要文化財「紙本著色松崎天神縁起」6巻がある。菅原道真一代の垂験を現わし、松崎天神社開創の由来が述べられている。奥書に応長元年(1311)とある。色彩は美しく鎌倉時代絵巻形式が整った頃のものとして貴重である。  仏画では下関市国分寺の「絹本著色十二天曼荼羅図」がある。この種の曼荼羅ではわが国唯一のもので、重要文化財である。下関市豊田町神上寺には「絹本著色仁王経曼荼羅図」(重要文化財・県立山口博物館寄託)「絹本極彩色理界曼荼羅・智界曼荼羅」2幅の優品がある。岩国市徴古館蔵の「絹本着色仏国国師像」は14世紀初めの頃のもので、県下では最古の頂相である。県指定有形文化財。石造文化財も県下には鎌倉時代のものが残っている。
 山口市源久寺の「宝篋印塔」は鎌倉中期頃の作である。防府市護国寺の「笠塔婆」は、貞永元年(1232)の銘文があり、笠塔婆として全国的にも珍しい遺品である。
長寿寺十三塔 五輪塔では、長門市油谷二尊院のものが、無銘であるが、鎌倉様式の美しい五輪塔である。萩市長寿寺の十三重塔は、県下の石造層塔のうちで、最古、最美のもので、嘉元4年(1306)の刻銘がある。石塔婆としては、周防大島町浄西寺の石塔婆2基があり、建仁2年(1201)の銘がある。長門市永福寺の石塔婆には寛喜元年(1229)の銘があり、浄西寺の石塔婆と共に県指定有形文化財となっている。

ページトップへ

6.室町時代の文化財

 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の建武の新政も、わずかでくずれ、天下の政権は足利氏がにぎった。しかし後醍醐天皇は吉野の行在所で政治を執り、足利氏の奉じた天皇も京都にあったので、世は南北両朝に分裂して、約60年間相争うことになる。この時代を南北朝時代として区切る見解もある。しかし防長においては、大内氏が足利幕府成立以後、幕府の側近として勢力を持ち、その後2世紀半にわたって防長をふくむ西日本の覇者として、山口に住したので、南北朝時代をふくめ、この時代を室町時代として述べることとする。
 室町時代は、当初は長門に厚東氏が在り、長門守護に補せられていたが、1358年に大内弘世が長門に兵を出してこれを降ろした。以後大内氏は、周防山口の地に居館を構え、ここを本拠として中国地方と九州に250年間権力を振うのである。この室町時代には、大内氏の繁栄にともなって、大内氏およびその一族の建立した社寺は山口を中心にたいへん多くあった。
 室町時代の神社建築として第一にあげられるものは下関市の国宝「住吉神社本殿」である。1370年大内弘世の造営したものであるが、今までの本殿形式にとらわれない、九間社流造の横長の屋根に五つの千鳥破風を付けた形式は他に例がない特異な本殿である。山口市の「平清水八幡宮本殿」は形式の古い蛙股があり、室町時代初期頃の建築である。山口市の「今八幡宮本殿拝殿楼門」はそのすべての建物が連結されていて、山口地方独特な形式であるが、やがて17世紀頃から多くなる権現造りの先駆的な形式として考えてよいものである。山口市「古熊神社本殿拝殿」も今八幡宮と同形式であるが、本殿が入母屋造りとなっている。光市「石城神社本殿」は室町時代中期の建物であるが、春日造り形式の本殿としては、全国的に見ても大きなものである。以上の神社建築は、みな重要文化財である。神社建築の再建に際しては、今までの形式をそのまま踏襲するのが普通であるが、大内氏がかかわった神社は、みな規模が大きくなり、また今までの形式にこだわらない気風を見せている。 住吉神社本殿
 室町時代の寺院建築の遺構としては、まず山口市の国宝「瑠璃光寺五重塔」があげられる。この塔はこの地にあった香積寺の塔として、1441年に建立されたものである。室町時代のすぐれた建築の一つであるとともに、大内氏隆盛時の文化を示すものとしても意義が深い。山口市の「洞春寺観音堂」も室町時代の古建築である。もと滝の観音寺の仏殿として創建されたものである。禅宗様建築の特異な建物である。「洞春寺山門」も室町建築で、この地に早くあった国清寺の遺構とみられる。観音堂と共に重要文化財である。
 山口市の「龍福寺本堂」は、大内地区にあった興隆寺の釈迦堂を移築したものである。興隆寺は大内氏の氏寺であり、防長第一の大寺であったが、明治になり衰退し、釈迦堂も移されたのである。この建物は1523年の建立で、内部の太い欅の丸柱や、大きな梁、板蛙股などよく室町時代の寺院建築の特色をみせている。下松市の「閼伽井坊塔婆(多宝塔)」はいわゆる多宝塔と呼ばれる形式の塔で、室町時代末期の建築である。木組が繊細で形状が美しい。竜福寺本堂もこの塔婆も重要文化財である。
 仏像は室町時代になると、彫刻史の上からも衰退をたどるのであるが、初期の仏像には大作があり、見るべきものも少なくない。周防国分寺本尊の「木造薬師如来坐像(金堂安置)」は、国分寺が1417年に焼亡した後に、再建された金堂に新しく安置された本尊で、大内盛見によって再興供養がなされたという。像高195cmの大作で、室町彫刻の大作は全国的にみても数が少なく、この像は中国地方における代表的遺品として、近年重要文化財になった。
 山口市清水寺の「木造金剛力士立像」も一木造りの大作である。また宇部市の東隆寺の「木造地蔵菩薩坐像」や、萩市仏光寺の「木造文珠菩薩騎獅像」などは時代を代表する仏像で、県指定有形文化財となっている。特異な彫刻として、山口市平清水八幡宮蔵の「木造獅子狛犬」一対がある。底部に応安六年(1373)の墨書銘があり、製作年代のはっきりする狛犬としては最古級のものである。
 さらに室町時代には、禅宗寺院の開山・開基の頂相が、彫刻や絵画により造られるようになる。頂相は全国的にみれば、鎌倉時代から製作されるようになるが、防長では室町時代から盛んとなり秀作もある。その内県指定有形文化財になっているものは、山口市洞春寺蔵の「塑造竜岡玄珠禅師坐像」「木造石屏子介禅師坐像」「木造大内義弘坐像」「木造大内盛見坐像」「木造大内持盛坐像」や美祢市秋芳町自住寺蔵の「塑造寿円禅師坐像」、萩市大照院蔵の「木造義翁和尚倚像」などがある。
 絵画の頂相は山口市瑠璃光寺にある開山、二世、三世のものが有名である。特にこの二世「絹本着色岩東純和尚像」は、雪舟の落款があり、雪舟77歳の筆とされる。宇部市東隆寺には、「普応中興大建禅師画像」の頂相がある。これらの頂相は県指定有形文化財である。
 開基の画像としては、周南市竜豊寺の「絹本著色陶弘護像」がある。文明16年(1484)牧松周省の賛があり、重要文化財である。宇部市東隆寺には厚東武実の画像がある。山口市竜福寺の「絹本着色大内義隆画像」は義隆が自刃した際、菩薩戒を授けた大寧寺住持の異雪慶珠の賛があり資料的にも貴重である。ともに県指定有形文化財である。
 室町時代中期、画僧雪舟は山口に移り住み、半世紀の間、山口の雲谷庵を本拠として画筆をふるい、多くの作品を残し、また沢山の弟子を養成した。雪舟は50歳の頃、大内氏の遣明船に乗って大陸に渡り、禅を学び絵を学んだ。帰朝後も山口に住した。防府毛利報公会蔵の国宝「紙本墨画淡彩四季山水図」は、雪舟67歳の時の作品で、全長16mの山水大絵巻は雪舟の最高傑作である。山口県立美術館には雪舟筆の山水小巻と呼ばれる重要文化財「紙本墨画山水図」があり、さらに重要文化財の「紙本淡彩牧牛図」の牧童渡河の雪舟筆が2図蔵されている。雪舟は71歳の時弟子に自画像を描き与えたというが、その原図は今伝来せず、江戸時代の初期に雲谷等益(うんこくとうえき)が写したものが、山口市常栄寺に残っていてその姿をしのぶことができる。県指定有形文化財である。 紙本墨画淡彩四季山水画 雪舟筆
紙本墨画山水図 雪舟筆  雪舟関係以外の絵画としては、山口市古熊神社蔵の「紙本墨画天神図」がある。画家は不明であるが、禅僧惟肖の賛があり、室町初期の作品とわかる。重要文化財である。下関市豊浦町三恵寺蔵の「紙本墨画白衣観音図」も室町初期の絵で、応永24年(1417)の賛がある。県の有形文化財。また萩東光寺蔵の「絹本着色釈迦三尊像」および、下関市住吉神社蔵の「板絵着色繋馬図」は共に雲渓永怡の画である。彼は雪舟の流れをくみ、16世紀前半に防長で活躍したといわれる。共に県指定文化財である。
 室町時代末になるが、武将の肖像として防府毛利報公会蔵の「紙本著色毛利元就像」があり、山口豊栄神社には「絹本著色毛利元就像」がある。共に重要文化財であるが、豊栄神社の画像は元就66歳の時の寿像である。また山口県立博物館蔵の「絹本着色尼子晴久像」「紙本着色尼子経久像」も室町末期の肖像画であるが共に戦国時代の雄将の風貌をよく伝えている。県有形文化財である。山口市源久寺蔵の「絹本着色仁保弘有像」は、室町中期の絵である。雪舟と共に渡明した天与清啓の賛があり貴重である。
 室町時代の工芸品では鰐口、銅鐘がわりと多く残っている。国の重要文化財指定のものでいうと、鰐口では山口市今八幡宮(山口市歴史民俗資料館寄託)のもので、天文3年(1534)の銘があり、大内義隆寄進で、直径85cmの巨大なものである。梵鐘では、山口市興隆寺にある大内義隆寄進のものが、総高2mに近い巨鐘で、享禄5年(1531)の銘があり、出来栄えも立派で、大内氏の財力と文化を示す遺品である。
鰐口(大内義隆寄進)
有光家文書  県下の古社寺・名家では、中世から近世にかけての古文書を多く蔵していて、文化財に指定されているものがある。「赤間神宮文書」「忌宮神社文書」が国の重要文化財。「住吉神社文書」「防府天満宮文書」「周防国分寺文書」「日置八幡宮文書」などが県有形文化財である。名家の文書としては、「毛利家文書」「吉川家文書」「熊谷家文書」「有光家文書」が重要文化財。「安尾家文書」「武久家文書」「兄部家文書」などが県有形文化財である。また、宇部市東隆寺蔵の「南嶺和尚道行碑文」は禅僧入寺を書きしるした文書であるが、伝来するものが少なく珍しい。
 この時代に、和歌などを書いた筆跡として、足利尊氏外三人筆の忌宮神社蔵の「紙本墨書豊浦宮法楽和歌」と、連歌師宗祇ら筆の、住吉神社蔵の「住吉社法楽百首和歌短冊」が重要文化財となっている。 室町時代の写本として、赤間神宮蔵の「紙本墨書平家物語(長門本)」がある。この長門本平家物語の祖本完成は鎌倉時代末を下らないといわれるが、この写本は室町中期頃とされる。重要文化財である。吉川家蔵の「紙本墨書吾妻鏡」48冊は、大永2年(1522)右田弘詮の奥書のある写本で、吉川本吾妻鏡として世に知られる。重要文化財。同じく吉川家に伝わる、「太平記 吉川元春筆」41冊は、1565年に吉川元春が陣中で写したもの。「元亨釈書 吉川経基筆」15冊は、経基(1428~1520)の筆写になるもので、共に重要文化財である。
紙本墨書豊浦宮法楽和歌 紙本墨書吾妻鏡
 中世禅宗寺院には、それにふさわしい庭園が造られた。山口市にある「常栄寺庭園」は室町時代中期の庭で、池を中心に岩を豊富に配置している。雪舟作庭という伝承があり、国指定の史跡名勝である。宇部市「宗隣寺庭園」は古く室町時代にあった普済寺の池庭を改修整備したものといわれ、夜泊石風に配した立石や、干潟様の岸など特有の意匠を作り出している。国指定名勝である。光市「普賢寺庭園」も室町時代の本格的な枯山水庭園で、県指定の名勝である。
 室町時代の史跡として、現在竜福寺の境内となっている「大内氏館跡」、八坂・築山両社の境内となっている「築山館跡」。大内義長が築いた「鴻峰城跡」。吉敷に大内義興が創建したという「凌雲寺跡」の4か所が「大内氏遺跡附凌雲寺跡」として国指定の史跡となっている。これらの遺跡は近年発掘調査がなされているが、それが完了すれば全容がはっきりするであろう。
 防府市の「敷山城跡」は建武中興で、足利方に対して戦った、周防国衙の清尊・教乗らがたてこもった山城である。国指定の史跡。宇部市の「霜降城跡」は厚東氏の居城であった。周南市の「若山城跡」は大内氏の重臣、陶氏の本城であった。共に中世の山城として県指定史跡になっている。
常栄寺庭園
大内氏遺跡附凌雲寺跡


ページトップへ

7.江戸時代の文化財

 江戸時代周防・長門の地は、大内氏のあとを受けついだ毛利氏が領主となり、萩に城を築き藩と称した。萩城は1604年(慶長9)に着工、5年後に完成した。五層の天守閣や本丸・二の丸・三の丸・藩主居館・諸役所の建物などがそなわり、雄藩にふさわしい城構えであったが、明治初年全部の建物が解体された。現在は石垣と堀だけが残り、国指定史跡となっている(萩城跡)。1604年、幕府は各大名にその領地の絵図を提出させたが、その時の控図が宇部図書館に蔵されている(慶長国絵図 控図)。家老福原家に伝わっていたもので、全国唯一の依存例であるといわれる。歴史資料として重要文化財となっている。
 萩は江戸時代260年間城下町として栄えてきたが、江戸末期に藩庁が山口に移り、つづいて明治維新となったので、萩の武家屋敷や街路はよく温存されて今に至っている。萩市呉服町・南古萩町は「萩城城下町」として史跡となっており、旧藩時代の侍屋敷の姿をそのままみることができる。また堀内地区平安古地区は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、今もよく往時の侍屋敷の地割りの跡などをとどめている。
 萩から江戸への参勤交代の道であった「萩往還」は、萩を出て、山口を通り、三田尻港への道であるが、江戸時代のおもかげをとどめる箇所も多くあり、史跡として保存されている。
萩市に残る「旧萩藩御船倉」は、藩主の御座船を繋留する船倉で、両側の石壁の上に本瓦葺の屋根がある。屋根が残る御船倉は全国唯一の例である。
 萩藩では藩士の子弟の教育施設として、1719年に藩校明倫館を創建したが、1849年、さらにそれを移転新築して、施設の拡充を図った。現在その一部である「明倫館水練池及び有備館附明倫館碑」が残っていて国指定史跡となっている。萩藩の重臣達は、その領内に郷校をつくり子弟の教育に当っていたが、現在郷校の建物が残っているのは、周南市の徳修館だけである。三丘領主宍戸氏が1809年に創立したもので、県有形文化財となっている。
萩城城下町
 萩藩主は毛利輝元の嫡男秀就が初代で、以下幕末の毛利敬親まで十三代となるが、この輝元以降の藩主及びその夫人一族の墓は、萩市の天樹院・大照院・東光寺、山口市の香山墓地にあり、国指定の史跡である(萩藩主毛利家墓所)。
 岩国6万石を領有した吉川氏一門の墓所(岩国藩主吉川家墓所)は、岩国市横山にある。十一代の当主とその夫人子女の墓が51基あり、大型の五輪塔が多く、豪華である。県史跡指定となっている。
 萩藩の生産遺跡として萩市の「萩焼古窯跡群」がある。17世紀初頭に萩藩の御用窯としてはじめられ、19世紀後半まで操業された陶器窯跡群である。萩市の「須佐唐津古窯跡群」も17世紀初頭に開かれた陶磁器窯跡群で、萩焼の成立とは違う歴史的動向の中で行われている。共に県指定史跡。
 萩藩は江戸時代初期から、海岸の干拓を進め、耕地の拡大に努めたが、その遺跡として「周防灘干拓遺跡 高泊開作浜五挺唐樋 名田島新開作南蛮樋」が国指定史跡となっている。平生町の「土手町南蛮樋」も干拓遺跡で、県有形民俗文化財である。
 江戸時代、稲作りのための用水を得るための水路工事は、種々の方法でなされているが、周南市の「潮音洞」は山をくりぬいた水路で、これにより広い新開作が水田となった。県史跡である。周防大島町の「庄地のスイドウ」は、トンネル状水路で、この地方独特の水田の用水路である。県指定有形民俗文化財。
 阿武町の「白須たたら製鉄遺跡」は江戸時代の製鉄遺跡で、砂鉄から鉄を製するための製鉄炉、附属建物などの遺構が存する。日本の伝統的な製鉄の歴史を理解するうえで重要な遺跡で、国指定史跡。萩市の「大板山たたら製鉄遺跡」は、江戸中期から後期にかけて操業されたもので、高殿、元小屋、鍛冶屋、砂鉄掛取場、鉄池など、たたら製鉄関係の諸施設がほぼ完存している。県指定史跡である。
周防灘干拓遺跡 関連画像001
周防灘干拓遺跡 関連画像002

 「萩反射炉」は幕末萩藩が、兵器製造のために築造した製鉄所跡である。近代日本の産業上貴重な遺跡で、国指定史跡である。
 長門市青海島通浦は、近世日本において捕鯨地の一つであったが、その「長門の捕鯨用具」140点が、重要有形民俗文化財として国指定になっている。またこの地には鯨供養のために建立された「青海島鯨墓」があり国史跡となっている。
 幕末萩藩は、外国の侵略に対して日本を守るため、封建社会を廃して近代国家をつくることに努力した。そのため幕府と対抗し、ついに長州征伐を受けるに至った。しかし萩藩はよくこれに勝ち、ついに幕府は崩壊し明治維新となり、近代国家が成立した。この幕末維新に関係する遺跡は多く残っているが、以下国指定史跡になっているものについてあげておく。
松下村塾」は吉田松陰が幽囚中に主宰した私塾で、松陰はここで、塾生の身分や階級にとらわれず、兵学、漢学、歴史、地理、和算などを教育した。のち幕末維新の原動力となる久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文ら多くの人材が輩出した。
吉田松陰幽囚ノ旧宅」は松下村塾の近くにある松陰の実家杉家のことで、建物はそのままよく残っている。長門市にある「村田清風旧宅及び墓」は、幕末萩藩の財政に寄与し、兵備を整えた重臣の遺跡である。「木戸孝允旧宅」は幕末維新の時、萩藩の中心人物として働いた木戸の出生した家である。「伊藤博文旧宅」は幕末維新の動乱を経て、明治の政界に重きをなした伊藤が、幕末萩において住んでいた家で、そのままよく残っている。幕末奇兵隊を組織して、長州征伐を勝利にみちびいた高杉晋作は、明治維新をまたず病死したが、その「高杉晋作墓」は下関市にある。 松下村塾

 大村益次郎は、洋学をもって長州藩に仕え、長州征伐には参謀として幕府軍を破り、戊辰の役にも大功があった。明治新政府において国軍の改正を推進したので反対派に斬られた。「大村益次郎墓」は山口市にある。幕末、宮廷尊攘派の先頭に立って活躍した中山忠光は、大和の義挙に破れて長州へのがれたが、ついに豊浦で暗殺された。「中山忠光墓」は下関市にある。
 県下には江戸時代の神社で、国の重要文化財になっているものは「秋穂正八幡宮本殿・拝殿・楼門及び庁屋」だけである。1740年の再建で、この神社の形式は、本県独特の楼拝殿造りを踏襲した大規模の社殿で、県下の江戸中期の代表的な神社建築ということができる。神社ではこの外岩国市の「吉香神社本殿・拝殿・神門」が県有形文化財である。1728年の造建、おだやかで形の美しい社殿である。和木町の「瀬田八幡宮本殿」も山口県有形文化財である。1715年の建立で、三間社流造り、全体に装飾的要素が少なく、古形式をとどめている。
東光寺大雄宝殿・鐘楼・三門・総門  寺院ではまず萩市の「東光寺大雄宝殿・鐘楼・三門・総門」が重要文化財である。東光寺は1691年に毛利吉就が創建した黄檗宗の寺院で、藩主の菩提寺の一つである。本瓦葺の大伽藍は黄檗宗建築独特のふんいきをもっている。
 防府市の「周防国分寺金堂」も重要文化財である。奈良時代からの国分寺境内地に建つこの金堂は、1780年の再建である。入母屋造り本瓦葺きの仏殿は、江戸時代のものとしては本格的で豪壮なものである。国分寺楼門は1596年の再建で、県有形文化財である。萩市の「常念寺表門」は1633年の建築で、本瓦葺きの四脚門である。国指定重要文化財。
 萩市の「大照院庫裡」は1750年に再建された建物で、藩主菩提寺の庫裡にふさわしい大伽藍である。県有形文化財。萩市の「西堂寺六角堂」は江戸時代中期頃の建築、六角円堂で特異な建物である。この地の須佐大工の作であるという。県有形文化財。
 江戸時代の民家には重要文化財指定のものが下記のように8件ある。萩市の「菊屋家住宅」は5棟あり、当家の古記録に万治3年(1660)の建造とある。全国的にも最古に属する大型の町屋である。同じく萩市の「熊谷家住宅」は4棟の建物が指定になっている。江戸時代後期の地方豪商の冨を示す大規模で意匠も洗練された建物である。萩市の「口羽家住宅」は、萩藩の大身の武士の住んでいた堀内地区にそのまま残っており、萩城下の上級武家屋敷の遺構としても古く、全国的に例の少ない武家屋敷として貴重である。岩国市の「旧目加田家住宅」は、岩国藩士の本格的な武家住宅である。 菊屋家住宅
萩市の「森田家住宅」は、江戸中期の建物である。森田家はこの地の庄屋を勤めた家で、江戸時代上層農家の遺例として貴重である。柳井市の「国森家住宅」は、全体を白漆喰塗りの土蔵造りとした二階建の建物である。油類の製造販売を業としてきた富商の住宅である。長門市の「早川家住宅」は江戸時代中期末の建物である。全国的にも数少ない漁家の遺例として貴重である。
 萩市の「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」は1856年の建物である。長さが51mあり、萩に残っている武家屋敷の長屋遺構では最も長大である。
 建築ではないが、建造物として忘れてならないものに、国指定名勝となっている岩国の「錦帯橋」がある。1673年、岩国藩主吉川広嘉が創建したものといわれ、日本三大奇橋の一つとして有名である。
錦帯橋  以上の外、次の建造物は山口県有形文化財に指定されているものである。岩国市の「香川家長屋門」、萩市の「旧福原家萩屋敷門」・「旧梨羽家書院」、周南市の「山田家本屋」、山口市の「旧山口藩庁門」。
 江戸時代末、狩野芳崖が長府に住していた頃、頼まれて神社などに奉納の額を何枚か描いている。現在「狩野芳崖筆板絵着色絵馬」として6面が県有形文化財となっている。山口市徳地の花尾八幡宮に、県有形文化財「ガラス絵泰西風景図・長崎港図」が2面ある。1850年の絵で、ガラス絵研究のよい資料である。

ページトップへ

8.明治・大正の文化財

 県下で明治・大正の文化財ということになると、建造物だけである。まず国の重要文化財指定のものに「旧下関英国領事館」がある。煉瓦造の二階建で、1906年の建築である。領事館として使用することを目的に建てられた建物としては、我が国に現存する最古のものといわれる。重要文化財「山口県旧県庁舎及び県会議事堂」は1916年の竣工。共に煉瓦造の二階建。大正初期の煉瓦造りの公共建物としては数少ない遺構である。
 国指定名勝の「毛利氏庭園」は旧萩藩主毛利家の邸宅に付随する庭園として、大正初年に築造された。池泉回遊式の和式庭園で、広大豪華な庭である。
 以下は県指定有形文化財の建造物となる。岩国の「岩国学校校舎」は木造二階建、1870年の建築で、明治初期の学校建築として特異な建造物である。萩市の「萩学校教員室」は1887年頃の建築。明治洋風学校建築の代表的なものである。下関市豊北町の「旧滝部小学校本館」は1924年の建築。洋風手法をとり入れた二階建で、設計はドイツ人技師とも伝えられている。上関町室津にある「四階楼」は1879年頃の建築、最初は住宅店舗ないしは汽船宿であった。木造四階建の洋風建物は珍しい。光市の「旧伊藤博文邸」は、1910年の建築、二階建の洋風建物である。工事進行中に伊藤博文はハルピンで死去したので、入居はしないままである。
山口県旧県庁舎及び県会議事堂  山陽小野田市に県史跡になっている「小野田セメント徳利窯」がある。近代日本最初の民間セメント会社のセメント製造竪形焼成窯で、生産遺跡としても記念碑的なものである。

ページトップへ