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文化財要録コンテンツ

名称関連文化財名称周防祖生の柱松行事
要録名称周防祖生の柱松行事
指定関連指定区分・種類重要無形民俗文化財
指定年月日平成1年3月20日(文部省告示第28号)
所在地関連所在地山口県岩国市周東町祖生中村・山田及び落合
所有者関連所有者

保持者関連
保持者

【保護団体】

祖生柱松行事保存会

 中村柱松保存会(祖生中村)

 山田柱松保存会(祖生山田)

 落合柱松保存会(祖生落合)



文化財詳細
由来及び沿革

【行事の由来又は沿革】

 柱松行事の起源は明確ではないが、中村に座す新宮神社の記録(「座土社諸控早採略記」)によれば、藩政期の享保19年(1734)

に村内の牛馬多数斃死につき、7月18日より3日間新宮神社において祈念し、これよりさき7月14日に高灯明を立てて立願し、柱松の行事を企てるとある。

 祖生地区は岩国藩領で、享保の大飢饉の惨状を語る資料もあり(「史枯記」「岩邑年代記」)、自然の脅威の前に只管六根を清め、虚空に聖火を献じて除厄と豊作を祈念する行事として始まったものと思われる。

 行事の方法が誰によって創案もしくは伝授されたかは不明であるが、豊浦郡豊浦町で行われている柱松行事の由来には旅僧から伝授されたという言い伝えがある。この時期の火祭行事には、祖霊の迎え火、送り火という盆の仏事に関連するものが多いが、祖生の柱松行事はすべて神事として執り行われる。

 落合の場合は、除厄神である牛頭天王(中村地区には氷室神社の風の神、山田地区は若宮神社の八幡神)を祭り、地上の不浄を燃し牛馬の安全を祈るとともに、神への献灯として執り行ったのである。

 開催日については3地区とも異なっている。各々の開催日の定められた理由は不明であるが、中村地区の16日は送り盆の日として全国各地で祖霊送りの火祭が行われる。ただ、本来は14日に柱松の立て起しが行われていたとのことから民俗信仰上の日待ちの意味があったとも思われる。

 19日については不明である。

 23日は地蔵盆の日で、盆の終りという意味があり、季節では処暑にあたる。

 現在、中村と山田では柱松行事に盆踊りを兼ねることがあり、落合では花火大会も同時に開催し、玖珂地方の最後の夏祭りとして観覧者も多い。

 柱松の行事内容は3地区とも共通であり、簡素な内容であるが、それだけに農民の純朴に対して敬虔な思いが伝わり、民俗行事としての雰囲気をよく醸し出している。

 なお、松明を投げ揚げるには熟練を要し、そのために子供用の柱松が立てられ、地元の小中学生達によって行事が執り行われる。

 後継者養成の配慮があり、同時に農民の健全な娯楽であった。

(資料)

 享保17年(1732)

  12月3日、岩国領内の虫枯損 毛水損干損供に一万九千石と 報告あり。

                  (「虫枯記」)

  是春昨年岩国領内虫枯につき、職座相談役香川安左衛門ほか2名が村々を巡回して困窮百姓へ麦・塩・ぬかなどを施し、また粥の焚出しを行う。

                (「岩邑年代記」)



内容

(落合地区を中心として)

(1)張り縄作り

 張り縄は、柱松を支える藁縄で、3本用意され内1本を毎年作り替える。

 径約10㎝、長さ60~70mの太い縄を綯うために一週間前から作り始められるが、三ツぐりの左縄を4人の人が全て手作りで掛け声をかけながら綯ってゆく。

(2)鉢作り

 鉢は柱松の先端に取り付けられる直径1.5m、深さ1mの漏斗状のもので、本竹の根元を8つに割り、別に作った大・中・小の竹の輪を3段に取り付け、その周囲を麦藁で編んで作られる。

 前日もしくは当日に作られる。

 鉢の中には松明がのった時燃えやすい様に、鉋屑・紙袋に入った萩の粉(萩の葉を1週間ほど乾燥させたもの)・乾燥した桐の葉を詰める。

 鉢の真中には若竹を立て紙製の長旗を取り付ける。

 長旗には祈願内容の「天下泰平・五穀豊穣・牛馬安全(現在は家内安全・交通安全なども加える。)」の文字を大書する。

(3)止め杭作り

 柱松を立てる時に足固めとなっている杭で、周囲2m、深さ2mの穴を掘り、その中に3本の杭を打ち込む。

(4)胴木作り

 胴木は柱松の本体となるもので、3本の松丸太を三角形に組み、50㎝間隔に作業直前に山から採取した生の太い藤蔓で5重に巻き、掛け矢で打ちながら固く縛る。

 3本組にしたものを2段につなぎ、最後には1本の松を継ぎ、それに鉢の竹を差し込む。

 胴木の長さは落合の場合で平年で12.5間、閏年は13間といわれるが厳密なものではなく、現在は約11間(20~21m)になっている。

(5)松明作り

 打ち上げに使われている松明は通称タイと呼ばれる。

 直径5㎝の金輪に長さ15㎝ぐらいの小松を差し込み、長さ約1mの藁縄の緒を付ける。

 緒をかつては藤蔓で作られていた。

(6)立て越し

 柱松が出来あがると立て起しの作業に入る。

 場所は清浄を重んじるため、人家を離れた場所である河原や山上で行われるが、火気を使用するので防災上の理由もあったと思われる。

 中村・山田地区の場合は比較的広い場所であるが、落合地区は島田川の左岸巾約3mばかりの堤防上であるため困難をきわめる。

 柱を立てる前には、塩と酒を柱松にふりかけてお祓いをし、宰領の「ホ-ラヒイチョクレ」の合図によりかんまた・才取りと呼ばれる手製の道具を使い、徐々に柱が起されてゆく。

 この作業に従事する者は約20名ばかりの男性である。

 本来柱松行事は男性のみ参加が許されていたが、昨今では女性も作業に従事している。

 胴木の約3分の2の高さに張り縄が結ばれ、柱松が立つところの3本の縄により支えられる。

 張り縄は上から一の網、二の網、三の網と呼ばれ、各々北・南・東の方向に張られる。

(7)打ち揚げ

 鉢に松明を投げ入れることで、「柱松をうつ」或は「タイを打つ」といわれる。

 先ず柱松の根元近くに親火が焚かれ、寄せ太鼓を合図に打ち揚げが始まる。

 屈強な若者達が親火からタイに火を移すと、燃えるタイを勢いをつけて鉢をめがけて投げ揚げる。

 タイは鉢より高く上がり、落下する際に鉢に入るのであるが、20m以上の高さに打ち揚げるためには、腕力と技術を要し、容易には打てない。

 入っても燃え移らない場合は黒タイといわれ、打ったことにはならない。

 よく燃えているタイは揚がりにくく、よく燃えてないタイは黒タイになりやすい。

 柱松が打たれると、ジャギリと呼ばれる独自の揆さばきで太鼓をならして祝うとともに、お迎え火と称して全員が急ピッチでタイを打ち揚げる。

 夜空に燃えあがる炎と、鉢から萩の粉や桐の葉が火の粉となってこぼれ落ち、その様は柱松行事の圧巻である。

(8)その他

ア 落合の柱松行事には、大正12年から地元の人の発案で鉢に数10本の花火が取り付けられ、着火とともに花火の華々しい光の饗宴が演じられる。

イ 子供用の柱松は、落合の場合3本立てられ、行事の内容は全く大人のものと同様である。

 現在は大人の行事と同日に施行されているが、かつては夏になると河原に柱松を立て、練習を兼ねて自由に打っていた。

(9)まとめ

 以上のことから祖生の柱松行事の性格については、新宮神社の古記録にみられるように、牛馬安全を祈願する神事として始まり今日まで執り行われてきたのであるが、県内の他の柱松行事と比較した場合、内容において大きな差異はみられず、他の行事に共通する性格が含まれていると考えられる。

 鉢上の長旗に書かれた五穀豊穣の文字や、中村地区の月待ちの日取り、或は豊浦町の場合の由来に見られる英彦神社の御田植予祝行事などから、夏祭り一般に共通する秋の豊穣のための祭であったことがうかがえる。

 松明の投げ揚げは力と技術の競技であるのだが、同時に豊穣を占う、いわゆる年占の意味をもつ行事でもある。

 また、「風土注進案」熊毛宰判岩田村の項にみられるように、無縁法界の聖霊追善のためという祖霊迎え、祖霊送りの盆行事の火祭りであったこともうかがえる。

 岩田村の場合、鉢の上の長旗には「梵天聖霊御休足所」と書かれたとある。

 こうしたものが過去250年間連綿と絶えることなく続けられてきた間に習合してきたが、地元の人々の意識は当所のままなのである。

 火のもつあらゆるものを清め浄化する力への素朴な信仰心がこの柱松行事の性格にみられ、特に祖生の三本松として知られるこの地区に3ヶ所まとまって存続していることは貴重な例である。

 また、冬の火祭り行事として知られる阿月神明祭(県指定無形民俗文化財、昭和56・12・2指定)が上元の火祭りであるのに対して、祖生の柱松行事は中元の夏の火祭りとして対照をなす好例である。



公開期日
8月15日(祖生中村)、8月19日(祖生山田)、8月23日(祖生落合)

参考情報関連
参考情報

(国指定以前の経過)

昭和57年11月5日 県指定無形民俗文化財  (本書-追(3)51-頁参照)

昭和59年度     記録作成(国庫補助)  報告書「祖生の柱松」(周東町教育委員会・1985年3月刊)

(参考)「周防祖生の柱松行事」(パンフレット 4頁 周東町教育委員会・1990年刊)

〔県内の柱松行事一覧〕

市町村名 実施場所 開催日/ 行事内容/ 由来沿革

光市 小周防 永代橋付近 毎年7月 最後の土曜日/祖生の柱松行事と同様/不詳であるが、子供達に火の役目を教え、また精霊迎え、無縁仏の供養等を目的とすると伝えられる。江戸時代から始まったと思われ、昭和39年に子供会行事として復活。中断後、昭和47年小周防青年団により再復活。

熊毛町 中笠野 毎年8月15日/祖生の柱松行事と同様/天保年間(1830~44)に害虫退治を目的として始まったと伝える。現在柱松保存会により施行。  

豊浦町 大字吉見野田 大字黒井大門 毎年8月8日 毎年8月13日/松枝を用いて作ったホ-ヅキを頂に取り付けた柱松を立て、下から若者達が手に松明を持ち、円陣を作って行進しながら唄を歌い、ころあいをみて投げ上げる。 ホ-ヅキの中には麦藁や枯萩などを入れる。/牛馬安全、祖霊迎えのためと伝えられる。 旅の僧(英彦山と関係あるか、英彦山神社には松会絵巻二巻の御田植予祝行事に火柱松あり)の伝授との言い伝えあり

長門市 東深川板持一区 毎年8月15日又は16日/4~5mの本竹にジョ-ゴ形の竹製のものをくくり中にホ-ヅキの形に藁を丸めて入れる。河原へ持ち出し、麦藁の小束や松明に火をつけたものを競って投げ入れる。/ 牛馬安全、魔除けのためと伝えられる。祖霊迎え火の意味もある。「注進案」では「牛灯」と記載。ギュ-ト-、ソ-ト-、ヨ-ト-、ホ-ヅキなどの呼称あり。

むつみ村大字吉部野田 毎年7年14日/ 10mぐらいの松柱に藁で囲った朝顔型のジョ-ゴを取り付け、中に竹や桧の葉を詰め、下から松明を投げ上げる。昔は田の中で行われ、柱松も高かったが現在は約4m。親火は石祠の中のロ-ソクの火を幣につけたもの。柱松が燃え落ちると、参加者は直会を行う。/牛馬安全のために約300年前かにはじまったと伝えられる。




画像
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