山口県の文化財

指定文化財の検索

文化財の概要

文化財名称

土手町南蛮樋

文化財名称(よみがな)

どてまちなんばんひ

市町

平生町

指定


区分

民俗文化財

時代

江戸時代

一般向け説明

  1658年(万治1)に8年の年月をかけて干拓された平生開作は、120ヘクタールの耕地と20ヘクタールの塩田をもつ周防東部最大の広さである。
 この南蛮樋は、開作地の西域を流れる水保川(熊川)河口に設けられたもので幅1.3m、長さ4.5m、総高6.3mで3基の水門からなっている。樋門はロクロ(滑車)の回転により板戸を上下させ海水防御と排水を図るもので、板戸の寸法は、幅107 、厚さ6 、高さ183の松材である。このロクロを当時は南蛮と呼び、いままでの唐樋門より精巧で操作のしやすいオランダ技法による樋門の意味で南蛮樋の呼称が用いられた。
 干拓地の耕地や塩田は、1日2回の満潮には海水面より低くなるため樋(水)門は必ず閉めなければならず、干潮時には上流からのたまり水を排水する為に必ず開かなければならないもので、樋門の開閉作業と監視の役割は干拓地の死活問題であった。
 平生開作(干拓)には42か所の樋門があるが、この樋門は県内で最も早い時期に設けられた南蛮樋門の一つで、1986年(昭和62)の大内川防潮水門・排水場の完成により300年余の現役としての使命を終えた。

小学生向け説明

 平生町の中心となっている平地は、今から約340年前の江戸時代に干拓(かんたく)によって開かれた土地です。
 干拓地を通る川には水門が築かれ、昔は樋門(ひもん)と呼ばれました。この樋門は1日2回の満潮には海水面が高くなるため必ず閉めなければなりません。また、干潮には、上流からのたまり水を出すため開かなければなりませんでした。樋門は干拓地の人たちの命にかかわる問題でした。 
 この樋門のなかで、オランダ式のロクロ(滑車)の回転により板戸を上下させることで海水を防ぎ、川水を排水する方法が取り入れられました。このロクロのことを昔の人は南蛮と呼び、これの付いた樋門を南蛮樋といいました。               
 とてもあつかいやすかったので、300年もの長い間使われました。

文化財要録

要録名称

土手町南蛮樋 

指定区分・種類

有形民俗文化財

指定年月日

平成2年11月6日

所在地

山口県熊毛郡平生町大字平生町字土手町704-23町道隣接地先

所有者

平生町

制作等の年代又は時代

 江戸時代
 記録上の初見は明和2年(1765)である(上関宰判本控)。しかし、元文3年(1738)平生村地下上申絵図上の土手町の「樋」は南蛮樋と考えられ、溯って万治の開設当初から南蛮樋であったと推定されている。
 従来、山口県下で最初の南蛮樋とされていたのは、延宝6年(1678)防府鹿角(カツノ)開作の例である。鹿角開作では筑前国で南蛮樋の製作について伝習してきたと伝える(御薗生翁甫「右田村史」・1954、後藤陽一稿・1986)。

製作者

未詳

由来及び沿革

 万治元年(1658)の平生開作140町歩は、周防東部地区で最大の開作(干拓)である。大野毛利氏の初代就頼によるこの開作には、慶安4年(1651)から8ケ年の年月のと、約5万6千人の夫役を費やし、約120町歩の耕地と20町歩の塩浜が完成した。これにより、宇佐木・大野の両村沖の干潟に「平生村」2109石余が誕生した。「平生村」の範囲は、ほぼ現在の平生町大字平生町及び大字平生村に相当する。この工事の犠牲者のため玖珂島山に1ケ寺が建立された。また、開作奉行の横道忠左衛門については、大正14年に250回忌石碑、昭和36年に顕彰碑が建立されている。
 開作工事にあたって、防潮堤は沖干潟に点在する玖珂島や野島を結ぶ線上に設定され、これと直交する人口河川として大井川、大内川、堀川、水保川(今の熊川)などが配置された。平生村の町方には当時、土手町・西町・戎町・野島・湊の地名があり、塩浜を背景として繁栄した在郷町が、いずれも防潮堤上に立地したことがわかる。また、浜鎮守として、延宝元年(1673)、濃島大明神(今の野島神社)が野島に鎮座した。毎年大潮の日(旧暦6月17日)には十七夜祭(管弦祭、オカゲン祭り)がある(平成2年は8月7日実施)。野島神社から神輿を奉じ南蛮樋で御座船(オカゲン船)に遷し、御座船は引潮と共に南蛮樋を出発して佐賀で折り返して巡行、途中の各港で神楽を奉納した後、満潮と共に南蛮樋に戻り、神輿が還御する行事である。ただし南蛮樋の下流に排水機場ができてからは、御座船は排水機場前を発着している。
 平生開作の樋門は、天保年間の記録によれば、42箇所を数える。そのうち南蛮樋は土手町南蛮樋1箇所のみで、「左右長石垣高さ壱丈、樋幅弐間、石樋4本、切石中はめ、入水門三ツ、戸落シ三枚」とされている(防長風土注進案)。なお樋門に南接する橋は、元文3年には「板橋」(幅9尺長2間)、天保年間には「石橋」(幅1丈長2間2尺)である。
 昭和41年にハンドル式樋門(県営潅漑排水改良事業)ができたが、この南蛮樋はその後もなお機能があり、同62年の大内川防潮水門・排水機場(県営高潮対策事業)の竣工により、その使命を終えたが、300年余の間、いわゆる海抜ゼロメートル地帯の住民の生産と生活を守る役目を果たしてきたものである。

構造及び形式

 樋門の海側にロクロによって開閉される板戸が装着してある。水門は3つ、従ってロクロ・板戸は3組あり、このロクロをナンバン(南蛮)と称する。ただし、大正時代までは、今の鉄製ハンドル型部分は使用されておらず、カシ材の棒を心棒部分にさしこんで回転させていたという。
 ロクロの心棒部分と板戸をナワで結び、ロクロを手動で回転させることにより、板戸を上下動させて、海水防禦と排水を図る。すなわち、干潮時には板戸を巻き上げて上流側からの余水を放流し、満潮時にはすばやく板戸を降ろして下流側からの海水進入を防ぐ。石柱(石樋)は4本あり、うち2本は中柱で、その両側に板戸が上下動できるように溝がある。中柱と対応して両岸にも側柱各1本があり、内側に同様な溝がある。
 両岸には布積みの堅個な石垣が築かれている。また、樋門の直下の川底には、板石が敷かれている。現在は木造の上屋があり、南蛮樋を保護している。
 1日2回の満潮時には必ず樋門を閉めなければならず、樋門の開閉と監視の役割は、平生村の死活を制する大切なものであった。この樋守の仕事は村(町)が個人に委託していた。樋守の仕事は、昭和41年の新樋門竣工まで300年余り続いたことになる。
 近世の開作に伴う樋門として、南蛮樋は、ロクロ(滑車)を使用する点で唐樋とは構造が異なり、より精巧な装置である。なお南蛮樋の名称は唐樋に対してオランダ技法による樋門の意味で用いられた。当地では「ナンマンヒン」、「ナマヒン」と呼ばれる。

品質及び形状

(寸法)
・樋門 縦横130cm×450cm(川幅390cm) 総高630cm(地上部150cm)
・ロクロ心棒 長さ95cm 太さ12cm カシ材 3本
 (鉄製ハンドル型部分 
 直径84cm 厚み2.7cm 鉄製 3箇)
・板戸(戸落し) 高さ183cm 幅107cm 厚み6cm マツ材 3枚
・中柱 高さ340cm 幅30×40cm 花崗岩製 2本
 (中柱の溝 高さ180cm 溝幅8×6cm)
・石垣(含・側柱2本) 高さ350cm 布積み 花崗岩製
・上屋 縦横130×450cm 高さ260cm 木造 1棟

地図

画像

土手町南蛮樋 関連画像001

土手町南蛮樋 関連画像002

土手町南蛮樋 関連画像003

土手町南蛮樋 関連画像004