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文化財の概要

文化財名称

正徳元年朝鮮通信使進物並びに進物目録

文化財名称(よみがな)

しょうとくがんねんちょうせんつうしんししんもつならびにしんもつもくろく

市町

山口市

指定


区分

重要文化財

時代

江戸時代

一般向け説明

 萩藩5代藩主毛利吉元が、1711年(正徳1)の朝鮮通信使から受納した進物およびその目録。目録により、人参・黒麻布・黄毛筆・真墨・色紙・栢子(はくし=チョウセンゴヨウの種子)・硯石・扇子が贈られたことがわかり、人参を除く他の品はほぼ当時のままの状態で残されている。正徳元年の朝鮮通信使は、徳川家宣が将軍職を継いだことを祝う使節であった。一行は8月29日に赤間関に到着して、9月1日に江戸に向けて出発しているが、赤間関での藩主自らの饗応に対する返礼として、同年11月13日に対馬藩主・宗家を介して江戸で贈られたものである。目録だけという事例は他にもあるが、目録とともに進物自体が残されているのは全国的にも例がない。

小学生向け説明

 1711年、萩藩主毛利吉元がを赤間関(今の下関市)でもてなしたことに対し、そのお礼として朝鮮通信使から受けた贈り物とその目録です。朝鮮通信使は、江戸時代、将軍の代替わりなどの時に、朝鮮国王から派遣された使者です。この年の通信使は、徳川家宣が将軍職を継いだことを祝うために訪れ、江戸に向かう途中で赤間関に立ち寄りました。目録とともに、品物自体が残っているものは国内にこの他には見られません。

文化財要録

要録名称

正徳元年朝鮮通信使進物並びに進物目録
 黒麻布 
 黄毛筆 
 真墨 
 色紙 
 栢子 
 硯石 
 扇子  
 目録 
 正徳元年十一月日通信使より毛利吉元あて
 付長持 
   文化八年八月の入日記がある

指定区分・種類

有形文化財(歴史資料)

指定年月日

平成5年6月10日

所在地

山口市春日町8番2号 (山口県立山口博物館)

所有者

山口県

制作等の年代又は時代

正徳元年(1711)以前

目録

(正徳元年朝鮮通信使進物並びに進物目録)

/名称/員数/法量(単位cm、縦×横×高さ)/備考/
一、黒麻布
/黒麻布/五枚/両端に縦に並んで黒印(大、小)と朱印がある。 印文は不明。
①幅三三.0長さ約一六五0 
②幅三二.0/ 片端に墨書「太賛」など。 
③幅三一.0 
④幅三一.五/ 両端に墨書(一方に「○」など、他方に「学」など)。
⑤幅三三.五/ 片端に墨書「二月」など。
包紙/五組/各々墨書「黒麻布 壹匹」。四枚一組、水引共。

一、黄毛筆
/黄毛筆/一九本/穂先迄の長さ二三.五 径0.九 全長(鞘共)二七.0/各々全長に若干の差異があるが、穂先までの長さはほぼ同寸。

一、真墨
/真墨/九丁/九.0×二.八×0.四
 包紙/一枚/墨書「真墨 拾笏 謹封」。

一、色紙
/色紙 五五枚/ 
①雲暗紙 一七枚/一一六.0×八0.0 (青色系一一五.0×七四.0)/茶色系一三枚、青色系四枚。/
     包紙/一組/ 墨書「雲暗紙 壹巻」、水引共、二枚一組。/
②雪花紙/二0枚/一0六.0×六六.0 /
     包紙 /一組/ 墨書「雪花紙 壹巻」、水引共、二枚一組。/
③青苔紙 /一八枚/ 一二五.0×七九.0/
      包紙 /一組/墨書「青苔紙 壹巻」、水引共、二枚一組。/

一、栢子
/栢子/一箱分/六000粒余。重さ約三kg。/
  箱/一合/五二.四×一六.六×九.六/蓋表に墨書「栢子」 端四か所に竹釘穴、桟蓋造、両側に封印跡

一、硯石
/硯石/一面/二二.二×一一.0×三.0/
 箱/一合/三二.四×一七.0×六.0/蓋表に墨書「硯石 壹面」(当初の書き込み)、蓋裏に墨書「硯石壱面 包紙共ニ」(毛利家整理時の書き込み)。端四か所に竹釘穴。四方に封印あと。/
包紙/一枚/墨書なし。

一、扇子
/扇子/一五握/頭の形状から三種に分けられる。紙鞘一二本分。/

  長さ四0.二(A-1) /鐶あり(A-1~6)。 
  長さ四0.四(A-2) /骨黒色。
  長さ三九.八(A-3)
  長さ三八.0(A-4) /骨黒色。
  長さ三八.四(A-5) 
  長さ三七.二(A-6) 
  長さ三八.六(A-7)  
  長さ三七.四(A-8) /要金具欠失。
  長さ三五.0(B-1) 
  長さ三三.六(B-2) 
  長さ三四.八(B-3) 
  長さ三四.六(B-4)   
  長さ三四.六(B-5) /緑(横骨)が狭い。
  長さ三九.四(B-6) /緑(横骨)が狭い。
  長さ三七.0(C-1) /要部分に象牙細工。
包紙/一枚/墨書「扇子 拾伍柄 謹封」。

一、目録
/目録 /一通 /三七.四×五九.二/
 包紙/墨書「奉呈/松平民部大輔公/謹封。」
(付)
/名称/員数/法量(単位cm、縦×横×高さ)/備考/
/長持/一竿/三0.0×一一六.0×二八.五/左右把手。黒漆塗。蓋裏に入日記一通貼付け。正面に張紙(墨書「信使進上物/さノ印/八ノ御帳」)がある。/

製作者

不詳

由来及び沿革

 萩藩5代藩主毛利吉元が、正徳元年(1711)の朝鮮通信使(正使趙泰億・副使任守幹・従事官李邦彦の三使)から受納した進物である。
 その内容は目録により、人参1斤・黒麻布5匹・黄毛筆20柄・真墨10笏・色紙3巻・栢子1斗・硯石1面・扇子15柄とわかる。
 進物各品は、人参を除き、ほぼ当時のままの状態で伝わっている。いわゆる「文房四宝」とされる筆・墨・紙・硯の4種が揃っており、麻布、扇子などを含めて、これらは全体に李朝の文物としてまとまりがある。また、目録には正使の印がある。内容はこの年の萩藩「朝鮮信使御記録」(参考資料1)の記事とも一致する。
 正徳元年の朝鮮通信使は、徳川家宣の将軍襲職に対する祝賀の使節であった。通信使一行は同年8月29日赤間関に到着し、9月1日に出発、10月18日江戸に到着した。本件は赤間席での藩主自らの饗応に対する返礼として、同年11月13日江戸において対馬藩主宗家を介して贈られたものである。
 正徳元年の朝鮮通信使の際は、従来の対応方式が改変され、幕府は新井白石の意見により、使節の待遇簡素化のため、公式饗応は長門赤間関(往路のみ、復路は備前牛窓)・大坂・京都・名古屋・駿府の5ケ所のみとした。しかし、次の享保4年(1719)通信使以降は従来の方式に戻ったので、赤間関が幕府公認の饗応の場となったのは正徳元年のみである。
 通信使からの進物に関して、目録の遺例はあるが、進物自体の遺例は全国に例が知られていない。

品質及び形状

詳細は別表のとおり
(1)黒麻布
 長さ約16.5m、幅31.0~33.5cm。5枚が現存する。色合いは黄色系であるが、李朝では慣習的に苧布を「白苧布」と呼び、麻布を「黒麻布」と称した。
(2)黄毛筆
装飾を施さない竹軸のシンプルな筆である。いずれも軸と同質の竹鞘付き。当初20本のうち19本が現存する。
(3)真墨
当初10丁のうち9丁が残る。うち3丁が折れているが、これは長持蓋裏に貼られる入日記(文化8年)の記事と一致する。各々巻紙が備わる。表に龍文、裏に「首陽玄精」の文字を印する。首陽は、海州県(現黄海南道)の郡名。海州県は墨の製造地として知られた。
(4)色紙
3巻からなり、「雲暗紙」「雪花紙」「青苔紙」の3種で計55枚。色紙は李氏朝鮮において高官が詩箋に仕立てて使用したり、国王からの下賜品に使われたりした。原料は楮等。手漉で作られた。
(5)栢子
チョウセンゴヨウの種子。他に「海松子」「松子」「鮮松子」の名称がある。油脂多く滋養強精に役立ち、外殻をとって食べる。生食、炒食とし、菓子種ともする。
(6)硯石
文様により「八卦硯」と呼ばれる。この意匠は17世紀から18世紀前半にかけて朝鮮で盛行した。材は慶尚北道~釜山で採取される通称「高山石」と呼ばれるもの。色は小豆色系。
(7)扇子
15握が現存し、ほぼ紙鞘に納まる。骨、縁ともに竹製で、漆を施したものもある。扇面は無地。李朝扇特有の片面貼りである。
(8)目録
目録1紙と上包袋からなる。目録本紙には「人参壱斤」以下進物品目が記され、末尾に年紀と職名(通信使)、正使の印(趙泰億)がある。
(9)長持
毛利家整理用。進物並びに進物目録が一括して収められた。蓋裏に文化8(1811)年8月の入日記が貼られている。内容は次のとおり。
「さノ印 八ノ御帳
 入日記
一朝鮮信使進上物 七品
 目録共ニ(印)
 内
扇子 拾五本(印)
 但此内六本鐶有之
 包紙共ニ(印)
栢子 壱箱(印)
 但正味壱貫拾弐匁
 有之由御根帳ニハ有之
 候得共経年席候て
 減候哉 当時正味
 九百弐拾目 箱桐白木(印)
硯石 壱面(印)
 但紫石 長サ七寸
 三歩 横三寸七歩
 高サ八歩 彫物有之
 所々闕め有之 尤
 箱入ニして箱椴白木
 硯包紙共ニ入組(印)
黄毛筆 弐拾本(印)
 但包紙共ニ(印)
真墨 拾挺(印)
 但内壱丁をれ物と
 御根帳ニ有之候へ共
 三丁おれ物(印)
黒麻布 五疋(印)
 但包紙水引共ニ(印)
色紙 三巻(印)
 内 
 雲晴紙 拾七枚(印)
 雪花紙 弐拾枚(印)
 青苔紙 拾八枚(印)
 但各包紙水引
 共ニ(印)
目録 壱包(印)
 以上(印)
文化八未ノ八月別表

参考情報

朝鮮通信使について
 朝鮮通信使は、日本の足利・豊臣・徳川の武家政権に対して朝鮮国王が派遣した公式の外交使節である。
 室町時代には7回派遣が計画されたが、海上での遭難や中止などで京都まで達して使命を果たしたのは3回。桃山時代には天正18年(1590)と慶長元年(1596)の2度の来聘がある。江戸時代には慶長12年を初回に通算12回に及んでいる。江戸時代の通信使一行は、総勢300~500人にもわたる大人数で、将軍の代替りごとに慶賀のために訪日した。一行は船で瀬戸内海を通り、大坂に上陸し、京都を経て陸路東海道を江戸まで行った。道中で、諸藩の重臣・文人・画家・庶民などと幅広い交流を重ねた。
詳細は別表のとおり
(1)黒麻布
 長さ約16.5m、幅31.0~33.5cm。5枚が現存する。色合いは黄色系であるが、李朝では慣習的に苧布を「白苧布」と呼び、麻布を「黒麻布」と称した。
(2)黄毛筆
装飾を施さない竹軸のシンプルな筆である。いずれも軸と同質の竹鞘付き。当初20本のうち19本が現存する。
(3)真墨
当初10丁のうち9丁が残る。うち3丁が折れているが、これは長持蓋裏に貼られる入日記(文化8年)の記事と一致する。各々巻紙が備わる。表に龍文、裏に「首陽玄精」の文字を印する。首陽は、海州県(現黄海南道)の郡名。海州県は墨の製造地として知られた。
(4)色紙
3巻からなり、「雲暗紙」「雪花紙」「青苔紙」の3種で計55枚。色紙は李氏朝鮮において高官が詩箋に仕立てて使用したり、国王からの下賜品に使われたりした。原料は楮等。手漉で作られた。
(5)栢子
チョウセンゴヨウの種子。他に「海松子」「松子」「鮮松子」の名称がある。油脂多く滋養強精に役立ち、外殻をとって食べる。生食、炒食とし、菓子種ともする。
(6)硯石
文様により「八卦硯」と呼ばれる。この意匠は17世紀から18世紀前半にかけて朝鮮で盛行した。材は慶尚北道~釜山で採取される通称「高山石」と呼ばれるもの。色は小豆色系。
(7)扇子
15握が現存し、ほぼ紙鞘に納まる。骨、縁ともに竹製で、漆を施したものもある。扇面は無地。李朝扇特有の片面貼りである。
(8)目録
目録1紙と上包袋からなる。目録本紙には「人参壱斤」以下進物品目が記され、末尾に年紀と職名(通信使)、正使の印(趙泰億)がある。
(9)長持
毛利家整理用。進物並びに進物目録が一括して収められた。蓋裏に文化8(1811)年8月の入日記が貼られている。内容は次のとおり。
「さノ印 八ノ御帳
 入日記
一朝鮮信使進上物 七品
 目録共ニ(印)
 内
扇子 拾五本(印)
 但此内六本鐶有之
 包紙共ニ(印)
栢子 壱箱(印)
 但正味壱貫拾弐匁
 有之由御根帳ニハ有之
 候得共経年席候て
 減候哉 当時正味
 九百弐拾目 箱桐白木(印)
硯石 壱面(印)
 但紫石 長サ七寸
 三歩 横三寸七歩
 高サ八歩 彫物有之
 所々闕め有之 尤
 箱入ニして箱椴白木
 硯包紙共ニ入組(印)
黄毛筆 弐拾本(印)
 但包紙共ニ(印)
真墨 拾挺(印)
 但内壱丁をれ物と
 御根帳ニ有之候へ共
 三丁おれ物(印)
黒麻布 五疋(印)
 但包紙水引共ニ(印)
色紙 三巻(印)
 内 
 雲晴紙 拾七枚(印)
 雪花紙 弐拾枚(印)
 青苔紙 拾八枚(印)
 但各包紙水引
 共ニ(印)
目録 壱包(印)
 以上(印)
文化八未ノ八月別表

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