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文化財の概要

文化財名称

普賢寺庭園

文化財名称(よみがな)

ふげんじていえん

市町

光市

指定


区分

記念物

時代

室町時代

一般向け説明

 普賢寺は光市室積の峨嵋(がび)山北のふもとにあり、平安時代の1006年(寛弘3)に播磨国(兵庫県)性空(しょうくう)上人が一堂を建立したことに始まるという古い寺である。庭園は本堂の南側にあり、広さは周囲の雑木林の部分を含めると2177㎡ である。庭園の主な部分は、約20m四方のほぼ正方形をしており、低いマキの生け垣で囲まれた枯山水の庭園である。
 正方形の庭の南東部に三つの自然石(高さ約2m、1m、90cm)を配置して枯滝(石を組んで滝を表すもの)としている。その前面を池に見立て、南方にある峨嵋山の峰々を背景として生かしている。庭内には、このほか数個の横石を並べているだけで、周りのシイやクスなどの巨木と調和して、全体として落ち着いた雰囲気が漂っている。
 寺伝では雪舟が築いたというが、そのことを書いた資料はない。県下でも早い時期の枯山水庭園であり、山口の常栄寺庭園、宇部の宗隣寺庭園と並んで紹介されることが多い。

小学生向け説明

  普賢寺は光市の峨嵋(がび)山の北のふもとにあります。平安時代に建てられたという古い寺です。庭園は本堂の南側にあり、主な部分は約20m四方のほぼ正方形をしており、低いマキの生けがきで囲まれています。庭の南東部に三つの自然石を立て、その前に数個の石を並べていて、まわりのシイやクスなどの巨木と調和して、全体として落ち着いたふんい気があります。県内でも早い時期の庭園で、雪舟(せっしゅう)がつくったと寺では伝えられていますが、そのことを書いた資料はありません。

文化財要録

要録名称

普賢寺庭園

指定区分・種類

名勝

指定年月日

平成6年5月2日

所在地

光市大字室積村3888番地

所有者

宗教法人 普賢寺

由来及び沿革

(1)室積と普賢寺について
 室積半島は、もと島であった峨嵋山が砂州の発達によって陸繋化して形成された。峨嵋山の先に伸びた砂嘴(象鼻ケ岬)に囲まれた半島の内側が御手洗湾で、天然の良港、室積港となり、古代・中世から瀬戸内海の交通の要所としての役割を果たしてきた。
 峨嵋山の麓に普賢寺があり、室積港に臨んでいる。寛弘3年(1006)、播磨国の書写山円教寺(兵庫県姫路市)の性空上人(寛弘4年<1007>入寂)の開基という。境内普賢堂の本尊普賢菩薩には、性空が室積の海から引き揚げたという伝承がある。近畿・九州に分布がまたがる性空伝承の一事例である。
 この普賢菩薩像は、はじめ大多和羅山(今の峨嵋山とも、大峰山ともいう)に一宇を営んで安置されたが、「薩州沙門禅宗大林玄宥」(長久2年<1041>入寂)が、現在地へ移転したと伝える(『防長風土注進案』)。現境内の形成時期はよくわかっていないが、文明4年(1472)『普賢縁起』、永正12年(1515)『建仁寺領普賢寺之庄御年貢目録』や、近衛信尹日記『三藐院記』文禄2年(1593)正月5日条の記事(「室津海(室積)ニカカル、三里、普賢寺ト云寺アリ」)があることから、普賢寺が室町時代に室積の地に存在していたことは確かである。
 山号の峨嵋山は、普賢菩薩出現の地という唐土の峨嵋山になぞらえたものである(貞享3年<1686>山田原欽撰『峨嵋山普賢縁起』)。四川省峨嵋山は中国仏教聖地のひとつであり、名勝の地としても知られる。
 藩政時代には、毛利家の祈願所として寺領9石5斗、切米5石を与えられ、藩直営の普請寺として寺格が高かった。
 なお、普賢堂は、その周囲を堀割で囲まれ、潮の干満によって海水が出入りする。普賢堂の楼門、参道は海に向かって東面しており、堀割造成の排土をつかって築造された「普賢波止」で、海上からの参拝者を迎える。性空入寂にちなむ毎年5月の普賢祭には、盛大な農具市や露天市がたつが、近世には「普賢市」として知られており、今も多くの人手で賑わう。いずれも海上安全の信仰の場としての当寺の性格を示すものである。
(2)庭園の由来
 本寺の寺観において、普賢堂、楼門、性空上人墓、平康頼碑(以上東西線上)とともに、この枯山水庭園と峨嵋山(南北線上)が重要な要素となっている。県下でも早い時期の枯山水庭園として知られ、山口の常栄寺庭園、宇部の宗隣寺庭園と並んで紹介されることが多い。
 雪舟作庭伝承があるが、同じく雪舟庭と伝承する山口常栄寺と同様、作庭資料はない。伝承は、昭和8年『山口県寺院沿革史』に採録されており、「本堂南方の庭は雪舟の築く處なり」という。
 作庭の時代を推定する手掛かりとしては、庭園と現在の本堂建物との位置関係の問題がある。庭園石組の配石構成は、北側、西側の双方を正面として展開されていることから、北側にある本堂建物との位置関係とが必ずしも整合しない。この建物は、元禄15年(1702)の改築と伝えることから、庭園は、それ以前の前身建物等との位置関係で作庭されていたものと考えられている。
 枯山水部分の地割をいま表示するのはマキの生垣であるが、土塀跡が並行して6メートル余り遺存することから、以前は、土塀が左右に伸びてそれにより区画されていた可能性がある。(住職談によれば、この生垣は50年前には既にあった、土塀跡は少なくとも昭和19年の道路新設以前からあった、昔は周りが土塀で囲まれていた、とのことである。)
 以上、石組と建物の位置関係、土塀と地割の原形などの解明が今後の課題である。
 なお、本格的な枯山水中心の庭園は、一般的には16世紀初頭以降とされている。雪舟(1420-1506)の活動時期とはややずれる。本庭園の場合はその様式、手法からみて、願行寺庭園(奈良県吉野、県名勝)、備後安国寺庭園(広島県鞆、県史跡「備後安国寺」のうち)などとともに、地方における本格的な枯山水庭園の早い時期の作例とするのが、庭園史研究者の大方の見解である。また、備後鞆も周防室積と同様、海上交通の要所であったことに文化伝播のひとつのあり方が示唆されていると考えることができる。

構造及び形式

(1)概要
 庭園は、峨嵋山の北麓にあたり、現在の普賢寺本堂(方丈)の南側に位置している。枯山水の庭園で、正方形の地割をもち、大きな自然石が使用されている。東南部に三尊石石組による枯滝が組まれ、その前面を池に見立てての枯池式枯山水である。
 庭園の広さは、正方形地割部分で約455平方メートル、周囲の雑木林部分を含めて、約2,177平方メートルとなる。その背景は、南方峨嵋山の峰々を借景としている。
 枯山水庭園は、約20メートル四方のほぼ正方形に地割され、低いマキの生垣がそれを示している。三尊石石組の右手南側には土塀跡の一部が、西に向かって6メートル余り残存している。
(2)石組について
 石組は、庭園の東南部を中心として配石されている。
 まず、東南角に高さ200センチメートル余の巨石を立てて、これを中心の石とし、向かって左に高さ90センチメートル位の上端の平らな石、右に高さ100センチメートル余の上の尖った石を配置して、三尊石石組をつくり、枯滝を表現している。
 三尊石石組の前の左には高さ50センチメートル前後の横石を護岸風に並べ、中央手前には高さ50センチメートルの巨石を横石として配石している。
 さらに、この一群の石組の右側前に高さ70センチメートル位の巨石(現在は倒れている。)と高さ50センチメートル余の横石を置き、山形の景観を表現している。
 そして、さらに左手前に長さ450センチメートル、高さ95センチメートルの山形の巨石を横石として斜めに配石し、その向かって左後の角と右前に小石を据える。特に、この巨石の横石は、奥部の一群の立石と対照関係となる。この配石は遠近感を強調するもので、水墨画的であるともいわれている。
 このほか、石組は、本堂のやや近くに2個の立石があるなど、数箇所にわたって配石されている。(別添実測平面図参照)

地図

画像

普賢寺庭園 関連画像001

普賢寺庭園 関連画像002