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文化財の概要

文化財名称

岩国藩主吉川家墓所

文化財名称(よみがな)

いわくにはんしゅきっかわけぼしょ

市町

岩国市

指定


区分

記念物

時代

江戸時代

一般向け説明

  岩国藩主吉川家墓所は、岩国城の麓ある旧岩国藩主吉川氏一族の墓所。岩国藩初代吉川広家から、6代を除く12代吉川経幹までの11世代の藩主とその夫人や子女の墓 51基がある。
  墓石の大半は五輪塔で、藩主及び夫人の墓石は高さ 3.5mを越えるものが多く、石造文化財として見るべきものがある。また、墓所の中には多数の石灯籠や手水鉢などがあるが、この中には優れた工芸品も残されている。
  吉川広家は出雲国富田に居城を構えていたが、1600年(慶長5)の関が原の戦いの結果、毛利家が防長移封となるとそれに従って防長に移り、毛利家から周防玖珂郡・大島郡のうち3万石を分与された。広家は岩国に城を築き、以後吉川家は 13代経健まで270年余りの間、岩国城を中心に領内を治めた。

小学生向け説明

  岩国藩主吉川家墓所は、岩国藩主吉川氏の墓のあることろです。岩国城の下の岩国市横山にあります。そこには、岩国藩主初代・吉川広家(きっかわひろいえ)から、6代を除いて、12代・吉川経幹(きかわつねもと)までの11世代の藩主とその夫人や子女の墓51基があります。墓所のなかには、多数の石灯籠(いしどうろう)や手水鉢(ちょうずばち)などすぐれた工芸品も残されています。

文化財要録

要録名称

岩国藩主吉川家墓所

指定区分・種類

史跡

指定年月日

昭和63年3月29日(山口県教育委員会告示第二号)

所在地

岩国市横山1丁目256番
(位置)
 岩国藩主吉川家墓所は、岩国市横山の通称寺谷地区に所在する。
 郭内と呼ばれた横山地区は、吉川広家が慶長8年に城を築いた横山と錦川に挾まれた平地で、吉川家の居館(土居)と上級武士の屋敷が配された岩国城下の中核をなす地域である。墓所のある寺谷は、横山地区の南端にあり、洞泉寺や永興寺など多くの寺院が軒を並べた地区で、墓所は、居館の西南約300mの位置にある。

所有者

岩国市

由来及び沿革

 吉川家墓所は、岩国に入府した吉川家17代家(岩国吉川家初代)から28代経幹(岩国吉川家12代)までの、当主及びその一族の墓所である。
 吉川氏は、藤原南家の支流入江氏の出で、駿河国入江荘吉河邑(静岡県清水市)を本質とする東国武士である。13世紀の 4代経光の時代に、承久の乱の勲功として安芸国山県郡大朝本庄(広島県大朝町)の地頭職を与えられ、正和2年(1313年)5代経高の時代に大朝本庄に移った。
 16世紀の吉川氏は、播磨国や石見国の一部にも勢力を張る戦国大名に発展したが、東の尼子氏と西の大内氏・毛利氏の対立の中で、天文16年(1547)毛利元就の次男元春を養子に迎え、毛利一門となった。以後、吉川氏は、元就の三男隆景が家督を継いだ小早川氏とともに、毛利氏を補佐し毛利氏が戦国大名として発展することに尽力した。
 岩国吉川家の始祖となる広家は、この元春の三男で、兄元長の病死により、天正19年(1591)、安芸国旧館、伯耆国3郡、出雲国3郡、隠岐国14万石の家督を継いだ。
 その後、慶長5年(1600)、関ケ原の戦いで、毛利氏は西軍の主将として徳川氏と戦い敗れたが、毛利の一軍として参戦した吉川広家は、内々徳川方と通じ、戦後毛利家の存続に努めた。そのため、毛利氏は、敗軍の将であるにもかかわらず周防・長門の二ヵ国を受領したが、吉川広家はその功績により毛利氏の領国の内、玖珂郡・大島郡の内3万石(のち6万石)を拝領した。
 慶長6年(1601)、岩国に入府した広家は、横山山頂に岩国城を築き、城下町を建設し、知行地を検分して藩制を整備した。その後、岩国吉川氏は、広正・広嘉・広紀・広遶・経永・経倫(徳山藩主毛利広豊の末子)・経忠・経賢・経札・経章・経幹・経健と続き、13代、270余年にわたって在封した。
 明治元年(1868)、朝廷は、毛利氏の末家として、経幹(慶応3年に死去)を諸侯に列し、城主格を与えた。岩国藩が成立するのはこの時からで、この間2代広正以降、幕府からは、正式には、諸侯に列せられなかった。しかし、江戸には邸宅を与えられ、四季折々の献上と家を継いだのち登営し将軍に謁見することを許されており、また、幕府から諸侯に課する諸普請や諸課役も諸大名並みに賦課されていたので、実体は諸侯に準じる扱いを受けていたと考えることができる。
 墓所が形成されるのは、寛永2年(1625)広家が没した年からで、洞泉寺裏山に広家の墓所が営まれる(資料1図中NO.4)。つづいて、寛永18年(1641)広家後室光寿院が没して、その供養のため新豊院(浄土宗、のち光寿院、実相院と改称)が再興され、その境内に墓所が営まれた。場所は、広家墓所の北に続く同じ山腹である(昭和20年山崩れで崩壊)。2代広正の室高玄院は、広正に先立ち正保元年(1644)に没しているが、その墓所もこの新豊院境内に営まれた。
 吉川家墓所の中心を占める地区、寺谷口御塔場(資料1図中NO.1)は、2代広正が没した翌年、寛文7年から造営が始まった。この経緯については「好問随筆」(岩国徴古館)に詳しい。
 墓所造営は、広正が没した寛文6年の秋に3代広嘉より沙汰があり、翌年正月家臣戸川理佐衛門が大坂へ登り石工を調達し、石材は大畠石神で採取している。墓所造営は、長崎より招請した独立禅師(明の書家、医家)に采配させ、同年2月7日より普請を始めている。墓所造営予定地は、家臣の屋敷地だったため、2月27日に竹下長佐衛門ら、3名の家臣に屋敷を明け渡させ同日これを解いている。造営は5月3日に成就したが、この間光寿院(新豊院を改称)の高玄院墓所を解き(後実相院と改称後、跡地には6代経永の墓所が営まれた)、洞泉寺(禅宗)に葬られた広正とともに中心部に石塔を建て納骨を行った。両石塔の刻銘(戒名)は、独立揮毫である。
 また、3代広嘉(玄真院)の墓は、広正室の高玄院の墓石の横に、延宝7年(1679)に造営された。記録(岩国藩御用所日記)によると、11月5日に造営成就したが、石塔建立には約350~360人の人夫が当たり、御塔場建設が、大工事だったことが知られる。また、玄真院墓石の刻銘(戒名)は学僧竹渓昌筰の揮毫である。
 現在の墓所の景観は、寛文7年のこの墓所造営以降順次形成されていったもので、広正・広嘉以降の代々の墓所は、この墓所の前面及び背面に広がっていった。初代広家の墓所が営まれた山腹には、12代経幹夫婦の墓所及び代々の藩主の子女、側室(妾)の墓も営まれている。

構造及び形式

 今回指定申請がなされた地域は、寺谷御塔場と称する地区及びその裏山で、面積9,615㎡(実測)を測る。
 墓所は、木立と土塀にに囲まれ、霊域として盛厳な雰囲気を保っている。
 墓所の構造は、明治時代のはじめに描かれたと見られる「御塔場図」(岩国徴古館)で確認することができる。まず、御塔場の正門を入ると遥拝所と倉が置かれている(現在は撤去)。遥拝所跡地の南には現在寛政6年銘を持つ鳥居があるが、この図には示されていない。後日移したものと思われる。鳥居をくぐると、正面には土塀で区画された墓所が広がるが、正面は8代経忠夫妻の墓所であり、そこから西奥に代々の墓所が造られている。また、遥拝所跡地の西奥は広い平坦地となっている(指定対象外)が、「御塔場図」には「元横道屋敷」及び「元清泰院」という記載がある。このうち清泰院は、3代広嘉室の天長院が元禄年間に建立した法華宗の寺院で、明治3年に廃寺となっている。この広い平坦地には現在円筒形の納骨堂がある。これは昭和39年に建立されたもので、初代広家をはじめ代々の当主及びその一族の御霊が納められ、また、吉川家の墓所として使用されている。
 指定申請地内には、岩国吉川家初代広家から12代経幹までの11公(6代経永を除く)とその室や子女の墓51基、石灯籠95基、手水鉢9基がある。
 51基の墓石のうち大半は五輪塔で34基を数え、他は板石13基、笠塔婆3基、宝篋印塔が1基である。この内、板石は寛永期から寛文期までの古い時期と、文政期以降の新しい時期に見られる。
 当主及び室の墓石を見ると、初代広家、10代経札、11代経章、12代経幹、経幹室の5名が板石であり、高さ280~315㎝の規模である。他の当主及び室は、いずれも五輪塔で、高さ331~389㎝の規模を測る。広家の母吉川元春室の墓石は、やや小振りで高さ260㎝を測る。この墓石は、慶長期の五輪塔で、元々万徳院(横山)にあったものを、明治初年に現在位置に移したものである。
 当主の子女の墓石は、広家及び広正の子女の合葬墓(明治初期に造られる、墓石番号31)や明治以降に造られたと見られる広正の子息の墓(墓石番号33・34)などが板石であり、また、広家十七女宮鶴姫の墓石(墓石番号45)が唯一の宝篋印塔であるのを除いて、大半は五輪塔で、高さ122~210㎝の規模を測る。
 側室(妾)の墓石は、五輪石2基、板石2基であり、うち3基は高さ194~215㎝を測るが、高さ132㎝の板石墓石(広家、広正の妾の墓、墓石番号38)は明治以降の合葬墓である。
 石灯籠及び手水鉢のなかには、12代経幹夫妻の墓所にある「誰が袖の手水鉢」と初代広家墓所にある「みみずくの手水鉢」など、優れた工芸品も遺されている。前者は京都の小掘家から贈られたと伝えられる遠州好みの手水鉢である。幕末安政3年に本藩毛利敬親と12代経幹が手を結んだとき、横山の御館にあったものを萩に持参したと伝えられ、本品はその写しとされている。また、後者は芸州藩の家老であり茶人でもあった上田宗箇が広家に贈ったと伝えられるもので、長く今津の淨浄念寺にあったものを明治40年に現在地に移したものである。

参考情報

岩国藩主吉川家墓所墓石一覧
番号/被葬者名/没年/墓石の構造・規模/備考
(図面対照)/氏名/続柄/年月日/行年/形式/総高/幅/藩主代数/戒名
1/宣姫/吉川経札 女/文政5年4月24日/夭折/五輪石/152/61/ /性峯良知大嬰児
2/吉川経忠/ /亨和3年5月30日/ /五輪石/385/152/8代藩主/紹徳印殿孝雲祖沢大居士
3/織田出雲守信憑 女/吉川経忠 室/天保15年11月30日/61/五輪石/366/153/ /喬松院殿妙境日悌大比丘尼
4/益姫/吉川経永 三女/延亨2年6月15日/3/五輪石/160/61/ /亨恵大童女
5/万千代姫/吉川経倫 長女/安永3年3月2日/5/笠塔婆/180/86/ /英雅大童女
6/三千菊姫/吉川経永 四女/宝暦9年7月7日/3/五輪石/156/63/ /智玉童女
7/数子/吉川経幹 女/安政5年5月26日/3/五輪石/156/63/ /玉光栄珊大童女
8/憲太郎/吉川経札 男/文政5年6月30日/ /五輪石/122/77/ /智憲院殿慈巌玉容大童子
9/磯槌姫/吉川広紀 長女/元禄3年10月12日/1/五輪石/159/62/ /円殊大童女
10/佐久姫/吉川経永 次女/寛保2年9月29日/1/五輪石/158/62/ /慈忍大童女
11/吉五郎/吉川経倫 次男/安永6年9月23日/2/五輪石/199/69/ /崑岳良サン大童子
12/篤姫(のち須姫)/吉川経倫 次女/天明2年8月3日/10/五輪石/201/70/ /真如院殿無相妙須大童女
13/タメ姫(一□土佐守末栄女)/吉川経倫 后室/安永5年5月18日/21/五輪石/365/151/ /華厳院殿梅玉妙聯大姉
14/吉川経倫/ /享和3年9月7日/58/五輪石/377/151/7代藩主/大乗院殿前城門郎即心円通大居士
15/勝姫/吉川経倫 三女/寛政3年6月16日/13/五輪石/173/70/ /仙寿院殿桃顔倍香大姉
16/吉川経章/ /天保14年11月19日/板石/315/122/11代藩主/亮功院殿英山道雄大居士
17/毛利左兵衛佐就女/吉川経札 継室/天保14年/ /五輪石/331/143/ /成豊院殿慈観瑟心大姉
18/友千代/吉川経幹 女/安政元年6月10日/3/五輪石/176/64/ /瑶台靖寿童女
19/入江代八/吉川経永 次男/宝暦4年1月12日/7/五輪石/172/62/ /徳岸院殿忍樹目長大童子
20/滝(栗林宗題忠良女)/吉川広逵 室/天明元年1月12日/86/五輪石/389/151/ /正理院殿妙常日久大比丘尼
21/吉川経札/ /天保7年11月26日/44/板石/302/120/10代藩主/謙光院殿慈雲藤蔭大居士
22/吉川広紀/ /元禄9月7月13日/39/五輪石/382/150/4代藩主/普恩院殿前少府卿徳峯祖天大居士
23/吉川広逵/ /正徳5年6月19日/21/五輪石/385/150/5代藩主/涼雲院殿玉顔元鮮大居士
24/吉川経賢/ /文化3年12月26日/16/五輪石/374/152/9代藩主/文恭院殿徳巌道馨大居士
25/吉川広嘉/ /延宝7年8月16日/59/五輪石/379/150/3代藩主/玄真院殿前城門郎快巌如心大居士
26/竹姫(毛利輝元女)/吉川広正 室/正保元年9月10日/ /五輪石/385/149/ /高玄院殿超誉珠英大姉
27/吉川広正/ /寛文6年5月5日/66/五輪石/378/149/2代藩主/浄性院殿前倉部鉄堂宗閑大居士
28/木下主計頭俊懋女/吉川経札 室/文化10年6月11日/ /五輪石/382/144/ /円成院殿妙実日相大叔姉
29/修姫(まき)/吉川経忠 女/享和2年5月18日/3/五輪石/210/77/ /真峯知影大童女
 
岩国藩主吉川家墓所墓石一覧
番号/被葬者名/没年/墓石の構造・規模/備考
(図面対照)/氏名/続柄/年月日/行年/形式/総高/幅/藩主代数/戒名
30/富姫/吉川経永 女/享保19年6月13日/3/五輪石/160/61/ /本如大童女
31/ /吉川広家 三男/慶長8年8月2日/ /笠塔婆/111/43/ /露白大童女
 /竹槌姫/吉川広正 十女/慶安元年8月13日/4/ / / / /ケイ月雲貞大童女
 /千代松姫/吉川広正 十一女/慶安2年10月4日/ / / / / /光攝妙閭大童女
 /長吉/吉川広正 四男/慶安4年5月12日/4/ / / / /幻涼大童子
 /金三郎/吉川広正 五男/慶安5年5月2日/4/ / / / /元水大童子
 /大助/吉川広正 六男/承応3年4月24日/2/ / / / /浄覚英林童子
32/熊谷伊豆守信直 女/吉川元春 室/慶長11年12月11日/ /五輪石/260/93/ /慈光院殿玉窓芳珪大姉
33/新八郎/吉川広正 七男/万治2年2月22日/9/板石/102/51/ /幻オウ大童子
34/道祖太郎/吉川広正 八男/寛文5年8月15日/5/板石/112/59/ /自照大童子
35/中条大和守信実 女/吉川経永 室/明和5年5月25日/57/五輪石/355/149/ /瑞蓮院殿徴底明心日境大比丘尼
36/石川八郎左衛門羨当 女/吉川広嘉 室/元禄10年4月12日/ /五輪石/203/80/ /天長院殿法要日府大比丘尼
38/有福新兵衛 女/吉川広嘉 妾/寛文11年6月20日/ /板石/132/76/ /千寿院殿鶴林貞ボウ(顔)大姉
 /(境)植村与左衛門 女/吉川広嘉 妾/慶安5年6月23日/ / / / / /智照院殿秀誉栄心大姉
39/九十郎/吉川広紀 次男/元禄5年1月23日/2/板石/153/70/ /鉄樹大童子
40/長姫(毛利識部就詮室)/吉川広正 五女/元禄8年6月22日/ /五輪石/210/87/ /法泉院殿霊谷妙応大比丘尼
41/就紀/吉川広正 次男/寛永20年6月6日/20/板石/217/70/ /宗源院殿一覚鉄心大居士
42/安子/吉川経幹 長女/文政8年2月6日/3/笠塔婆/150/60/ /春林妙香童女
43/美保(稲葉八郎左衛門 妾)/吉川経倫(徳山毛利広豊の末子)の実母/寛政3年1月5日/ /五輪石/186/71/ /永珠院殿空盤常光大姉
44/長井省吾 妹/吉川経章 妾/慶応3年10月4日/ /五輪石/194/72/ /清操院殿淡室妙粧大姉
45/宮鶴姫/吉川広正 十七女/寛文2年8月8日/6/宝篋印塔/149/53/ /蓮乗院殿池日妙観大童女
46/お寿賀(今田五郎左衛門女)/吉川経忠 妾 経賢・経章 母/文政10年5月7日/ /五輪石/194/72/ /本寿院殿妙感日応大姉
47/井上延治 女/吉川経幹 妾/明治27年4月16日/ /板石/215/84/ /澄心孺人井上氏
48/吉川経幹/ /慶応3年3月20日/39/板石/287/120/12代藩主/岩国侯吉川有恪公(有恪院殿春山玄静大居士)
49/順正婦人/吉川経幹 室/明治24年2月7日/57/板石/280/120/ /順正婦人(贈従三位吉川経幹卿婦人木下氏)
50/吉川広家/ /寛永2年9月21日/65/板石/308/122/初代藩主/金光院殿前拾遺補闕四品中岩如兼大居士
51/森脇作右衛門長清入道竹隠(広家殉死)/寛永2年9月21日/ /板石/207/91/ /円寂竹隠宗賢居士

地図

画像

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