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文化財の概要

文化財名称

絹本著色陶弘護像

文化財名称(よみがな)

けんぽんちゃくしょくすえひろもりぞう

市町

周南市

指定


区分

重要文化財

時代

室町時代

一般向け説明

 周南市大道理の竜豊寺所蔵である。掛幅装で寸法は縦80.5cm、横38.2cmである。折烏帽子に直垂を着し、向かってやや右方を向き端坐する姿を描く。上方に以参周省の文明16年(1484)の着賛があり、恐らくは3回忌にあたって供養のために描かれたものと思われる。天性俊邁といわれた弘護の剛気な人柄を巧みに捉えている。この図は室町時代の武将肖像画の一例として、歴史的意義も高く貴重である。
 陶弘護は1455年の出生。大内氏の一族として、周防の守護代をつとめるなど活躍したが、1482年、石見の吉見信頼に謀殺され28歳で世を去った。賛を書いている以参周省は京都の南禅寺・相国寺を歴任し、出身地周防において大内氏の政治顧問のような形で活躍している。雪舟の描いた絵に着賛したものもいくつか残っていて、雪舟とも関係が深かった。

小学生向け説明

 陶弘護(すえひろもり・1455~82年)は、大内氏の一族として周防国の守護代をつとめ数々の活躍をした人物ですが、1482年、宴会の席で石見国の吉見信頼に殺され28歳の若さで亡くなりました。本画は、弘護の三回忌にあたって、供養のために描かれたものと考えられています。
 賛を書いている以参周省は周防出身で京都の南禅寺・相国寺を歴任した人物です。雪舟の描いた絵に賛をしたものもいくつか残っていて、雪舟とも深い関係にありました。
 寸法はたて81cm、横38cmです。

文化財要録

要録名称

絹本著色陶弘護像 
 文明十六年十一月牧松周省の賛がある 

指定区分・種類

重要文化財(絵画)

指定年月日

昭和49年6月8日 (文部省告示 第97号) 絵第1714号

所在地

周南市大道理

所有者

宗教法人 龍豊寺

制作等の年代又は時代

室町時代 文明16年(1484)

員数

一幅

品質及び形状

絹本著色、掛幅装
 折烏帽子に直垂を着し、向かってやや右方を向き端坐する姿を描く。折烏帽子、直垂などは濃墨線で輪郭をとり、同じ墨色にて平塗りする。衣の襞線は淡い墨まじりの胡粉線で簡略に入れ、衣の黒地の中に襞線を淡く白く浮き出させる。直垂には墨地の上から、やや黄土まじりの胡粉を直接に施した扇面形の文様を一面に散らす。背もたれと思しき部分、袖口の裏及び腰紐にも同じ黄土まじりの胡粉を施す。両手、両足先部分にも黄土まじりの胡粉をやや厚めに入れ、指の輪郭を細線で描き起こす。顔の部分は、最下部に胡粉地を入れた上からさらに黄土まじりの胡粉を重ね、目、耳、鼻、口唇、顎の輪郭を細線で描き起こす。眉毛、髭、鬚、髯は墨線の毛描きとし、口唇には朱をさす。絹地はやや粗く、画面のいたみが随所にみられ、特に最下部、膝周辺より下方部は損傷著しく伏裏の絹地をみせている。

寸法又は法量

縦80.5cm、横38.2cm、総縦171.0cm、総横52.1cm、

画賛

〔   〕(朱文長方印、印文不詳)
 泉福院殿前尾州太守建忠孝勲禅定門肖像 □(朱文方印、印文不詳) □(朱文方印、印文不詳)
尾州刺史多多良弘護者、防之著族也、原其先、百濟國聖明王第三皇子琳聖太子苗裔、而我朝人皇□(三)十四代帝」推古天皇御宇十九年辛未歳来朝、廼相當隨大業七年也、百濟舟著于防之多多良岸、琳聖之王子正恆始賜」多多良姓、居于周防大内縣至今八百餘載、綿々不絶矣、正恆七世孫貞成生二子、其嫡男周防介盛房、今太守」之祖也、二男盛長者陶之先也、盛長四世孫弘賢、以陶之地為采邑、弘賢生弘政、始徒家于富田保、任越前權守、弘」政生弘長、弘長生盛長、代太守而長門事、盛長生盛政、亦代太守司周防事、盛政生弘房、継而司周防事、弘房生」弘護、以康正元年乙亥九月三日、誕生防之山口私第、小名鶴壽、天性俊邁、精神□(可)掬尤善倭謌也、應仁元年丁亥」之夏、天下大亂、太守率鎮西之軍兵入洛、自任方而之寄、家父弘房驂于右矣、弘房委于其家曰、咨汝鶴壽、雖幼年」有幹蠱之才、遺嘱以数件事、人莫敢知者矣、時公歳十三也、八月廿二日、拝龍文器之和尚受衣、法名孝勛號建忠、」戌子十一月廿四日、家父弘房終于京師之營中、己丑五月、以太守之従事於□(洛)、豊筑而國之賊徒望隙而□(争)起矣」公年十五而冠矣、太守命以實名曰弘護、其字五郎、庚寅之春、今八幡社司某□(憂)國務之將傾、毎日丑尅潜詣于」神殿以祈矣、期以一百日、及日己満之夜、寐寤不辨之頃、宮扉自啓、有一人條出峩冠偉如、手中有持物、以示社司」曰、我雍護國家之武運也年久焉、今太守軍于帝都、國危急存亡之秋也、請以□(付)此一幀子而達之于吾太守天下」□(稍)□(靖)、太守歸國有日焉、請以此太刀与刀、潜可付之弘護、以鎮國難矣社司即以所神之賜物、投之弘護、社司亦□(竊)」入□(干)洛、獻之幀子於太守、太守開而覩之摩利支天尊像也、其頃太守伯父道□(頓)□(號)南榮察家危國弱、挾詐□(懐)姦□(觀)」釁而動矣簒太守威助悖逆於赤間關其禍起于蕭牆、招取太守士卒於帝都□(蜂)目既露豺聲云發焉、百□(計)□(而)雖□(招)」弘護、□(々)々不敢貳矣、屈強不撓、冬十一月八日南榮以征藝州先ヨウ行矣、十二月廿二日、弘護起義兵於周□(之)玖珂」南榮従卒悉敗北、凌藝入石憑陵險隘於吉見、廿八日、弘護攻南榮残徒於江□(良)城、奉太守母公之命遂措枕于大」山之□(安)吉見勠於南榮聚兵於賀年、西屠長門、弘護堅壘禦之、南榮従卒潰□(而)逃焉、翌年亦屯軍挑戦南榮従卒」逃亡□(者)十有八九焉、南榮遂逃豊之前州也及吉見攻得佐城、割執吉賀長野之也、甲午歳、太守勒弘護之勛績擧」任尾張權守、丁酉之冬天下狼烟靖、而太守歸國矣、弘護迎于楊井津、且宴于富田私宅、太守曰、吾國全而」□(安)者寔弘護之力也、遂託魚水之深期、定金蘭之密契盟以兄弟夜則待寢晝則稠人廣坐之間周旋、上下不避嶮」□(鱚)終日無ケン矣、戊戌春吉見卑詞謝罪請和于我、々太守仁仁而許焉、武夫烈士勇於報徳、太守命而司筑前之事」誠精忠□(許)國者乎秋之初、太守征豊前筑前、弘護為前駈一戦以定九州焉、九月廿五日宰府敗而少貳一類悉」退散焉、己亥鑄洪鐘於筥崎宮、以勒其功、冬辭筑前事譲以弟弘詮辛丑歳詣伊勢神宮而秋還壬寅之春小笠原元長謁吾太守也、弘護謂曰弓馬在武門不可不務武以弓箭為要弓箭之在武豈無法乎今天下以小笠原而」為則弘□(護)騎馬射習貫ケイ厥蘊矣、五月廿七日設嘉宴之會於府第座中有變終焉世壽二十八吁可□(歎)惜□(之)大者」□(也)世無□(不)以慕其驍勇感其忠義蓋賢者必壽自古亦然矣何憾乎、娶石之益田藤氏□(産)三男一女家奉□(而)□(戸)□(亨)
 □(文)明閼逢執徐十一月廿七日 前相國以參叟周□(省)書長□(松)□(樹)□(下)□(朱文方印)  □(朱文方印)

参考情報

 像主陶弘護[康正元年(1455)~文明14年(1482)]は、南北朝以来大内氏の一族として周防の守護代をつとめるなど活躍したが、文明14年石見の吉見信頼に謀殺され28才で世を去っている。
 賛者以参周省(牧松)は南禅寺・相国寺を歴住、出身地周防において活躍し大原家山水図に著賛するなど雪舟とも関係深いことで知られる。

地図

画像

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