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文化財の概要

文化財名称

長門市向岸寺の鯨位牌及び鯨鯢過去帳

文化財名称(よみがな)

ながとしこうがんじのくじらいはいおよびけいげいかこちょう

市町

長門市

指定


区分

民俗文化財

時代

江戸時代

一般向け説明

 所在地  向岸寺(長門市青海島)
 時 代  鯨位牌 江戸時代 1692年(元禄5)   鯨鯢過去帳 江戸時代

 鯨位牌は全高77.5㎝、幅22.4㎝基壇部の奥行き15.2㎝で、鯨児一頭ごとに戒名を贈っている。鯨鯢過去帳は長さ671.7㎝の34折の折帖で、1804~1837年に捕獲された胎児と共に母鯨の戒名も添えている。戒名数は242を数え、その種類、捕獲された年月日、場所、鯨組などが記入されている。
 捕獲鯨の解体時に往々確認される鯨児にかかわるもので、通津の網元の出身で向岸寺の五代目住職・讃言上人の発案によるものと伝えられる。往時の捕鯨関係資料として貴重である。
 この文化財は、信仰の対象物であるため、一般への公開はしない。

小学生向け説明

 向岸寺は長門市青海島にあります。
 長門市青海島の通津(かよいつ)は、日本海側で捕鯨の中心地として栄えました。
 捕鯨は漁民の生活をとても豊かにしてくれましたが、鯨を解体する時に、母鯨のおなかにいる赤ちゃん鯨がいたため、地元の網元(あみもと=鯨取りのかしら)の出身であった向岸寺の和尚(おしょう)さんが、子鯨をていねいにほうむる事を提案しました。
 そこで、みんなで寺に鯨墓をつくり、鯨位牌(死んだ鯨をまつるため一頭ごとに名前を書いた板)や過去帳(死んだ母と子鯨の名前や年月日の記録帳)を作りました。その数は、33年間で242頭になった記録が残されています。
  鯨位牌と過去帖は、信仰の対象物のため、公開はしていません。

文化財要録

要録名称

長門市向岸寺の鯨位牌及び鯨鯢過去帳
   鯨位牌1基
   鯨鯢過去帳1帖

指定区分・種類

有形民俗文化財

指定年月日

昭和50年3月22日 (山口県教育委員会告示 第2号) 民俗資料
昭和51年1月1日 (山口県文化財保護条例1部改正に伴う名称変更) 有形民俗文化財

所有者

宗教法人 向岸寺

制作等の年代又は時代

鯨位牌 江戸時代 元禄5年(1692)
鯨鯢過去帖 〃 享和4年(1804)~天保8年(1837)

員数

一基
一帖

構造及び形式

(構造・形式・法量)
[鯨位牌]
全高 77.5cm 全幅 22.4cm 奥行 15.2cm(基檀部)
[鯨鯢過去帖]
ア)法量 全長 671.7cm 幅 23.8cm
イ)形態 ・折帖 (34折)
 ・初折と終折に黒漆塗の板を貼り付ける。
 ・表板に「鯨鯢過去帖」と墨書した金色紙を貼付する。
 ・本紙は銀色紙を使用。裏打ちしている。
ウ)内容 ・享和4年(1804)~天保8年(1837)の間の記載あり。
 ・戒名数 242
 ・2日から晦日までの表に、1日毎に年月順で戒名、種類、捕獲場所、捕獲した鯨組を記載する。(朔日の部が欠如)
 ・巻初に、華頂山義山上人撰(華頂山は京都知恩院の山号)の霊簿之チョウ、巻尾に供養文あり。

参考情報

 長門北浦地方の捕鯨はいつから始ったかは定かではないが、風土注進案に天正20年11月28日付けの捕鯨に関する文書が記録されており、古くから捕鯨にたずさわっていたことがうかがえる。江戸時代に入って毛利氏の保護を受けることになり、捕鯨は一層盛んになるのである。
 北浦捕鯨の中心となったのが通浦であった。青海島の東端に位置する通浦は、北の日本海、南の仙崎湾に挟まれ絶好の漁場を持つ浦であった。
 風土注進案の通浦の産業の項に一ケ年入高として
 銀八拾貫目 鯨漁 同八拾貫目 鰯網漁
 同三貫五百目 鰤鰆漁 同五貫目 廻船
 同拾五貫目 ハン鰹漁 同拾八貫目 酒場三軒
 同五拾貫目 鰺鯖漁 同四貫五百目 鍛冶屋貳軒
 同貳貫目 蚫榮螺漁 同貳貫四百目 桶屋貳軒
 同貳拾貫目 大敷網漁 同壹貫五百目 大工貳軒
 同拾五貫目 長縄漁 同拾貳貫五百目 船大工五軒
 同四貫目 烏賊煎海鼠 同五百目 左官壹軒
の記載があるが、この地の漁業を主体にした産業構造を如実に示しており、又その中でも鯨漁で銀八拾貫が上がっているのも、この地での捕鯨の位置の重要性をうかがうことができる。このことは、通浦の住民が密接に漁業と、更には捕鯨と結びついたことを知ることができるのである。
 向岸寺は、応永年間(1394~1427)に西福禅寺として建立されたが、天文7年(1538)に忠誉上人が浄土宗の向岸寺として再興されたものであると向岸寺伝に伝える。現在、向岸寺には鯨位牌、鯨鯢過去帳とともに、その抱えである観音堂(清月庵)に昭和10年に史跡として指定されている鯨墓がある。これらは、いずれも第5世住職の讃誉の代に作れらたものといわれる。
 讃誉は、通浦の網元池永家の次男で、漁業には幼少のころから身近に接していた人である。生計の基となる鯨に対する住民の感謝の念と共に、鯨に人間的な同情を寄せる心が讃誉の宗教人としての気持と結びつき、このような宗教行事を生んだのであろう。鯨墓のある観音堂に
 延宝七未年八月十八日、向岸寺五代讃誉代寄付當浦中為二世安楽竝鯨菩提
の厨子銘がある。又、向岸寺伝に、
 當五代讃誉上人志願あって、即ち、一堂を建立し、老極に及びこの地に隠居し、朝暮怠慢なく、鯨鯢一切魚鱗の群品往生安楽の回向これあり、享保十九年寅六月十六日春秋百六にして遷化、それより以来、打続き供養怠りなく、毎年の鯨回向も、当浦恒例にして、その堂にて執行仕り候
と伝えている。鯨回向は現在でも、毎年向岸寺で4月に、観音堂では7月に夫々営まれている。
 なお、鯨鯢過去帖は向岸寺に3帖あるが、第1巻相当分の元禄期から享和3年までのものは現在遺されていない。第3巻相当分は昭和の写しで、第4巻相当分は第2次大戦後の作成である。従って指定されるものは第2巻相当分だけである。
 旧条例により指定された山口県指定民俗資料は、新条例附則6により、新条例の施行日をもって、山口県指定有形民俗文化財とみなす。  

地図

画像

長門市向岸寺の鯨位牌及び鯨鯢過去帳 関連画像001

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