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文化財の概要

文化財名称

鷺の舞

文化財名称(よみがな)

さぎのまい

市町

山口市

指定


区分

民俗文化財

一般向け説明

 毎年7月20日の八坂神社祭礼の最初の日に、神社の社頭および神幸の途中やお旅所で行われる舞い。八坂神社は、以前は、「祇園社」と呼ばれ、1369年(応安2)、大内弘世が、山城国八坂(現在の京都市)から神霊を迎えて社壇を創建したと言われているが、当時の社地は不明である。その後、水の上、高嶺と場所が移り変わったが、1864年(元治1)、築山館跡(現在地)に移った。大内氏が京都の文化に憧れ、山口に移すことに努めていたので、鷺舞いも、祇園社勧請の時に導入されたのではないかと思われるが、1520年(永正17)の神社建立や神事を記した「高嶺両太神宮御鎮坐伝記」に、鷺舞いの記録はない。したがって、祇園社が高嶺に移された後に始まったのではないかと考えられている。現在、鷺舞いが残っている例は少なく、貴重なものである。島根県津和野町に伝わる鷺舞いは、山口から伝えられたものであると言われている。

小学生向け説明

 毎年7月20日の八坂神社祭礼の最初の日に、神社の社頭および神幸の途中やお旅所で行われるもので、白い鷺の頭や羽根の作りものを身に着けて演じる舞いです。大内氏は、京都の文化に憧れ、山口に移すことに努めていましたので、1369年(応安 2)、大内弘世が、祇園社(今の八坂神社)を迎えた時に入って来たのではないかと思われますが、祇園社が高嶺にあったころより後に始まったのではないかと考えられています。鷺舞いが残っている例は少なく、貴重なもので、島根県津和野町に伝わる鷺舞いは、山口から伝えられたものと言われています。

文化財要録

要録名称

鷺の舞

指定区分・種類

無形民俗文化財

指定年月日

昭和51年3月16日 (山口県教育委員会告示 第3号) 無形民俗文化財

所在地

山口市

保持者

鷺の舞保存会

時期及び場所

 毎年7月20日の八坂神社の祭日の最初の日に神社の社頭および神幸の途次、さらに御旅所で行われる。

由来及び沿革

 八坂神社は旧号を祇園社といい、山口市でも古社の一つである。社伝によると大内弘世が応安2年(1369年)山城国八坂から神霊をむかえ元竪小路の上に社壇を創建したといわれる。その後、水の上に社地をかえ、更に永正16年(1519年)に大内義興が高嶺太神宮を創設したとき、本社も高嶺に移した。更に元治元年(1864)築山館跡へ移った。この鷺舞は弘世が神霊を京都から勧請したとき同じように神事として移したものであろうか。大内氏は京都の文化にあこがれて、それを移植することにたいへんつとめたといわれているので、このようなことも一応考えられるのである。しかし太神宮所蔵の高嶺両太神宮御鎮坐伝記(永正17年の文書)にはこの祇園社建立のことが書かれ、御幸などの神事の次第が記されていて鉾などのことが書かれているにもかかわらず鷺舞のことについては全然記載がないので、あるいはこの鷺舞は高嶺移鎮後にはじまったものかとも思われる。現在鷺舞は全国的に例がすくなく、京都のそれは近年廃絶同然であるといわれている。また島根県津和野の祇園祭に行う鷺舞は、山口のものを吉見氏が伝えたもので、山口の末流であるといわれている。もっとも一時廃絶していものを後に亀井氏が京都からふたたび移入したものだともいわれている。

内容

 現在では7月15日八坂神社から鷺舞の道具一式を堂の前黒地蔵堂へ持ちより、鷺を描いた掛軸をその時の鷺当人の家の床にかかげて神酒其他を供えて祀る。19日夕方から鷺舞の練習をする。20日当日は夕方4時に全員地蔵堂へ参集して、先ず堂の前で初舞をする。次に当屋の前、次に津守家の前でそれぞれ一舞ずつ舞って、5時に八坂神社へ到着、神輿3体の並ぶ前面扇の芝の上で舞う。鷺は雌雄2羽であるといわれる。白帷子、長着、白襦袢、白帯、白袴で白脛巾をあて、鷺の頭の作り物をかぶり、翼の造り物を肩から腕にかけている。この鷺の頭は慶長の頃画家雲谷等顔が堂の前町に居住していたとき、作った彫刻であると伝えられている。赤熊髪は一名鷺棒つかいという。赤毛の頭をかぶり、濃浅黄麻地に鷺の定紋入り白貫染長着、立縞袴、白帯、浅黄白既染の袴をかけ釣太刀をはき、鉄砲になぞらえた長いしもとを持っている。かんこは濃浅黄色鷺定紋入白貫染長着、薄紅色はかま、紅白既染はかまに白黒既付、烏帽子をつけ、鼓を前方につけ、これを打つみじかい棒を両手にもっている。この外に囃子をする太鼓が1人、笛2人がいる。
 舞は、かんこ2、鷺2、赤熊髪2がそれぞれ並んでいると、まず太鼓の合図で笛は調べをはじめる。それにつれて鷺1は右片羽根を半びらきにして、右前方に出て弧をえがき静かに歩き出す。笛の一調べで円の4分の1くらいまであるくと笛は第二の調べになる。鷺は更に進むが、同時に赤熊髪1はその鷺のあとを追うようにやはり前方に向い、半円をえがいて進む。1の鷺が円を半周、つまり2分の1まで進んだとき笛は一しきり終る。この時赤熊髪1は円の4分の1進んでいる。鷺はこの時内側をむく。それと同時にかんこは両脚で飛びはねながら鼓をたたく。するとかんこの音に驚いて、鷺1・2は羽根を2度はばたく。この時赤熊髪はしもとをかまえ、鷺をねらいうつまねをする。次に太鼓、笛の調べで1の鷺は更に右方へまた右羽根をひろげて弧をえがいてあるき出す。この時動いているものは1の鷺1の赤熊髪2の鷺である。それぞれが円周の4分の1をあるいた時笛は一しきり終る。この時鷺1鷺2はすぐ中央をむく。かんこは躍しながら腰鼓をうつ。赤熊髪はしもとを平にかまえて鷺をねらう。鷺は2度大きく羽ばたく。そして一段落つくとまたそれぞれ円をえがいて右にまわりはじめる。このとき2の赤熊髪がはじめて右方へ進み出す。また全員が4分の1行くと前のような動作を各自がする。このようにして2回まわって舞は終了する。
 舞い終ると3つの御輿は出発、いわゆる御神幸とする。祇園社が高嶺にあった時は、本社の楼門の前で舞い、次いで大神宮の直会殿の前で舞い、舞い終ると鷺岩の上に鷺の頭と翼を脱いで置くのがならわしであったという。
 神輿3基が出発すると神官がつづき、鷺がこれについてゆく。次に「おさきばらい」と称する棒をもった者がゆき、ついで笠鉾一竿がゆく。更に「堂の前」とかいた高張提灯1をもったものがつづく。笠鉾は古くは八竿であった。この笠鉾は鷺の行列のように考えられているが、それとは別で、やはり堂の前から出すがこれは京都の祇園会の笠鉾を壬生より出すことにならい、堂の前の黒地蔵を壬生地蔵になぞらえて行ったものといわれている。鷺は道々をはやしてさるべき所々で舞ってゆき、今市の御旅所に神輿がおさまると前庭で納めの舞をして退出する。  

構成

 鷺2人、かんこ2人、赤熊髪2人の計6人である。

特色

 現在鷺舞の行われている所は、山口市以外では島根県津和野町、京都八坂神社、東京都浅草、神奈川県の国府祭及び福島県勿来の熊野神社などで行われているが、その多くは中絶したものを近年再興したものである。
 津和野の弥栄神社の鷺舞はこの中でも古風を残していると思われるが、この鷺舞も吉見氏が山口祇園社から遷したものといわれ、一時中絶して後に京都八坂から更に伝授したものともいっている。その八坂の鷺舞も早く中絶して先年津和野から逆輸入していっているような状態で、はたしてどこの鷺舞が最も古態を伝えているかという点を比較して、これを指摘することは不可能である。しかし山口市の鷺舞だけはこの間中絶することはなかったといわれる。津和野のものと比較してすべてが簡素で、現代人の目には魅力の少いものである。演舞する時間も正味2分あれば可能である。あるいはそのことがかえって古風を残しているかも知れない。

参考情報

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画像

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