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文化財の概要

文化財名称

木造平子重経(沙弥西仁)坐像

文化財名称(よみがな)

もくぞうたいらごしげつね(しゃみさいにん)ざぞう

市町

山口市

指定


区分

重要文化財

時代

鎌倉時代

一般向け説明

 山口市源久寺に蔵されている。カヤ材の寄木造りで、像高は87.6cm。法体となった老年の武人像である。
 平子重経は源久寺の開基である。重経は関東で源頼朝に仕え、戦功によって周防国仁保深野など六ケ庄をたまわった。それで地頭として1197年この地に下り、仁保に居館を定めた。1199年に頼朝が死去したので、重経は頼朝の位牌安置の所として源久寺を建立し、源家の武運長久の祈念道場とし、かつ平子氏の菩提寺とした。こうして重経は領内を治めること28年間に及んだが、よく武威を四隣に示して、平子氏(後の三浦氏)の基をかためた。1224年に没し、源久寺に葬られた。法名を源久寺殿西仁大禅定門という。
 この重経像は没後あまり隔たらぬ頃の制作と思われる。鎌倉時代には肖像彫刻は少くないが、法体とはいえこのような在家の人の肖像は少なく、この像はそのよい作例として全国的に注目されるものである。
 この像は1991年に、イギリスの大英博物館で開催された「鎌倉彫刻展」に出品展示されたことがある。

小学生向け説明

 この像は、山口市仁保の源久寺(げんきゅうじ)にあります。
 カヤを材とした寄木造りの像で、高さは88cmです。 
 平子重経(たいらごしげつね)は、鎌倉時代の侍で、この源久寺を創建した人でもあります。
 重経は、地頭として関東から来て、領地である仁保に住みました。
 重経は領地をよく治め、平子氏(のちの三浦氏)の繁栄の基礎を築きました。1224年になくなり、源久寺に葬られました。
 この重経像は、重経が亡くなってからほどなく作られたものとおもわれます。

文化財要録

要録名称

木造平子重経(沙弥西仁)坐像

指定区分・種類

重要文化財(彫刻)

指定年月日

平成4年6月22日

所在地

山口市仁保下郷2910番地

所有者

宗教法人 源久寺

制作等の年代又は時代

鎌倉時代

員数

一躯

品質及び形状

 円頂、老貌、正面し、下衣(二重)の上に衲衣を着け、袈裟を懸け、左手膝前で掌を内にし、第1・3指を捻じ、第2指を伸し、右手腹前で掌を上にし、第1・2指を捻じて、他指をこれに副え、趺坐。
 榧材、寄木造、彩色、玉眼嵌入、木寄、頭躰部を通じて左右二材を矧寄せ、頚部で割矧ぎして首ほぞを設ける。内刳。両肩を竪に矧ぎ、下腹部に矧木。両臂より先の袖部を矧付け、膝前は横木一材製。裳先を矧ぐ。両手は各袖内差込み矧付。左手第1・2指先、右手第2・3・4指先を矧付ける。両側袖先の地付部を矧ぐ(右側2材、左側1材製)。
後補部 下腹部矧木の一部。両袖部矧木。両手指先の矧木。右袖先地付部矧木、台座。
欠失部 裳先及び袖先の一部。

寸法又は法量

像高 87.6㎝
頂上~顎 25.3㎝
面幅 15.0㎝
耳張 18.2㎝
面奥 19.4㎝
臂張 5.2㎝
膝高 16.4㎝
膝張 68.8㎝
膝奥 56.1㎝

参考情報

 この本像は、平子重経自作と寺伝ではいっている。法躰ではあるが、鎌倉武士の精悍そのものの風貌をよくあらわしている。
 平子重経は源頼朝に仕え、戦功によって仁保深野等六ヶ荘を賜り地頭として建久8年周防へ下国して仁保庄に居館を定め、他の五荘を支配していた。正治元年(1199)に源頼朝の霊牌安置の所として仁楽山源久寺を建立し、源家の繁昌長久の祈念道場とし、かつ平子家の菩提寺とした。かくして重経は領内経営に意を用いること28年間、よく惣領地頭の威名を四隣に示して三浦家の基を定めた。元仁元年(1224) 9月14日に没し源久寺に葬られた。法名を源久寺西仁大禅定門という。源久寺は以来平子家(後の仁保氏又三浦氏)の菩提所となり現在に至っている。

地図

画像

木造平子重経(沙弥西仁)坐像 関連画像001

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