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文化財の概要

文化財名称

塑造竜岡玄珠禅師坐像

文化財名称(よみがな)

そぞうりゅうこうげんじゅぜんじざぞう

市町

山口市

指定


区分

有形文化財

時代

室町時代

一般向け説明

 山口市洞春寺に蔵されている。塑造で総高は70.8cm。円頂(えんちょう)の僧侶の姿で、法衣をつけ、その上に袈裟(けさ)をかける。右手はひじをまげ、右ひざの上で持物をとる形。左手はひじをまげ、左ひざの上に手の平を伏せておく。袖や裳裾を前面に長くたらし、曲ロクに坐す姿である。彩色はほとんど落ちているが、肉体部には肉色彩が、法衣、袈裟などには唐草文様などがほどこされていた跡が残っている。竜岡玄珠は京都南禅寺の住職で、鹿苑院の僧録司であった。1430年(永享2)大内盛見が山口に観音寺を創立したとき、開山として迎えた。観音寺の開山としてまつられていたものであるが、大正時代その観音堂を洞春寺に移築したので、本像も移した。

小学生向け説明

 山口市の洞春寺にあります。塑造(そぞう)で、像の高さは71cmです。室町時代につくられました。
 竜岡玄珠は高僧で、1430年に大内盛見(おおうちもりみ)が山口に観音寺を創立したとき、初代の住職として迎えられました。観音寺の開山(かいさん=お寺をひらいた僧)としてまつられていたものですが、大正時代にその観音堂を洞春寺に移築したので、開山像も移しました。

文化財要録

要録名称

塑造竜岡玄珠禅師坐像

指定区分・種類

彫刻

指定年月日

昭和52年11月11日(山口県教育委員会告示 第7号)

所在地

山口市水の上町5番27号

所有者

宗教法人 洞春寺

制作等の年代又は時代

室町時代

員数

一躯

品質及び形状

円頂、額に3本の皺を刻む。帽広い眉、大きめの眼窩に二重瞼、くびれの切れた小鼻、口元をしめて結ぶ大きめの口、豊かな耳朶が特徴的である。法衣を着しその上に袈裟を懸ける。八角鐶をつける。右手は臂を屈げ、右膝上で五指を握り持物(竹箆)を執る形。左手は臂を曲げ、左膝上に掌を伏せて置く。袖や裳裾を前面に長く垂らし、曲ロク上に安座する形。
頭部は2本の松材を木心にして、塑土をまきつけて塑形し、首下で躰部に差込む。躰部は紙スサをまぜた砂まじりの塑土を輪積み(中空)にして塑形し、膝前と腰部(両袖・両手首から先を含めて)は同じく塑土を輪積みにし塑形し、躰部に寄せる。膝前の垂裳部は板状に造って膝部にはぎつける。像の腰奥の両側、地付部から高さ5.5㎝の位置に径1.2㎝の小穴をうがっている。面部、法衣の襟部、袈裟の襞などの細部はヘラで塑形している。袈裟のつり紐や八角エイは別につくって貼りつけているが、つり紐は欠落している。彩色はほとんど剥落しているが、全体に白土下地を施し、面部、両手首など肉躰部には肉色彩が、法衣、袈裟などには唐草模様などが施されたあとが残っている。また、前面袈裟部の襞部に緑青彩のあとが残っているので、切り交ぜの袈裟を画いていたものと思われる。

寸法又は法量

総高 70.8㎝
像高 48.0㎝
頂上~顎  16.8㎝ 
面幅 10.5㎝
面奥 15.5㎝
耳張り 12.6㎝
臂張り 37.3㎝
胸奥 16.6㎝
腹奥 19.5㎝
膝張 41.2㎝
膝高  7.3㎝
膝奥 31.5㎝
裾張り 47.1㎝
膝前の垂れ(左側) 22.0㎝

参考情報

(1)「寺社由来」大通院仏殿由来書
 「当山仏殿は永享2年大内持盛の開基で大梅山観音寺の仏殿なり。前南禅竜岡玄珠和尚を開祖とする。泥像位牌之有。墓所不知」
(2)この像はもと瀧の勝音寺(観音寺)に開山としてまつられていたものであるが大正4年その観音堂をこの地に移築した時、ここに移り来ったものである。
(3)勝音寺は初名を観音寺ともいい、大内義弘の子、持盛は永享5年(1433)豊前国篠崎において戦死したが、勝音寺を菩提寺として葬った。竜岡玄珠の伝記はあまり詳しくわからないが、京都南禅寺の住職であり、鹿苑院の僧録司でもあった高僧である。
(4)竜岡真圭について
 竜岡真圭の経歴は不明な点が多いが、鹿苑院蔭凉軒主の日記である「蔭凉軒日録」や瑞谿周鳳の日記「臥雲日件録」によって多少人物像は判明する。

文安4年/1447/5月7日-京都相国寺にあり。この日、瑞谿周鳳、竺雲等連らとの談話の中で、周防出身の一僧侶の事蹟について問われ、説明す。(『臥』)
宝徳元年/1449/7月1日-京都相国寺にあり。かつて惟肖得巌の文集を瑞谿周鳳の命により龍岡眞圭が書写したことがあったことが語られる。(『臥』)
宝徳2年/1450/9月-相国寺の坐公文を受く。(『臥』)
長禄2年/1458/5月6日-周防にあり。朝鮮貿易のことに関連して、幕府と大内氏との間で立ちはたらく。(『蔭』)
長禄3年/1459/6月23、24日-京都相国寺にあり国寺の塔頭、崇寿院の院主となる。(『蔭』)この直前に京都にかえってきたものと思われる。
長禄3年/1459/8月7日-京都相国寺崇寿院にあり。瑞谿周鳳との茶話のなかで、大内持世の和歌を能くしたことについて語る。(『臥』(このころ、詩画軸聴松軒図に賛を付す。同図には、まず、永享5年の惟肖得巌の序詩がありつづいて長禄2年の竺雲等連の詩があったあと龍岡眞圭らの詩が付せられている。)
長禄3・4年 寛正2年/1459~61/この間、崇寿院院主として『蔭凉軒日録』『臥雲日件録』に十数回記載あり。
長禄4年(改元寛正元年)/1460/12月―瑞谿周鳳、竺雲等連、春林周藤らとともに新築成った泉殿の障子絵に付す賛詩の作成にあたる。(『蔭』)
寛正2年/1461/1月―同上
寛正2年/1461/1月29日-南禅寺住職となる。(『蔭』)
寛正3年/1462/2月5日-鹿苑院入院。(『蔭』)

地図

画像

塑造竜岡玄珠禅師坐像 関連画像001

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