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文化財の概要

文化財名称

木造大内義弘坐像

文化財名称(よみがな)

もくぞうおおうちよしひろざぞう

市町

山口市

指定


区分

有形文化財

時代

室町時代

一般向け説明

 山口市洞春寺に蔵されている。ヒノキ材の寄木造りである。総高は71.6cm。円頂(えんちょう)で玉眼である。法衣を着し袈裟(けさ)をかける。両手はひざ上で上下に重ね、第一指の指先をつけ、いわゆる禅定印をむすんでいる。彩色はわりとよく残っている。義弘は大内氏25代の当主である。京都に出て幕政に参与し、将軍の命により山名氏清を討ち、また南北朝の和睦を周旋した。これらの功により西日本の旧領に加え、和泉・紀伊の地を得、その守護となった。また朝鮮とも交易して、強大な富を得た。この頃将軍足利義満は義弘の勢力の増大をおそれ、これを除こうとして義弘の拠っていた堺の城を攻めた。義弘は防戦したがついに力つき自刃して果てた。時に1399年(応永6)、義弘は44歳であった。

小学生向け説明

 山口市の洞春寺(とうしゅんじ)にあります。ヒノキを材につくられた寄木造りです。像の高さは72cmで、室町時代につくられたものです。
 義弘は大内氏25代の当主です。京都に出て幕府の政治にかかわり、將軍の命令により山名氏清を討ち、また南北朝の和睦(わぼく=なかなおり)をとりもちました。これらの功績により西日本の以前からの領地に加え、和泉(いずみ=大阪府)・紀伊(きい=わかやまけん)の地を得、その守護となりました。また朝鮮とも貿易をして、強大な富を得ました。この頃將軍足利義満は義弘の勢力の増大をおそれ、義弘の勢力を弱めようとして義弘の拠点としていた堺の城を攻めました。義弘は防戦しましたがついに力つき自刃(じじん)してなくなりました。1399年のことで、義弘は44歳でした。
 この像は大内氏歴代中の名將といわれる義弘の気宇がうかがえる傑作です。

文化財要録

要録名称

木造大内義弘坐像

指定区分・種類

彫刻

指定年月日

昭和52年11月11日(山口県教育委員会告示 第7号)

所在地

山口市水の上町5番27号

所有者

宗教法人 洞春寺

制作等の年代又は時代

室町時代

員数

一躯

品質及び形状

 円頂、頭の頂上が扁平である。眼を大きく見開く、大きい獅子鼻が顔の中央に目立つ。口唇は薄く、小さな口元を引き締めている。顎が張り四角な面相である。法衣を着し、その上に紐吊りの袈裟を懸ける。両手は屈臂、膝上で掌をあおぎ、右手を下にして重ね、第1指の指先をつける。いわゆる禅定印を結び、曲ロクの上に安坐する形。
 桧材の寄木造、頭部は耳後で前後に矧ぎ、さらに面部のみ割り矧ぎとして玉眼を入れる。躰部前面は両腕、袖部、両手首から先、さらに膝前を含めて竪1材から彫出し、背面は襟から地付までを1材に彫出し、はぎ合す。両膝奥に小三角材を補う。膝前の垂裳部は竪1材からなり、両端に小材を補うが、左側の補材を失っている。全体に大きく内刳りを施す。以前は躰内に法華経を9巻に書写して納め底板をはっていたが、土蜂の巣となったため、昭和41年7月22日これを取り出した。彩色は頭部、面部に肉色彩、法衣はくすんだ黄色、袈裟は切り交ぜ文様。彩色は比較的よく残っている。

寸法又は法量

総高 71.6㎝
像高 51.2㎝
頂上~顎  15.7㎝ 
面幅 10.9㎝
面奥 15.4㎝
耳張り 13.1㎝
胸奥 13.6㎝
腹奥 14.4㎝
臂張り 35.1㎝
膝張り 42.3㎝
膝高 13.0㎝
膝奥 24.9㎝
裾張り 38.8㎝
膝前の垂れ(右側) 23.0㎝
 

参考情報

 義弘は大内氏24代の当主で、弘世の嫡男である。京都に出て幕政に参与し、将軍の命により、山名氏清を討ちまた南北朝の和睦を周施したりした。それらの功により西日本の旧領に加え、和泉、紀伊の地を得て、その守護職となった。一方朝鮮とも交易をして、強大な富を得た。この頃将軍足利義満は、義弘の勢力の増大をおそれ、これを除こうとして、義弘の拠っていた堺の城を攻めた。義弘は防戦したがついに力つき自刃し果てた(応永の乱)。香積寺を菩提寺として葬った。時に応永6年(1399)12月20日、義弘は44才であった。
 この像は香積寺に伝わったものであるが、後に香積寺解体に伴い、一時五重塔内に安置されていたというが、香積寺の管理に当っていた洞春寺に移り来たものである。大内氏歴代中の名将といわれる義弘の気宇がよくうかがわれる傑作である。

地図

画像

木造大内義弘坐像 関連画像001

木造大内義弘坐像 関連画像002