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文化財の概要

文化財名称

木造大内持盛坐像

文化財名称(よみがな)

もくぞうおおうちもちもりざぞう

市町

山口市

指定


区分

有形文化財

時代

室町時代

一般向け説明

 山口市洞春寺に蔵されている。ヒノキ材の寄木造りで、総高は94.6cm。室町時代の作である。円頂(えんちょう)で法衣を着し、袈裟(けさ)をかける。両手はひざの上で重ね、各第一指の先をつけ、禅定印をむすんでいる。彩色は残っているが後補のものである。大内持盛は義弘の子である。盛見の戦死後、持盛は兄の持世と家をつぐ争いをし、長門でうち破った。そうして九州の小弐氏と手をにぎり、豊前から長府に入った。一方石見に入り兵を募っていた持世は、勢力を回復して長府に迫った。持盛は九州に逃げたが、ついに豊前篠崎で戦死をした。この持盛の菩提寺が観音寺である。それでこの像は観音寺開基の像として造られたのである。

小学生向け説明

 山口市の洞春寺にあります。ヒノキを材とした寄木造りで、像の高さは95cmです。室町時代につくられました。
 大内持盛は義弘の子です。盛見の戦死後、持盛は兄の持世と家をつぐ争いをしました。持盛は持世を長門でうち破りました。そうして九州の小弐氏と手をにぎり、豊前から長府に入りました。一方石見(いわみ=しまねけん)に入り兵を募っていた持世は、勢力を回復して長府に迫りました。持盛は九州に逃げましたが、ついに豊前(ぶぜん=大分県)篠崎で戦死しました。この持盛の菩提寺(菩提寺)が観音寺です。それでこの木像は勝音寺開基(かいき=お寺をつくったひと)の像として造られました。

文化財要録

要録名称

木造大内持盛坐像

指定区分・種類

彫刻

指定年月日

昭和52年11月11日(山口県教育委員会告示 第7号)

所在地

山口市水の上町5番27号

所有者

宗教法人 洞春寺

制作等の年代又は時代

室町時代

員数

一躯

品質及び形状

 円頂、額に3筋の皺を刻む。顎を尖らした逆三角形の様な面貌で、下唇をやや前にして、しっかりと口をつむる。眼は細く切れながであるが、奥深いかがやきを秘めている。やや張り出した大きい耳には耳穴を刻む。躰躯はなで肩で、裳裾を大きく末広がりに造り、像全体を二等辺三角形にまとめあげ、安定感がよい。法衣を着し、その上に袈裟を懸ける。つり鐶は八角形。両手は屈臂して、膝上で掌を仰ぎ、右手を下にして重ね、第1指の指先をつけるいわゆる禅定印を結び、曲ロク上に結跏趺坐する形である。
 桧材の寄木造り。底板をはり、黒漆を塗っており、かつ厚い彩色が施されているため、構造ははっきりしないが、矧ぎつけ部にわずかに認められる釘止めの跡らしきものをたどった結果およそ次のように見られる。頭部は前後2材矧ぎとし、襟際で躰部に差込む。躰部は前後2材矧ぎとし、両肩から地付部いたる躰側部をそれぞれ別材で矧ぎつける。膝前は前膊部両手首から先までを含めて横1材から彫出している。全体に大きく内刳りを施す。方々にひび割れがあるが、保存は概して良好である。彩色は顔、両手首から先など肉身部は肉色彩とし、眉は墨描き、口唇に朱彩を施す。法衣は一色と見られるがはっきりしない。袈裟は切り交ぜで、地は薄いたいしゃ色の下地に唐草文を散し、縦、横の條はコバルト下地に三鈷杵、開花文を散している。彩色はすべて後補。

寸法又は法量

総高 94.6㎝
像高 59.3㎝
頂上~顎  18.4㎝ 
面幅 11.6㎝
耳張り 15.1㎝
面奥 18.0㎝
肩張り 34.0㎝
臂張り 44.7㎝
胸奥 19.7㎝
腹奥 22.8㎝
膝張り 53.2㎝
膝高 10.6㎝
膝奥 35.0㎝
裾張り 63.9㎝
膝前の垂れ(右側) 33.8㎝

参考情報

 持盛は義弘の子である。盛見が九州で戦死をした時、持盛は兄の持世と家督をめぐる争いをした。永享4年(1432)持盛は兵を起こして持世を襲い、これを長門で打ち破った。そして九州の少弐氏と手を握り、豊前から長府に入った。しかし敗走後石見に入って兵を養っていた持世は勢力を回復して長府にせまった。持盛は九州に走ったがついに豊前篠崎で戦死した。この持盛の菩提寺が滝の勝音寺である。この持盛像は勝音寺(観音寺)開基像として造られたものである。

地図

画像

木造大内持盛坐像 関連画像001

木造大内持盛坐像 関連画像002