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文化財の概要

文化財名称

徳修館

文化財名称(よみがな)

とくしゅうかん

市町

周南市

指定


区分

有形文化財

時代

江戸時代

一般向け説明

 周南市安田に所在している。木造の平屋建で、桁行10.98m、梁間6.97mでその正面に玄関があり、後方に聖廟部分が付く。屋根は入母屋で桟瓦葺きである。江戸時代の郷校の実状を残した県内唯一の遺構である。建物は玄関、3つの広間、中央広間の奥に拝堂、さらにその奥に孔子を祭る聖廟があって、簡素ながら聖廟の要素を合せもっている。聖廟には孔子外弟子等の木主が安置してある。
 徳修館は、1809年(文化6)に長州藩代毛利氏一門である三丘領主第8代の宍戸就年が士民子弟の教育につとめるため郷校として創立したものであるが、現在徳修館と呼ばれている建物は、その後10代の宍戸元礼が萩の明倫館に模し、1846年(弘化3)に同館の聖廟として新築したものである。

小学生向け説明

 周南市安田にあります。木造、平屋建てです。山口県内に唯一のこる、江戸時代の学校であった郷校(ごうこう)の遺構です。
 徳修館は、江戸時代の1809年に、三丘領主宍戸就年が士民子弟の教育につとめるため郷校として創立したものです。この建物は宍戸元礼が、萩の明倫館をまねて、1846年に館の聖廟(孔子が祭ってある所)として新築したものです。

文化財要録

要録名称

徳修館  1棟
  付 木主5基 祭器4個

指定区分・種類

建造物

指定年月日

昭和57年11月5日(山口県教育委員会告示 第4号)

所在地

周南市大字安田字天王569番地の1

所有者

山口県

制作等の年代又は時代

弘化3年(1846)

員数

一棟

製作者

不明

由来及び沿革

 萩藩主毛利氏一門三丘領主宍戸氏第8代宍戸就年が士民子弟の教育につとめるため、文化6年(1809)に郷校として創立したが、現在の建物は、その後第10代宍戸元礼が家老末兼佐織に命じて、萩の明倫館に模して同館の本堂(聖廟)として新築したものである。
 文化6年、開校にあたり、学頭には萩明倫館から山田北海を招へいした。同館には、廟前の「如在」の文字、正面玄関の「徳修館」の文字の扁額が残っているが、いずれも山田北海先生の筆である。その後第2代勢一尚古学頭の時現存の本堂(聖廟)が新築された。3代村井来山、4代宮川視明と学頭は代わり、明治3年10月徳修館は閉じられることになった。明治6年熊毛郡第1小学校が旧徳修館に開校されてからは各種の学校に利用され、昭和23年山口県徳修高等女学校が山口県立徳修女子高等学校へと県立移管、昭和24年山口県立熊毛北高等学校と改称し現代に至る。
 

構造及び形式

桁行10.98m 梁間6.97m 玄関3.95m×1.98m付 聖廟部分3.77m×4.05m(最大幅)付 木造、入母屋造、平屋建、桟瓦葺
 江戸時代の郷校の実状を残した県内唯一の郷校遺構である。正面中央には玄関を入って広間、左右にも広間があり、左側広間の奥には簡単な棚飾りがある。中央広間の奥へ拝堂さらに聖廟と講堂の要素を兼ねている。
 聖廟にあたる奥堂は、三方に壇をもち孔子一門の牌を安置する花頭の龕をつくっている。正面中央に孔子の木主を、左右に顔、曽、子、孟の四聖の木主を安置していて、孔子の木主(木成至聖文宜王木主)の前には、粟か米の飯を入れるホ、餅を供えるキ、かやの実を供えるたかつき、せり・にら・もば・梅干を供える豆の祭具がある。
 この建物は、徳修館の主体を残すもので、当初は中央を聖廟とし、左を講堂、右を習礼場(道場)、その他宿舎、倉庫など10棟あり、別に槍術場、乗馬調教練兵場などあって、敷地1町5反歩と記されている。(日本教育史資料より)現在の建物は孔子を祭る聖廟のみである。

地図

画像

徳修館 関連画像001

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