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文化財の概要

文化財名称

旧山口藩庁門

文化財名称(よみがな)

きゅうやまぐちはんちょうもん

市町

山口市

指定


区分

有形文化財

時代

明治

一般向け説明

旧山口藩庁門
 山口市滝町山口県庁の敷地に所在する。一間一戸脇門付薬医門で、切妻造り、本瓦葺である。桁行10.28m、梁間2.86m、棟高6.84mである。本柱、控柱とも面取角柱、板扉で両内開き、材は欅と松で木割は太く豪快で、いかにも城門らしい風格を見せている。
 長州藩主毛利敬親は、幕末の有事に備え藩庁を萩から山口に移す決意をし、1863年(文久3)に現山口県庁の地に政事堂建設を着工している。この門は、1864年(元治元年)竣工した政事堂の門として建造されたものを1870年(明治3年)に再建したもので、1871年(明治4)までは山口藩庁門として使用され、それ以後も山口県庁門として引き続き使用された。大正初年新しく県庁舎が竣工し、正門も東寄りに築造されたが、この門はそのまま西口の役割を果たしながら使用された。現在もなお使われている。

土塀
 木造土塀、切妻造り、本瓦葺。元治元年(1864)までに設けられていた山口御屋形の城門を破却した後、明治3年(1870)に新しく設けた藩庁門に接続する。総延長40.820m、梁行0.910m、棟高は基壇上より2.290mである。元治元年の段階では土塁で四方を囲んだ東側に架けた橋の内側に木戸を設け、そこから直角に曲がったところに「御本門」を設けていたが、明治3年段階では、木戸門があった場所のやや西側に旧山口藩庁門を設置し、堀に架ける橋の幅を広くとり、また土塁の一部を削った上で土塀を巡らしている。これは、橋を渡って藩庁門に至るまでの区域を土塀で囲うことで、藩庁門の前庭として整備したものと考えられる。

土塁
 旧山口藩庁門南側に所在した山口御屋形跡の土塁石垣(下部を石垣で補強した土塁)で、その後の改変を受けず今日まで残置されたものであり、砲撃戦に備えた近代城郭の趣を留めている。長さ(南北)11.5m、幅(東西)6.3m、石垣上端からの高さ1.3mである。旧山口藩庁の前身である山口御屋形の大手桝形の南東隅に該当する。当初の土塁は本来現状より北側に延伸しており、南側は堀に沿って西(県庁中央門側)へ続いていたが、現状では、北側は旧藩庁門建設に伴い切断され、西側は後世の改変により失われている。かつての山口御屋形の縄張りを厳重に区画していた土塁石垣の面影を伝える遺構である。

石垣
 山口御屋形の北東から南西にかけての防御壁として設けられていた土塁の下部の補強部分が残存したもので、現在は県庁敷地を区画する堀の内側(県庁舎側)の石垣となっている。総延長276.7m、高さ2.6~2.7mである。付指定の土塁から西(県庁中央門側)へと延びる石垣は、山口県警察本部庁舎(昭和34年以前の建設)を建設するために改変されており、幕末維新期に建設されたものではない。石垣の塁線は、直角または鈍角に連なる4面の石垣面で構成される。これらの石垣は、旧山口藩庁の前身である山口御屋形の土塁石垣を継承したもので、原則的に長軸40~110cmを中心とした大型の花崗岩割石が布目崩し状に積まれる。当該箇所は山口御屋形の大手を含む正面性の高い場所で、山口御屋形の威容を今に伝えている。

 「旧山口藩庁門及び土塀 付土塁及び石垣」は、幕末維新期の政治情勢及び国際情勢を踏まえて建設された萩藩(山口藩)の近代城郭の一端を留めるものである。
 旧山口藩庁門は、幕末期の城門が破却され、明治3年に薬医門として建設されたものであり、木材は荒く加工されており、接続する土塀も、練塀ではなく比較的短期で施工できる木造工法であり、外観は重厚でありながらも、構造的には旧山口藩庁門及び土塀の早急な整備を必要とした情勢を窺うことができる。このことは土塁石垣の石材の形状についても同様であって、屋形を備える近代城郭である北海道函館市の五稜郭跡(安政4年(1857)着工、元治元年に函館役所が五稜郭に移転)や長野県佐久市の龍岡城跡(元治元年着工、慶応3年竣工)が切石を用いるのに対し、山口御屋形は、比較的短期間に加工できる割石が用いられている。
 土塁及び石垣は、残存状況は部分的ではあるが、当時の「八稜城」としての縄張りを示す遺構である。特に、石垣南東部の鈍角をなす塁線は、稜保式城郭の特徴を留めており貴重である。
 「山口移鎮」を経て、山口は藩主の御座所とされ、明治2年9月12日には、山口御屋形を山口藩議事館と、翌明治3年4月20日には、さらに山口藩庁と改称し、明治4年7月14日の廃藩置県を経て、同月28日に県庁と称することとなり、今日に至っている。すなわち、本文化財は、山口県の誕生を象徴する文化財建造物群であり、本県の成り立ちを知る上で極めて重要である。
 また、幕末維新期の藩庁及び明治期の県庁の面影を残す「旧山口藩庁門及び土塀 付土塁及び石垣」、大正期に建設された国重要文化財「山口県旧県庁舎及び県会議事堂」、現在の県庁舎や議会棟等が、「付土塁及び石垣」によって区画される現在の県庁敷地内に存していることは、この区画が、幕末維新期から現在まで、防長両国、山口県の政治の中心として機能し続けているという歴史的重層性のある区画であることを示している。
(参照文献:『山口市史 史料編 近世2』、『山口県史 通史編 幕末維新』)

小学生向け説明

 山口市にある山口県庁の敷地内にあります。門と土塀は、明治3年(1870)に再建されたもの、土塁と石垣は、萩から山口に政治機能が移ってきた文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけて建設されたものです。
 幕末期に萩から山口に政治機能が移ってきて、そのまま廃藩置県が行われ、山口県が誕生したので、山口県の成り立ちを示す貴重な文化財です。

文化財要録

要録名称

旧山口藩庁門
土塀
 付 土塁
   石垣

指定区分・種類

有形文化財(建造物)

指定年月日

昭和62年(1987年)3月27日指定
令和4年(2022年)3月4日追加指定

所在地

山口県山口市滝町一番一号

所有者

山口県

制作等の年代又は時代

文久3年(1863)~明治3年(1870)

員数

旧山口藩庁門 一棟
土塀     二棟
 付 土塁  一基
   石垣  三箇所(四面)

由来及び沿革

(1)山口政事堂造営経過
 幕府は幕末の危機的政治状況のなかで、有事に備えて、文久2年(1862)10月、本拠を山口に移すことを内定した。
 その後、内外の情勢で延引していたが、文久3年(1863)12月、やっと福原越屋を屋形造営惣奉行に任命し、翌元治元年(1864)正月15日、地開きの祭典を終わり、5月27日斧始めの儀を行い、10月16日に至って竣工した。この藩主の居館を屋形あるいは政事堂と称した。
 ところがこの元治元年(1864)7月19日には、京都で蛤御門の変が勃発し長州藩は敗北した。このため同年12月、幕府より「山口之儀新規修築工事ニ付、早速破却可有之事」と命じられ、藩主は山口政事堂を引き払って萩に引きあげることを余儀なくされた。
 しかし、慶応元年(1865)になると政治情勢の変化から、4月には山口新屋形へ再び移住した。
 大政奉還後の明治3年(1870)2月、府・藩・県の公廨を庁と改称すべきことを命じられたので、政事堂を藩庁の名称に改めた。
(2)旧山口藩庁門の築造について
 旧山口藩庁門は御屋形の造営工事にともなって築造された。材はけやきと松で木割は太く豪快で、いかにも城門らしい風格を残している。
 そのほか「山口御屋形表御門舛形之図」(毛利家文書)及び「山口新御屋形表御門桝形地形図」(毛利家文庫)があるが、これにみえる舛形の土塁の一部は現存している。
(3)明治11年作成の「山口県庁敷地実測図」について
 明治11年測定の「山口県庁敷地実測図」(毛利文庫)に現況「配置図」を投影すると、ほぼ重なることが確認できる。このことから以下の結論を引き出すことができる。
(ア)旧山口藩庁門が明治11年当時すでに現在の位置にあった。
(イ)桝形の土塁が当初計画のように築かれていた。
(ウ)この実測図をもとに、現在の堀を旧に復することが可能である。
 このように、この門は明治4年(1871)までは山口藩庁門として使用され、それ以後は山口県庁門として引き続き使用された。大正5年、県庁新築事業が完工して正面も東寄りの別の場所に築造されたが、この門はそのまま西口の役割を果たしながら、現在まで使われ続けている。

構造及び形式

旧山口藩庁門
(構造概要)
一間一戸薬医門、切妻造、本瓦葺、両脇門
(規模)
桁行 10.280m(主体柱間4.830m) 梁間 2.860m 軒高 5.420m 棟高 6.840m
(構造形式)
①基壇 雨葛一段、切石をめぐらす。基壇面、切石布敷敷つめ。
②礎石 地履石とも花崗岩の切石。
③軸部 本柱・控柱とも面取角柱。本柱間は冠木。本柱・控柱間は腰貫・飛貫でむすぶ。控柱間は頭貫。
④架構 冠木上、親柱直上と柱間三等分位置とに女梁をおき、この上から控柱間の頭貫に男梁をかけ渡し、男梁上に桁行繁梁をおき、束立ちで棟木を受ける。
⑤褄飾 豕叉首。
⑥軒 角疎垂木一軒、茅賀・裏甲・瓦座で本瓦葺を受くる。軒裏は化粧板横貼。
⑦野小屋 化粧裏板北に士台・桔木・野母屋・野垂木を組む。
⑧屋根 本瓦葺、棟は半円2段、菊丸を入れる。両端、鬼瓦鰆付き。隅瓦上は饅頭蓋、鯱形飾板つき。
⑨扉 板扉、両内開き、八双金具他つき。親柱に肘柱
⑩脇門 柱を親柱と冠木でつなぎ、小梁をのせかけ、冠木上の束で棟木をうける。梁は持出し先に舟屋桁をおき、垂木で受ける。軒は一軒角疎垂木。本瓦茸。棟は半円一段積みとする。親柱えぶり板つき。
⑪補足 親柱間、脇間とも扉下に跳放痕あり。

土塀
(構造概要)
木造土塀、切妻造り、本瓦葺
(規模)
総延長  40.820m
梁行    0.910m
棟高    基壇上より2.290m
(構造形式)
①基壇 地覆石とも花崗岩、切石1~2段積み。ただし、石垣側(東側)は石垣の上に葛石をおいて土塀を支える。
②軸部・架構 角柱。柱間は、梁行は冠木を渡し、桁行は冠木の上に桁梁をのせる。冠木上に束を立て棟木を受ける。
③屋根 本瓦葺。端部、海津形鬼瓦。隅瓦上は饅頭蓋、小槌付き。
④壁  竹木舞壁下地に漆喰塗り。頂部と腰部に長押を廻す。
⑤補足 一部饅頭釘隠しが残る。昭和62年度修繕済み。

土塁
(構造概要)
旧山口藩庁門南側に所在した山口御屋形跡の土塁石垣(下部を石垣で補強した土塁)の残存部
(規模)
長さ(南北)       11.5m
幅(東西)          6.3m
石垣上端からの高さ  1.3m
(構造形式)
旧山口藩庁の前身である山口御屋形の大手桝形の南東隅に該当する。土塁は本来現状より北側に延伸しており、南側は堀に沿って西(県庁中央門側)へ続いていたが、現状では、北側は旧藩庁門建設に伴い切断され、西側は後世の改変により失われている。かつての山口御屋形の縄張りを厳重に区画していた土塁石垣の面影を伝える遺構である。

石垣
(構造概要)
山口御屋形の北東から南西にかけての防御壁として設けられていた土塁の下部の補強部分が残存したもので、現在は県庁敷地を区画する堀の内側(県庁舎側)の石垣
(規模)
総延長 276.7m
高さ  2.6~2.7m
(構造形式)
 石垣の塁線は、直角または鈍角に連なる4面の石垣面で構成される。これらの石垣は、旧山口藩庁の前身である山口御屋形の土塁石垣を継承したもので、原則的に長軸40~110cmを中心とした大型の花崗岩割石が布目崩し状に積まれる。
 当該箇所は山口御屋形の大手を含む正面性の高い場所で、山口御屋形の威容を今に伝えている。 

参考情報

〇屋形の造営には、古材が多く使用されたことを示す史料。
(1)「是日又山口に造築すべき建築工事の次序は五口の番所を第1にし、然る後霊社政事堂公館公族諸邸学校役員官舎の順と定め、其の用材は萩城内其他及び桜田邸にて解除せるものを運送せしめんとせり。かく工事に古材を用ひんとせるは国内山林の濫伐流廃を防がんが為なり(下略)」「両公伝史料」(山口県文書館蔵)
(2)「一銀拾五貫弐百目
    但御式台前東寄ニ御門建調同所左右櫛形塀弐拾四間建調之内拾四間古物取建仕是之物ニ代共壹間ニ付三百六拾目宛ニテ四貫九百目拾間新キ立方間口ニ付壹貫目宛ニテ拾貫目御門建方古物相用三百目共右之辻(略)」「諸造営前積一件」(山口県文書館蔵)

地図

画像

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