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文化財の概要

文化財名称

忌宮神社の数方庭行事

文化財名称(よみがな)

いみのみやじんじゃのすおうていぎょうじ

市町

下関市

指定


区分

民俗文化財

一般向け説明

 毎年8月7日から13日の間、長府忌宮神社の境内で行われる夏祭り。神社に伝わる2つの伝説があるが、その起源は、はっきりしていない。江戸時代の1683年(天和3)に、長府毛利3代藩主・綱元の時に出された衣食住の倹約令の記録によると、その当時から、武士と町人が一緒になり、競って参加していたことが分かる。2本をつなぎ合わせて作られた大幟と呼ばれる長さ20~30mの竹を担ぐ男達の勇壮な「幟舞い」と、「切篭」と呼ばれる燈篭を付けた七夕飾りを持つ女達の上品で美しい行列が、境内の鬼石と呼ばれる石を中心にして繰り広げられる珍しい祭りである。祖先の霊を迎える行事と秋の豊かな実りを祈願する行事とを合わせたものではないかと考えられている。また、大幟に付けられる鳥の羽根や鈴などから、朝鮮半島から伝来したものではないかとして注目されるようにもなっている。

小学生向け説明

 毎年8月7日から13日の間、長府忌宮神社の境内で行われる夏祭りで、2本の竹をつなぎ合わせて作った長さ20m~30mの大幟を担ぐ男達の勇ましい「幟舞い」と、「切篭」と呼ばれる燈篭を付けた七夕飾りを持つ女達の上品で美しい行列が、境内の「鬼石」と呼ばれる石を中心にして繰り広げられる珍しい祭りです。祖先の霊を迎える行事と秋の豊かな実りを祈る行事とを合わせたものではないかと考えられ、また、大幟に付ける鳥の毛や鈴などから、朝鮮半島とも関係があるのではないかと注目されています。

文化財要録

要録名称

忌宮神社の数方庭行事

指定区分・種類

無形民俗文化財

指定年月日

昭和59年11月2日(山口県県教育委員会告示 第4号)

保持者

数方庭保存会

時期及び場所

毎年8月7日~8月13日 忌宮神社社殿西側の神社境内

由来及び沿革

【行事の由来又は沿革】
〔数方庭の由来及び記録〕
 数方庭の由来については、社伝によるものがあり、仲哀天皇と塵輪との伝説(註1)、高麗国王の怨霊伝説(註2)がある。
 現在忌宮神社境内に据置かれている鬼石(長径85㎝、短径50㎝の平たい石)は、塵輪の葬所とされるが、いずれも伝説の域を出るものでなく、当社所有の重要文化財忌宮神社文書の附指定である鎌倉時代の境内絵図に鬼石の記載はない。
 中世において、神社が所管する神宮寺の僧による念仏祈祷会の修法会に由来するものではないかという説もあるが、これは内容において全く異なり、スホウテイという音に結びつけた推測であろう。
 文献においては、中世の文書には見当らず、初見は近世長府藩となってからで、「毛利家乗」の天和3年(1683)長府毛利3代藩主綱元の時代に出された衣食住の倹約令の中に数方庭に関するお触れがある。(註3)
 これによれば、武士と町人が一体となり、競って数方庭に参加していたことがわかる。
 元禄16年(1703)の神事警衙のお触れの付記には、「コノ神事ニ参加スル幟ノ数八千本余リモアリ」とある。
 享保初年に書かれたといわれる「二宮年中祭祀之行事」(註4)には、「数百の大旗と数百の燈火を持った氏子」とあり、更にその警固のための役人が数十人も派遣されていたことがわかる。
 この行事記録は、当時の数方庭(記録では「数波不天以」)の様相が記されており、行事を解明する上で貴重な資料である。
 なお、切籠については神功皇后に関する起源説話がある。(註5)
(注1)仲哀天皇が九州熊襲の叛乱平定のため西下途次、豊浦に仮宮を建てる。仲哀天皇7年旧暦の7年7日に、新羅国の塵輪が熊襲を煽動して攻めてきた。
 この時塵輪は、黒雲に乗って海を渡り、空から射かけたと伝える。このため苦戦するが、仲哀天皇自ら弓をとり射落したので勝利となり、塵輪の屍のまわりを矛をかざし、旗を振りながら踊り狂ったという。
 また塵輪の首を斬ってその場に埋め、大きな石で覆いその石を鬼石と呼ぶ。
 その後、神功皇后の出陣時にも鬼石のまわりで舞い踊り、これが数方庭の起源と伝える。
(注2)神功皇后凱施後、高麗国王の怨霊が、3間四方の大鳥となって飛来し、人畜に被害を与えるので、正月16日住吉の大神が一矢を射る。手負いの大鳥はなお長府の空を飛翔するので、一斉に射かけたところ忌宮神社の庭に落ち、それを地下7尺に埋めるが、その後イキレイなる悪疫が流行したので、怪鳥の怨霊を鎮めるため、旧暦7月7日より13日までの7日間、数方庭の行事を行うようになった。
(注3)「倹約令」……105条からなる。
一.数方庭の節、藩士が幟を出すのに従来1人で3本出していた者はこれからは1本出すこと。しかし男の子がある場合は1人1本宛は苦しくない。
また女の子で幟1本を出していた者は軽い燈籠を出すことは苦しくない。幟の生地やダシは従来通りでよいが、今後は在来より重いものにしてはいけない。
一.町方より出す幟も以上の定めにならうこと。但し、男の惣領であっても町人は親が1本出すこと。倅子に燈籠を出すことは苦しくない。 
 燈籠或は作り物等に至るまで目立つものは用捨(遠慮)し、キリコ等の小さい燈籠も10個出すことの出来る者も5つに控え目にすること。
(注4)「忌宮年中祭祀行事」 参照
(注5)神功皇后が新羅遠征から凱施したとき、浦の女たちが手に手に油筒に灯をともして浜辺へ迎えに出た。切籠はこの故事を、再現するもので、油筒がのちに今日の切籠燈籠に改められたと伝える。

内容

〔数方庭の行事次第〕
(1)祭具準備
 6月下旬の竹の下見から始まる。竹は毎年新しく準備される。採取地は、かつては木屋川上流の豊田町あたりまで出かけたが、近年は市内の才川・吉田方面を主とする。
 幟は、本来真竹の2本継ぎであったが、戦後は大きい真竹がなくなり、孟宗竹に真竹を継ぐことが多い。
 適当な竹を見つけると、縄を結んで目印とし、所有者と交渉するが、神事用ということで多くは奉仕品として提供を受ける。
 竹は、3年から5年もので、素姓のよいもの(軽くて丈夫で姿が良い)を選び、7月中旬頃に採取する。
 かつては切り取った竹を、若者組が担いで持ち帰ったが、近年はトレ-ラ-を使用する。(木屋川を筏流しで持ち帰ったこともある。)
 幟作りの作業は、町内の各空地で行われていたが、今は空地もなくなり、初めから神社境内に持ち込まれて行われる。
 なお、幟には大幟、中幟、小幟、幼幟があるが、小幟以下は各家庭で作られ、祭の期間中、家の前に立てておき、祭の当日持参する。
 大幟は、長さ20~30m、重さ60~80㎏にもなり、次の過程で作成される。
①境内に置かれた塩桶の海水を笹につけて竹を清める。(かつては、海につけたこともある。)
②竹の油を抜くために、境内の泥をつけた藁で磨く。
 ガスバ-ナ-やト-チランプを使用する場合もある。
③竹の節を抜く。これは、ねじれの調整と軽量化のために行う。
④しないを合わせるといって、2本の竹(下の方を台といい、孟宗竹が多く、上をグルリといって真竹を使用)の素姓合せを行うが、これには年季を必要とし、合わせ方が悪いと扱いにくく折れやすい。
⑤真竹に孟宗竹の先を突っ込み、2本の竹を継ぐ。
 継ぎ部分が割れるので、麻のよま紐で割れ目の上部から数ヶ所をしばる。
 しばり部分には、乾燥した時、緩まないように塩をすり込む。
⑥台(下の竹)の下部に、たすきを懸けるための切り込みを入れる。
⑦グリル(上の竹)には、次のものを上から順に取り付ける。
鳥毛……竹の先端部に取り付ける。古代のニワトリ(黒ガシワ)の羽を象徴する黒毛を原則とするが、現在は茶色や白色もある。
ダシ……細長い小旗で長いものは3㎝以上あり、家紋か社紋(白鳥)を染め抜くものを正規とする。
鈴……鳥毛の下に付ける。
幟……正式には1反幟といい、1反の木綿布を二ツ折りにして、独特の縫い方で作る。
 幟の裾部は、絞ってポンプラと呼ばれる竹の筒に取り付け、幟が上下し、回転するように工夫がしてある。
 舞場は、鬼石を中心とした半径約20mほどの円内で、周囲には、危険防止の為の柵が設けられる。
 一方、主として女性が持参する切籠は、笹竹に短冊や色紙を吊した、いわゆる七夕飾りに、燈籠が取り付けられる。
 切籠とはこの燈籠のことであるが、その形も初めは丸や四角の様々であったが、長府毛利家の作る菱形燈籠に倣い、現在は殆どが菱となる。

(2)行事内容
 日時 毎年8月7日~13日(旧暦7月7日~13日)
 場所 忌宮神社 桜門前の境内
 参加者 忌宮神社 社人
      数方庭保存会員他
 次第  毎日、約2時間(午後7時40分~10時)の間に、1番太鼓から4番太鼓まで同様のことが4回繰り返され、7日間で28番が義務づけられている。
 1番と3番を金屋組が受け持ち、一の鳥居の左側に集合し、神職の清祓い(大幣と塩)を先導に、高張提灯、楽人の順に列となって、太鼓を打ちながら石段を進む。
 楽器は、笛・大太鼓・シメ太鼓・鉦・笛を使用。
(笛は、近年神職により復活したもので、江戸時代は武士の役目)
 この集団は、境内を鬼石を中心に右廻りに一周し、鬼石の上に大太鼓を据える。
 かつては、このあと「呼々世以(アアヨイ) 呼々世以」と一同が声を出したと伝えるが、現在は太鼓の音のあとに一同が勝閧の「ワッ-」という声を出す。
 囃子は、合戦太鼓ともいわれ、合奏は次の様な調子で演奏され、その調子はだんだん早くなる。

 切籠を持った人達が先ず鬼石の回りを右回りに3周して退場する。
 次に、小幟・中幟等がホイホイと掛声を出して同じく右回りに廻り、最後に大幟が廻る。
 大幟に対しては、周囲からホイホイの掛声による声援が送られる。
 大幟は、台の切り込みにたすき(編み紐)をひっかけて腰に回して吊り、片手を竹に添え、片手を腰に当てて重心の安定をはかりながら回る。
 大幟の操作には、力と熟練を必要とし、長年の経験が大きな要素となる。
 大幟は、大正期頃から巨大化し、中には長さ30m、重さ100kgを越すものも登場する。
 周囲の柵が無い時には、1本の大幟に10人近い介添が付いたが、現在でも2~3人の介添が付き、安全を図る。
 近年大幟の数も増加し、59年8月の例では60本近い幟が繰り出し、勇壮な景観を見せるが、かつては、10本程度で、中幟・小幟・幼幟の順に数が多かったと伝える。

 〔数方庭にまつわる信仰、風習、行事等〕
(1) ある歳、故あって数方庭を営まなかったところ、満珠・干珠(何れも忌宮神社の飛地境内)の2島、夥しき音響を発し、海波山岳に振動し、人々おおいに恐懼し、鬼石に亀裂が生じ、悪疫が流行したので、あわてて時季遅れの数方庭を行ったという。
(2) ある歳、数方庭を怠ったところ、海の方から毎晩のように数方庭の太鼓や鉦の音、人々の掛け声などが聞こえてきて、長府の人々は眠るに眠れなかったという。
 (戦時中でも数方庭は、中止されることなく続けられたという。)
(3) 風習として、男の子が生まれると幟を、女の子が生まれると切籠を出し、健やかな成長と幸運を祈ったという。
 数方庭を「数方庭」と書くことがあり、祭神の神功皇后を安産の神として、また仲哀・神功両帝の武勇にあずかり、子宝への祈りを親がこめたものである。
 大幟につけるダシを妊婦の腰帯に用いることもあるという。
(4) 無病息災、学業成就、家内安全などの一般的な信仰も当然あり、小さな子供達は神社の除災招福の小さな御幣を頭に鉢巻でかざして帰る習わしがある。
(5) 鬼石のまわりの砂を魔よけのお守りとして持ち帰る。
(6) 幟を女性が跨ぐと竹が折れるといわれている。
(7) 数方庭行事には、7日のうち一度参加したら、必ず3回参加しなければならないといわれる。
(8) 8月7日の数方庭が始まる日の朝、女の子は壇具川で髪を洗い、朝露で硯の墨をすり短冊に書き、夜、切籠につけて神社に持参したという。行事終了後の14日の朝毎年使用するための燈籠を除いた切籠をは、長府沖の海に流す。(但し現在は焼却)
(9) 関連する行事として1月15日(本来は16日)の奉射祭の行事の時には、仲哀伝説に基づき、鬼石の上に直径7尺の四方八隅と呼ばれる独特の的を置き、宮司と弓太郎、弓次郎、矢を射て邪鬼を祓う。

参考情報

〔数方庭の民俗学的意義〕
 数方庭の行事を単純に意義じけることは困難であり、いくつかの民俗的要素が複合したものと考えられる。
 その解明には、今後の研究に待つ所が多いが、推測されるものをいくつか挙げてみる。
(1) 盆の祖霊祭
 8月7日から13日まで行われる数方庭は、盆前の行事としての祖霊まつりと考えられる。
 盆行事は仏教行事として定着しているが、当行事のように、神社で行われていることは、逆に仏教流入以前の我が国固有の魂祭でもあったことは示していると思われ、その根底にはきたり来る秋の豊穣への祈願があった。
 祖霊迎えは通常13日に行われるが、全国的にみて早い例では7日に行う所もある。
 できるだけ高くあげようとする大幟や、それに付ける鈴や鳥毛などは、天空から霊魂の目印となるためであろう。
(2) 農耕儀礼
 盆には、仏教行事としての魂祭と、豊作祈願としての民俗行事の2つの意味がある。
 民族的には、祖霊が子孫の生活に祝福を与えるために来臨するのを迎えて営まれる祭で、祖霊によってけがれを祓い作物の豊穣を祈ることを目的とする物忌みや祈願の行事である。
 数方庭と同様の祭事例が他に見られる。住吉神社(一の宮)では、かつて潮汲みや千把焚きによっても降雨がないときは、最後の手段として数方庭を奉納したという。
 豊北町の田耕地区、楠町でも行われたといわれる。
 いずれも雨乞いや風鎮に関連する祭事といわれ、数方庭の性格として、稲作の豊饒を祈る夏の農耕儀礼であったことが窺われる。
 員光八幡宮(下関市王司)、川北神社(同市綾羅木)、来福寺(同市井田)、川中地区(同市綾羅木)などでは、幟舞とも称され、小規模ではあるが、現在でも行われている。
(3) 七夕行事
 切籠の集団の持つ笹竹は、七夕行事の笹竹であり、数方庭の初日に女性達が川で髪を洗い、朝露で硯をするといったことも、水にちなんだ七夕行事の一環である。
 笹竹に取り付ける灯籠は、祖霊迎えの盆灯籠の一つであると考えられる。  
 切籠灯籠として残っているのは、古い形であるが、かつては丸や四角もあって毛利家の出す菱形の灯籠に統一された。
 笹竹や灯籠は、本来家の庭先や門先・室内などに固定されるものであるが、数方庭行事のように、手に持って境内を練り歩くのは祓の行事として夏季に行われる。
 眠流しの要素が含まれ、時代とともに娯楽性が加味されていったものかと思われる。眠流しは祓のために形代などを流す神送りの行事が、夏季の睡魔を追い払う行事として発達したものである。
 
〔起源と伝来について〕
 数方庭には、様々な表記がある。「数波不天以」(二宮年中祭祀之行事)、「数方勢」(社務日誌 明治30年代)、「数多勢」、「数法庭」、「数宝庭」などがあり、また呼び方にも「スホウテイ」、「スホ-ディ」、「スホ-デン」、「スッポウディ」などがある。
 このことから、数方庭の表記は発音をもとにしてあてられた漢字ではないかと予測され、更に語源として日本語であるのかという問題が生じてくる。
 そこで、伝説の塵輪の故国朝鮮半島の民俗信仰をみたとき、「ソッテイ」または「ステルテイ」といわれ、村の入口や寺院の門前に男女一対の木偶(チャンスン=長生)とともに木竿の頂に鳥形の木製品を取り付けた竿を建てる立杆習俗が注目される。
 近年朝鮮半島でも見られなくなってきているが、韓国済州島の川のほとりに川の氾濫を封じる目的で、鳥形を先端に挿した棒が立てられていたという報告があるように、朝鮮半島においては風水信仰と結びついているといわれる。なお、この鳥杆習俗は、中国東北部からシベリアにかけてもみられる。
 鳥杆習俗について、近年の研究では、3世紀の「魏書」東夷伝馬韓の条に記載されている「蘇塗」との関係が示され、「蘇塗」を鬼神(農耕神)をまつるための鈴と鼓をかけた大木とする杆木説に従えば、ソト→ソッテイ→……スサルティ→スホウテイというつながりが想定される。
 塵輪が伝説上、鳥人や鬼人として扱われ、大幟の先端に鳥形の略形と考えられる鳥毛と鈴を取り付けることは、民俗行事上の類似点を示していると考えられ、これらが同根のものとすれば、朝鮮半島以来の農耕儀礼として民族学上貴重な例といえる。

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忌宮神社の数方庭行事 関連画像003

忌宮神社の数方庭行事 関連画像004