絹本着色仏国国師像
けんぽんちゃくしょくぶっこくこくしぞう
岩国市
県
有形文化財
鎌倉時代
岩国市横山の岩国徴古館に所蔵されている。掛幅装で、寸法は立て107.4cm、横51.4cm。永興寺開山仏国国師の頂相(ちんぞう)である。永興寺は1309年(延慶2)に大内弘幸が仏国国師を開山として建立した古寺。図は袈裟(けさ)を着し椅子に坐す姿で、上方に霊山道隠の賛がある。
仏国国師は御嵯峨天皇の第3子として、1241年(仁治2)に出生。無学祖元などに学び、鎌倉幕府に請ぜられて、建長寺の14世の住持、浄妙寺その他の諸寺に住し、1316年(正和5)に没した。
賛を書いた霊山道隠は、中国杭州の人、来日して、北条高時の請いで鎌倉の建長寺、円覚寺の住持となる。1325年に没した。この賛により制作の時期が14世紀初期と考えられる。県内では最も古い肖像画である。
付の同じ仏国国師の肖像画は、吉川家の御用絵師斉藤等室(1668年没)の筆で、わが国黄檗宗の開山隠元隆琦(いんげんりゅうき、1593~1673)の賛がある。
岩国市の岩国徴古館にあります。
寸法はたて107cm、横51cm。
永興寺を開いた仏国国師(ぶっこくこくし)の像です。
永興寺は1309年に大内弘幸(おおうちひろゆき)が建立した古い寺です。
仏国国師は御嵯峨天皇(ごさがてんのう)の三ばんめの子として1241年に生まれました。無学祖元(むがくそげん)などに学び、建長寺や浄妙寺その他の諸寺に住し、1316年に没しました。
賛(さん)を書いた霊山道隠(れいざんどういん)は中国の人で、日本に来て鎌倉の建長寺、円覚寺の住持となった人です。1325年に没しました。この賛により、この像が描かれたのは1300年代の初めごろと考えられます。県内では最も古い肖像画です。
仏国国師の肖像画は、吉川家の御用絵師である斉藤等室が描いたもので、黄檗宗(おうばくしゅう)のを開いた隠元隆琦(いんげんりゅうき、1593~1673)の賛があります。
絹本着色仏国国師像
霊山道隠の賛がある
付 絹本着色仏国国師像
隠元隆琦の賛がある
有形文化財(絵画)
昭和62年10月27日
岩国市横山2丁目7-19(岩国市徴古館)
岩国市
14世紀初期(鎌倉時代末期)
(付) 17世紀半ば(江戸時代前期)
不明
(付) 斎藤等室
〇品質形状(両幅とも)
絹本着色 掛幅装 1幅1鋪
〇法量
縦 107.6cm 横 51.4cm
(付)縦 119.5cm 横 61.0cm
〇表現
内身部は裏彩色と推定され、黄土系統の顔料を緻密に、しかしうすく塗り、肉身線は細く強い濃墨線で引く。眼部は焦墨と朱墨でつくる。下着は白色顔料で彩色、焦墨の鉤勒描法。褊杉・袈裟は黄土系顔料で酸化して褪色している。太めのやや筆意をみせて鋭い墨線(やや肥痩あり、打込みは強くはない)で輪郭と髪を描き、その線に沿って墨の隈を施す。袈裟の田相部は金泥の平塗りで花鳥文(松竹梅、鳳凰)と雲文を描く。法被は薄い緑青地に金泥、朱、緑青を使い多彩な装飾的文様を施していたが、現在、顔料は剥落している。縁は両端に緑青の筋を入れ、朱地の上に細い金泥線で蔓唐草文様を描く。曲は濃墨の平塗り、先端は蕨手状に曲る。沓台は、本体は黄土、脚部は曲と同じく濃墨の平塗り。沓は白緑、黄土を使い、線は濃墨の彫り塗り。袈裟の鐶(八角)は黄土地に没骨の墨で濃淡をつけ、玳瑁文様を描く。墨地の上に八角の内と外を金泥で輪郭線を描く。竹箟は濃墨の平塗り。
なお、衣、法被、沓台、沓は鉤勒描法。
[賛文]
「有戒有行有賓
有主五住秘堤
一代人品無画
□師
佛光之子
圓覚霊山道隠賛(印)」
※ 印は朱印、印文は不明。
[巻留墨書]
「霊山和尚賛開山國師尊像 (印) 不動山永興禅寺常住〔 〕」
※ 印は黒字方印、印文は「〔 〕山」
(付)
概ね道隠賛の画像と同様に描かれる。無論、描法には相違点が認められ、肥痩線を用いるなど雲谷派の特徴が散見できる。目立った相違点は以下のとおり。
(1)袈裟の文様が梅花文
(2)宝珠をつけた曲、曲脚先の意匠、沓及び沓台に装飾性が顕著。
[賛文]
「印
日出高峰普
十方五處
七會廣済舟
航雷音一震
天下無蔵打
翻筋斗驚
醒夢至今
三百餘年後
忽覩真容文
放光
黄檗隠元賛
印 印」
※ 落款部の印はともに朱文方印、印文は「隆琦」「隠元之印」、関防印は「臨済正宗」(朱文長円印)
[印章]
向かって左下に朱印2顆
上 朱文円印、印文「雲」
下 白文方印、印文「等室」
仏国国師(1241~1316)
後嵯峨天皇の第3子。名は顕日、字は高峯。無学祖元等に学び、鎌倉幕府に請ぜられて、建長(第14世)、淨妙の諸寺に住し、下野の宝巌寺に寂す。仏国応供広済国師と諡す。歌が「新続古今和歌集」「風雅集」におさまる。
霊山道隠(?~1325<享年71歳>)
浙江省杭州府の人。元応元年(1319)、あるいは文保元年(1318)来日し、北条高時の請いで鎌倉建 長寺第19世住持、円覚寺第12世住持となる。夢窓疎石と親睦あり。
隠元隆琦(1592~1673)
中国明末の僧。福州生まれ。日本黄檗宗の開祖。承応3年(1654)来朝、山城国宇治に万福寺を開く。能書家でもあり黄檗三筆の一人。
斎藤等室(?~1668)
通称三之助、東七右ヱ門の子。画を雲谷等顔(雲谷派の祖)に学び曇渓と号す。斎藤等順(1626年没、享年80歳)の養子となり等室と改む。慶安3年(1650)法橋に叙せられる。寛文4年(1664)高野山に登り諸院に画がく。吉川氏の御用絵師。
(1)当該両件の頂相(肖像画)は、ともにもと岩国市横山の永興寺に伝来したもので、昭和17年(財)吉川報效会が入手し、さらに昭和26年岩国市が寄付を受けた。
なお、隠元賛仏国国師像にはもと背につぎの墨書があった。
「英檀吉川広紀公再興当寺、依之住持竺堂圭伸開堂、慶讃之儀不堪随喜、以開山仏国々師尊容一、寄附干不動山永興禅寺、聊充常住供養云、元禄九年竜集丙子初夏穀旦、城西亀山妙智守塔中山玄中記 (印)」
※ 印は朱文方印、印文「中山之印」
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