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文化財の概要

文化財名称

ガラス絵 泰西風景図・長崎港図

文化財名称(よみがな)

がらすえ たいせいふうけいず・ながさきこうず

市町

山口市

指定


区分

有形文化財

時代

江戸時代

一般向け説明

 山口市徳地島地の花尾八幡宮の所蔵である。二面ともほぼ同じ寸法で縦約50cm、横約60cmである。
 ガラス絵は、透明な板ガラスの裏面に、油あるいはにかわでといた絵具で絵を描き、表の面から鑑賞するものである。中世末までヨーロッパ各地で制作され、18世紀には中国でも作られた。日本では輸入品に学んで江戸後期から明治にかけて、長崎・江戸・上方で工芸的な作品が制作された。
 「泰西風景図」は、ヨーロッパの海辺の風景で、海には帆船やボートがうかび、民家や人物、樹木が描かれている。この絵に「長崎玉木官平一源画」と画家の署名がある。「長崎港図」は、長崎港を東側から俯瞰した絵で、海には舟がいくつも浮かび、海岸中央に出島、その左の方に唐人屋敷などがある。各額縁に嘉永3年(1850)と年号があり、その制作年がはっきりする。
 画家玉木官平(1807~1879)は長崎の人。号を一源・錦江といった。洋画にたけていたという。この絵は日本のガラス絵の歴史を知る上で貴重なものである。

小学生向け説明

 山口市徳地の花尾八幡宮にあります。二面ともほぼ同じ寸法で、たて50cm、横60cmです。
 ガラス絵は、透明な板ガラスの裏に絵を描き、表から鑑賞するものです。中世末までヨーロッパの各地で作られ、18世紀には中国でも作られていました。日本では、輸入された品に学んで、江戸時代後期から明治にかけて作られました。
 「泰西風景図」はヨーロッパの海辺の風景で、海には船やボートがうかび、民家や人物、樹木が描かれています。「長崎港図」は長崎港を東がわから見た絵で、海には舟がいくつもうかび、海岸に出島、唐人屋敷などが描かれています。それぞれの額縁(がくぶち)に「嘉永3年」(1850)と年号があり、作られた年がはっきりします。
 つくった玉木官平(1807~1879)は長崎の人です。

文化財要録

要録名称

ガラス絵 泰西風景図・長崎港図 
 付 旧木造額縁(嘉永三年銘) 

指定区分・種類

有形文化財(絵画)

指定年月日

平成2年11月6日

所在地

山口市徳地島地354番地(花尾八幡宮)

所有者

宗教法人 花尾八幡宮

制作等の年代又は時代

嘉永3年(1850)

製作者

玉木鶴亭

由来及び沿革

 明治28年5月の「花尾八幡宮御什物并ニ御所有地共記載簿」(花尾八幡宮)に
「一、玻璃繪額 貳面
 肥前國長﨑森屋太助寄附
 一、猩々緋幟 二本
 是ハ仝人寄附」
とあり、当ガラス絵は最近まで本殿に掲げられていた。なお猩々緋幟は戦前まで本殿前に立てられていた。

品質及び形状

◎ガラス絵
 透明な板ガラスの裏面に油ないし膠でといた絵具で絵を描き、表の面から観賞する絵。ふつうの絵とはほぼ逆の順序で絵具を塗りかさねる。ステインド・グラスとは光を通さない点で異なる。ヘレニズム末期から中世末までヨーロッパ各地で製作され、17世紀にはドイツ、東欧を中心として盛行し、18世紀には中国でも作られた。日本では輸入品に学んで、江戸後期から明治時代にかけて、長崎、江戸、上方などで工芸的な作品が製作され、ビードロ絵、玻璃絵などとも称された。
 ガラスを通して絵がみられることから透明感のある独特の効果が発揮されるとともに、絵具の変色が防がれていつも鮮やかな発色をみせるのが特徴である。日本では文化年間ごろからまねられた。
 (「新潮世界美術辞典」・吉川弘文館「国史大辞典」より)
(1)泰西風景図
 ガラス絵、油彩。ガラスは粗製で空気の入った痕跡が顕著で、下部にひび割れが見られる。
 ヨーロッパの海辺の風景図。海には帆船数艘とボート一艘が描かれ、帆船にはオランダの国旗がなびく。民家数棟が配され、前面に男女各2人の人物が大樹の陰に立って談ずる気配。背景に森が描かれる。
 2本の大樹のうち右の樹幹の裏に白色顔料描で「長崎玉木官平一源画」と記される。
 <法量>画面 縦51.3cm、横61.9cm
 旧額縁 縦69.6cm、横80.8cm
(2)長崎港図
 ガラス絵、油彩。油彩の剥落が目立つ。
 長崎港を東側から俯瞰した構図。湾内中央に唐船3艘、その右下にオランダ船1艘、沖合に唐船1艘が浮かぶほか、所々に引船などが描かれる。湾岸中央に出島、その左に新地唐人荷物蔵、さらにその左に唐人屋敷が描かれる。
 <法量>画面 縦50.2cm、横62.0cm
 旧額縁 縦69.7cm、横80.7cm

各額縁に以下の朱書銘がある。
 「奉掛御賓前」
 「嘉永三庚戌清月吉日」
 「肥前長﨑森屋太助」 (泰西風景図)
 「肥前長﨑住森屋太助」 (長崎港図)

参考情報

◎玉木鶴亭(1807-1879)
 通称は官平、字は又新・一源・鶴亭・九皐・錦絵などと号す。明治に入り、鶴亭と通称した。
 玉木家は、代々唐船掛宿町筆者役<長崎港に出入する唐船に関する貿易事務を司る職務>を勤め、官平も天保2年(1831)に家業をついだが、幼少より絵事を好み、とりわけ洋画に長けていたし、茶道、生花等も行う文化人であった。「特に油絵に至りては、天保年間、年三十余にして既に独特の妙品あり。殊に人物風景を能くし、云々」(『玉木家記』)明治7年(1874)長崎師範学校予科図面科教師になる。
 (古賀十二郎著 「長崎画史彙伝」より)

地図

画像

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