木造扁額「氷上山」
もくぞうへんがく「ひかみさん」
山口市
県
有形文化財
室町時代
縦108㎝、横62.5㎝、厚さ2.1㎝のヒノキあるいはヒバ材の1枚板で作られている額。表には、大内氏の氏寺である興隆寺の山号「氷上山」の文字が行書体で彫り込まれている。文字の大きさは21~23㎝角で、金箔の痕跡が認められ、それを幅約 2.5㎝の二重の枠で囲んでいる。額縁は失われているが、天地各2カ所に懸けるための金具が付いていたと思われる穴があいている。裏に彫り込まれている文字などから、大内政弘の願いによって建立された法界門に懸けるために1486年(文明18)に作られた額で、文字は後土御門天皇の筆によるものであることがわかる。山口県内で現存する扁額の中では最も古く、最も大きいものである。
縦 108㎝、横62.5㎝、厚さ 2.1㎝のヒノキあるいはヒバ材の1枚板で作られた扁額です。扁額とは門や室内にかける細長い額のことです。室町時代に山口を根拠地として強い勢力を誇っていた大内氏が一族の繁栄や死後の幸福を祈るために建てた興隆寺の山号「氷上山」の文字が彫り込まれています。大内政弘の願いによって建てられた法界門にかけるために1486年に作られた額で、文字は後土御門天皇が書いたものです。山口県内に残っている扁額の中で最も古く、最も大きいものです。
木造扁額「氷上山」
有形文化財(歴史資料)
平成10年12月4日
山口市大内御掘410番地
宗教法人 興隆寺
文明18年(1486)
本件については、「氷上山由緒書」(『防長寺社由来』18世紀半ば録上)、『防長古器考』(安永3年<1774>成立)有図第七十二氷上山興隆寺庫蔵の項、「防長両国神社仏閣宝物書出控」(寛政5年<1793>成立、毛利家文庫・社寺)真光院の項、『防長風土注進案』(19世紀半ば成立)山口宰判御堀村真光院の項(いずれも原本は山口県文書館蔵)に法界門(『防長風土注進案』によると、瓦葺、向1丈6尺5寸・入1丈4尺、左右見付練屏)の扁額として紹介されている。
(1)氷上山由緒書
「一法界門
文明十七乙巳歳七月十六日大内政弘建立也、額氷上山と有之候、三條中納言實隆卿依執奏當山記録被備叡覧、弥為勅願寺之由、後土御門院被染宸筆、勅額被下置候、綸旨往古焼失仕候由申傳候、額之裏書如左(※以下省略)」
(2)防長古器考
「法界門竪額
氷上山トアリ。大内政弘ノ世三條中納言實隆卿依執奏。後土御門院宸翰之額也。額ノ裏書左ノ如有之由。(※以下省略)」
(3)防長両国神社仏閣宝物書出控
「一後土御門院宸筆之額一枚
木竪冩筆之冩彫込也
氷上山
但當寺法界門江掛奉ル額是也、大内政弘朝臣ノ願ニ依而三條中納言實隆卿御執奏有之、當山傳記奉備叡覧之処、傳記并額被染宸翰、勅願寺之宣旨被下賜之処、傳記宸筆綸旨は往古焼失仕、天和三年八月十四日當山中興行海僧正奉願天台座主二品尭恕親王傳記之冩御染筆被下置也、勅願寺タルノ明證也、額ノ裏書有之左之通(※以下省略)」
(4)防長風土注進案
「法界門扁額は後土御門院の宸筆なり、同しく勅願寺の宣旨あり
今茲春因有夢瑞奏請當山之扁署及為勅願寺於朝尋有詔使侍従中納言實隆卿尋當山之致因、以此一巻備叡覧、於是當山之扁署被染宸翰並勅願寺宣旨所下賜如斬
文明十八年丙午
十月廿七日 従四位下多々良朝臣政弘(※以下省略)」
また、内大臣にまで昇りつめ、侍従として後土御門天皇(1456~1500年在位 の信任を得た公卿の三條西実隆(1455-1537)の日記「実隆公記」(1474~1536年、東大史料編纂所蔵)に、本件に関わる記述が以下の通り認められる。
(文明18年7月4日)
「在重来、周防国氷上山勅□事、大内申請之旨相談之」
(同7月5日)
「抑氷上山額事経奏聞之処、御思案追而可被仰下之由也」
(同7月20日)
「抑氷上山勅額并勅願所事、不可有子細之由被仰下、祝着畏之由申入了」
(同8月15日)
「仰氷上山勅額事、去六日重伺申之、申遣一条大納言、昨夕到来、今日持参之」
(同8月28日)
「周防国氷上山興隆寺勅額、勅願所綸旨等取調之、遺書状於大内、召在重仰之□」
(文明19年正月27日)
「抑大内左京大夫政弘朝臣就氷上山勅額、勅願所□事御礼申之、書状到来、在重持来、段子三段(略)盆一枚(略)進上之、則以書状令進上□了」
縦1.8cm、横62.5cm、厚さ2.1cm。
檜あるいは翌檜材の一枚板で、木目がよく詰む。額縁は欠失。懸額のため天地各2カ所に金具が使われていたようで穴があき、向かって右方の穴は通り抜けている。
表裏とも総漆塗りであるが、仕上げの漆は失われ、地粉を混ぜた下地しかのこっていない。
表に行書体で「氷上山」と彫込まれ、金箔の痕跡が認められる。1文字の大きさは21~23cm角。その文字を二重の枠(幅約2.5cm)が囲む。額面も文字面も平底彫りではなく、両縁部が深く中央部が盛り上がるという彫りがなされている。
欠失している額縁と額本体の接触面は斜めに彫り落とされており、各辺に釘穴の痕が多数見うけられる。
裏に、大字(前半4行)5cm角前後、小字(後半6行)約2.5cm角で、以下の文字(楷書体)が深く陰刻される。
「 當寺山号事
右額者依存 □(勅)定所打之如件
綸□(旨)別紙在之
文明十八年丙午十月廿七日
大□(檀)那従四位下行□(左)□(京)大夫多々良朝臣政□(弘)
別當□(権)大僧都法□(印)大和尚位乗海
□(彩)色賓淨坊住持□(権)少僧都宥淳
奉行□(修)襌坊住持□(権)少都源孝
當門建立同乙巳七月十六日
大工 三郎□(左)衛門賀茂□(綱)家」
○興隆寺
有力守護大名大内氏の氏寺で、天台宗、山号は氷上山、江戸時代には真光院と称した。天和3年(1683)の「氷上山伝記」(『防長寺社由来』などに登載)には、「附山八町許有上宮東嚮、下宮南嚮、本尊安置釈迦三尊、脇士四天王像、四面長廊、二層楼門、東西二塔、鐘楼、輪蔵及経庫、長日護摩堂、不断如法経堂、八幡社壇、三十番神祠、山王七社、厩屋、庁屋、湯屋、法界門、開道十町許、両行並百余房之甍」などと盛時のようすを記している。
○大内政弘(1446~95)
大内教弘(1420~65)の長男、大内義興(1477~1528)の父。周防・長門・豊前・筑前守護、将軍家相伴衆。応仁、文明の乱の際には、山名宗全(1404~73)とともに西軍の重鎮として摂津、京都を歴戦。一方、連歌師飯尾宗祇(1421~1502)を山口に招き、画僧雪舟(1420~1506)を保護し、「大内版」と称された出版事業を行うなどの文化への関与もはなはだ高いものがあった。法名を法泉寺殿直翁真正と称す。
○宝浄防宥淳
文明11年興隆寺本堂の棟札や大内版法華経板木(文明14年~延徳2年)・漆四脚盤などにその名が見える。
○大工賀茂三郎左右衛門綱家
興隆寺文書によると大工として、文明11年(1479)の本堂棟札や、興隆寺の境内地にあった大内氏の氏神妙見宮の延徳3年(1491)の棟札にその名が窺がえる。また、両棟札には、修理大工として「左右衛門少尉賀茂」(文明11年)、大工として「賀茂守家」(延徳3年)の名も見えるし、嘉暦3年(1443)の妙見宮棟札には「大工賀茂□□」「修理大工賀茂家真」とも見える。
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