旧上関番所
きゅうかみのせきばんしょ
上関町
県
有形文化財
江戸時代
上関町長島に所在する、桁行11.66m、梁間3.86m、本瓦葺きの木造入母屋造り、四面に下屋(一部土庇)をもつ、町所有の行政建築物である。
番所とは、江戸時代、萩藩が国境または海陸の要衝に設けた見張り所で、通行人や船舶の取締り、運上銀(税金)の徴収事務などを行った施設であり、鬼瓦には萩毛利家家紋がついている。この上関番所は、はじめ長島の四代(しだい)に1632年(寛永9)に設置されていたものを、利便性や朝鮮通信使の寄港などを考慮して、1711年(正徳1)に御茶屋などのある上関に移築したものである。この建物は赤間関の番所にならって建てられたというが、県下には番所の遺構を止めるのはこれが唯一である。藩政時代初期の数少ない行政機関の遺構としてたいへん貴重である。平成8年移築復元され、建築当初の姿によみがえった。
この建物は上関町にあります。番所とは、江戸時代に萩藩が国境または交通の重要な場所につくった見張り所で、通行人や船のとりしまり、運上銀(うんじょうきん=税金のこと)の徴収(ちょうしゅう)事務などを行った施設です。
この上関番所は、はじめ上関町長島の四代(しだい)に1632年に設置されていたものを、利便性や朝鮮通信使の寄港などを考えて、1711年に上関に移したものです。
この建物は、赤間関(いまの下関)の番所にならって建てられたといいますが、県下において番所の遺構をとどめるのはこれが唯一のものです。
旧上関番所 1棟
有形文化財(建造物)
平成12年3月31日
熊毛郡上関町大字長島629
上関町
建造 萩藩初代藩主 毛利秀就
移築 萩藩六代藩主 毛利吉元
上関町は山口県東南部の熊毛半島南端(室津)と長島・八島・祝島から成り、平安時代以来竃戸関(かまどせき)、室町時代以降上関と称されて赤間関(現下関市)・中関(現防府市)とともに周防灘3海関と呼ばれ、古くから瀬戸内海の要衝地として栄えた。
近世、上関には幕府役人や参勤交代の諸大名、朝鮮通信使、琉球使節の寄港に際して、その休憩や接遇のための御茶屋が設けられ、北前船などの諸国廻船などが立寄り、人々の往来も激しさを増して商業や海運業などで活況を呈し、文政年間には、蔵貸業や船荷を担保にした金融業の執務場所である越荷会所も設けられた。また、シーボルトなどオランダ商館の要人も寄港しており、幕末には高杉晋作など維新の志士たちの逗留も記録に遺される。
番所とは、萩藩が国境や陸海の要衝地に設置した見張所のことで、通行人や船舶の取締り、徴税などを行った行政機関である。
旧上関番所は、「大記録」(毛利家文庫:山口県文書館架蔵)の正徳元辛卯年上之関定番所被仰付候次第によると、萩藩が寛永9年(1632)長島の四代(しだい)に建造したが、上関泊との連絡の不便さや建物の老朽化により宝永4年(1707)閉鎖し、朝鮮通信使の寄港に際して正徳元年(1711)長島の上関に移築したと記述しており、これは「公儀事諸控」(毛利家文庫)の正徳元年上関常番所被仰付候事に記述される四代番所の閉鎖年代及び理由並びに上関番所の移築年代と一致する。
さらに『防長風土注進案』(19世紀半ば成立)は、四代について「往古嶋尻と號し御高札場御番所御勘場此所ニ有之候、因茲蒲井(かまい) 上関 戸津(へつ) 白井田之四村支配相成、故ニ四村之代りとて村之字を中畧し四代と唱来候由、其後正徳元卯年御番所上関■御引せ被成候得共、御高札ハ今以被建置候事」と記述し、移築年代は前掲両史料と一致している。
四代の番所の形状や位置について、前掲大記録は「貳間半ニ五間の御家ニ弐間四方の中門付申シ、面向東え当り、向見付ケ伊豫地え当り潮差際より拾間余上の方ニ御座候、上関瀬戸口より海陸程四代村え弐里御座候」と記し、これが文献上の初出となる。
四代から上関への移築に際し同記録は「此四代の番所今上の関え御引直シ被成ニて候得バ、新規の御事ニも非ず候故、上の関の絵図調被仰付朱引を以・・・・」、「番所間数ハ只今の通ニ無相違、やねの恰好ハ赤間関番所のごとく・・・・二重やねニ調替可被仰付候」と記述し、旧上関番所は建造当初の間数のままで、大きな改修が加わることなく、既存の赤間関番所を模した二層屋根様式で移築されたと指摘できる。移築後の規模や形状について『防長風土注進案』は、「桁行六間梁行貳間貳尺、外ニ壱間宛之大 垂附石居建屋根瓦葺二重小棟造ニシテ」と記述しており、これは本件の規模と一致するものであり、さらに後添資料A・Bとの符号を指摘することが可能である。また、赤間関蕃所との係りについては、後添資料Cが傍証となる。
なお、移築前の規模は「貳間半五間」と記述されており、移築の経緯や移築後の規模についての記述や図面との違いが見られるが、その理由については不明である。
移築の位置については、後添資料D及び『防長地下上申』に記される「一御番所、但東浜ニ有之、瓦ふき」、『防長風土注進案』に記述される「一御番所壱ケ所 在上関浦東町端」、さらに後添資料Eから、上関町東端にあった現移築復元前の番所所在地と一致する。
なお、後添資料A・D・Eからは、番所が御茶屋や御客屋などと一体化して移築されていることを指摘することができる。
「林家所蔵諸控」(上関町教育委員会・上関古文書解読の会刊)の上関御茶屋附属施設の入札売一件及び上関御茶屋附属施設落札一件は、明治3年上関御茶屋附属施設の民間への売却とその入札場所が番所となったことを記述している。時期は定かではないが「上関村地籍図」によると、番所の所在地は民間所有者に転じており、明治25年(1892)秋月広吉氏の所有以降平成4まで秋月家の住宅兼倉庫として使用された。
『山口県の民家』(昭和49年3月山口県教育委員会刊)によると、番所は秋月家住宅兼倉庫として増改築が著しく、旧状がかろうじて遺る状況であったが、周囲に土庇を設けた類例を見ない形式の藩政時代初期の建物であり、柱・天井回縁・化粧垂木・隅木など旧材が4分の1以上残存し、旧状復元が可能な注目すべき遺構と記されている。
旧上関御番所は老朽化や台風災害に伴う劣化が著しく、平成4年4月以降、山口県文化財保護審議会沢村 仁委員(当時)・佐藤正彦委員による指導の下、同年9月から解体修理に入った。そして、解体調査の結果、古材の位置や下屋の化粧垂木の打ちかえしの釘跡や番付け跡、部材の殆どが翌檜材で上屋と下屋の部材の経年差がないことなどから、正徳元年移築の遺構として確認され、平成8年5月山口県立熊毛南高等学校上関分校敷地隣接の町有地に移築復元された。この間、平成4年5月には上関町所有となり、同年9月18日上関町の有形文化財(建造物)に指定された。
(1)規模
ア 上屋
・裄行 桁行両端柱間真々 11.658m
・梁間 梁行両端柱間真々 3.856m
・軒の出 側柱真より広木舞(ひろこまい)外下角まで 1.063m
・軒高 柱礎石上端より広木舞外下角まで 4.100m
・棟高 柱礎石上端より棟頂上まで 6.186m
・平面積 側柱内側面積 44.953㎡
・軒面積 広木舞外下角内側面積 46.542㎡
・屋根面積 平葺面積 51.295㎡
イ 下屋
・桁行・梁間の幅 上屋柱と下屋柱真々 1.610m
・軒の出 側柱真より広木舞外下角まで 0.822m
・軒高 柱礎石上端より広木舞外下角まで 2.490m
・平面積 側柱内側面積 60.323㎡
・軒面積 広木舞外下角内側面積 34.280㎡
・屋根面積 平葺面積 47.057㎡
(2)構造形式 桁行6間、梁間2間、木造入母屋造、本瓦葺、萩毛利家々紋付き鬼瓦。
四面下屋付き、本瓦葺、萩毛利家々紋付き鬼瓦。
花崗岩の一段葛石。
(3)基礎 花崗岩・安山岩・片麻岩外側揃えの柱礎石。
(4)軸部 上屋柱、下屋柱とも大面取り角柱。
(5)造作
ア 上屋 中間の間を上間とする畳敷8畳3間及び正面6間・西側面2間の濡縁付きとする。
イ 下屋 正面と西側面及び東側面1間×3間並びに背面西4間×半間を土間床とし、背面東2間×1間を板張床納戸、背面西4間×半間を畳敷床の間とする。
(6)外観
ア 上屋 正面及び西側面を板戸引違い、東側面2間を障子引違い、背面東は1間を襖引違い・1間を真壁・背面西4間を吹き放しとし、下屋半間の床の間と連結する。
イ 下屋 正面及び西側面を吹き放しとする。
背面東3間及び西端1間並びに背面西4間の半間入側を白漆喰壁仕上げとし外側を吹き放しとする。背面西端1間から白漆喰壁で上屋に連結する。
全国的に見ても城郭等を除いてごく稀で、県内の国指定文化財には該当がなく、県指定文化財として元治元年(1864)建造の「旧山口藩庁門」のみである。
また、史跡指定で近世の行政機関の遺構としては、国指定の「旧萩藩御船倉」・「萩往還関連遺跡(三田尻御茶屋旧構内・宮市本陣兄部家など)」がある。
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