周防灘干拓遺跡 高泊開作浜五挺唐樋 名田島新開作南蛮樋
すおうなだかんたくいせき たかとまりかいさくはまごちょうからひ なたじましんがいさくなんばんひ
山口市
国
記念物
江戸時代
周防灘干拓遺跡は、瀬戸内海西部に面した山口県中央部に位置する江戸初期から中期にかけての新田開発に関する遺跡である。
潮の干満差が大きく遠浅な海岸、特に湾入部で河口近くに干潟が発達した場所では、古くから干拓(この地方では開作ともいう)が行われてきた。干拓とは、遠浅の海や干潟などの水を抜いたり干上がらせたりして陸地とし、耕地の拡大をはかるものである。高泊の浜五挺唐樋、名田島の新開作南蛮樋は、江戸時代における周防灘での干拓の実態を示す貴重な遺跡であり、また、切石による精緻な樋の構造は、当時の土木技術の到達点をよく示している。
高泊開作浜五挺唐樋(たかとまりかいさくごちょうからひ)
高泊開作は、小野田の高泊湾を干拓したもので、寛文8年(1668)の汐止めによって完成した。この干拓の樋門は当初は3挺であったが、安政4年(1857)に増設して5挺になった。翌年、排水口周辺の岩盤を除いて排水効果を高めるようにした。岩盤を掘削してその上に組石造りの樋門を築き、石柱間の水門5列のそれぞれに、汐の干満作用により自然開閉する構造の招き扉と呼ばれる木製の扉5枚が付けられている。これが現在に残る浜五挺唐樋である。樋門は幅10.81m、総高6.18m。
現在の新しい樋門が建設されるまで、300年以上にわたって機能した。
名田島新開作南蛮樋(なたじましんがいさくなんばんひ)
名田島は山口市の南部、椹野川河口部にあり、平地の大部分が干拓によってできている。寛永3年(1626)の長妻(ながつま)開作に始まり、慶安3年(1650)の慶三(けいさん)開作、元禄3年の(1690)元禄開作、安永3年(1774)の新開作(安永開作)と続き、昭和5年(1930)完成の昭和開作をもって、名田島地域の開拓事業は終わる。
南蛮樋が築かれた新開作は、「長陽年代記」(山口県文書館蔵毛利家文庫)によれば、安永3年(1774)9月24日に萩藩主から郡奉行に百余町(およそ100ヘクタール)の開作が命じられ、小郡宰判の代官の指揮のもと工事が行われ、同年12月7日に潮止めができたとされる。
安永開作の樋門は、長方形に加工した花崗岩を積み上げた堅牢な石垣の間に、ロクロによる巻き上げ方式の仕切板を設置した。樋守が1日に4度の干満の都度、板を上下させて潮止めと排水を行っていた。潮の干満作用によって自然開閉する唐樋に対して、この樋門には、海外渡来の最新技術とされたロクロ仕掛けを用いたことから「南蛮樋」と呼ばれた。
現在は沖合に山口県営干拓が完成したため、樋門として機能することはない。
周防灘干拓遺跡は、山陽小野田市高泊にある高泊浜五挺唐樋と山口市名田島にある名田島新開作南蛮樋の2ヵ所をいいます。ともに、江戸時代に周防灘で行われた開作(干拓のこと)の様子をしめす遺跡として貴重なものです。
高泊開作浜五挺唐樋(たかとまりかいさくごちょうからひ)
高泊開作は、1668年に完成しました。樋門は当初3挺でしたが、1857年に増設され5挺となりました。唐樋とは、汐の干満作用により自然開閉する構造をもった樋門のことです。樋門は幅10.81m、総高6.18mで、現在の新しい樋門が建設されるまで、300年以上にわたって機能しました。
名田島新開作南蛮樋(なたじましんがいさくなんばんひ)
名田島新開作南蛮樋は、山口市の椹野川の河口部にあり、1774年に完成しました。南蛮樋は、潮の干満で自然開閉する唐樋に対して、人力によって板を上下に動かして水の動きを調節していました。
周防灘干拓遺跡
(山陽小野田市)
高泊開作浜五挺唐樋
(山口市)
名田島新開作南蛮樋
史跡
平成8年3月28日
平成25年3月27日 追加指定
(山陽小野田市)
①山陽小野田市大字西高泊字浜1558-1
②山陽小野田市大字西高泊字浜2184-2
※③山陽小野田市大字西高泊字浜1558-1から2184-2に至る堤とうの地先
※④山陽小野田市大字西高泊字浜1558-1から2184-2に至る堤とう
※⑤山陽小野田市大字西高泊字浜1558-1から2184-2に至る堤とうに沿接する道路
※⑥山陽小野田市大字西高泊字浜1558-から2184-2に至る堤とうに沿接する道路地先
備考
③~⑥の標記は学事文書課の指導による。
(山口市)
山口県山口市名田島
(山陽小野田市)
①山陽小野田市
②宗教法人高泊神社
※③農林水産省、(山陽小野田市)
※④ 〃 、(山口県)
※⑤ 〃 、( 〃 )
※⑥ 〃 、( 〃 )
備考
③の管理者は農林水産省所管高泊漁港管理者である山陽小野田市(市長名)、④~⑥の管理者は同省所管国有財産部局である山口県(知事名)であり、当該地区の指定についても両者から同意を得ている。
(山口市)
建設省
(山陽小野田市)
江戸時代 寛文8年(1668)
(山口市)
江戸時代 安永3年(1774)
萩藩
(山陽小野田市)
寛文8年(1668)汐止めの高泊開作400町歩は、藩営開作中一時に施工されたものとして、周防長門両地区内における近世最大規模の開作であった。<注1>萩藩の直営事業として行われ、当職毛利就方が発起し、船木代官楊井春勝(三之允)が主管した。汐止め後20年目の貞享4年(1687)頃には開作地周辺に目出・有帆口・櫛山・千崎・平原・高須・鳥帽子岩・高泊地方・横土手・宮本(浜)等の集落が形成された。(厳島竜王社(高泊神社)「祭事神役割」)享保19年(1734)の『地下上申』には、高泊開作の石高4449石余とある。以後戸口と集落が増加し、安永4年(1775)に高泊村は東西に分村した。
この開作は高泊湾の干拓事業で、海水を堰止める沖堤防の築造中も再三決壊があった。最初の汐止め樋門は、有帆川の旧澪筋に石壁土垣(沖土手)を築いて水樋5基が設けられた。汐止めの2~3年後(寛文10~11年)、普請方熊野二郎左衛門により堤防西端の八幡山麓を掘削して堅固な樋門を新設。<注2>これは切貫唐樋(「防長風土注進案」)といわれ、当初2か所に設けられた。一つは八幡山東麓の三挺唐樋、他の一つは山麓北周を掘状に廻った南麓の二挺唐樋である。前者の三挺唐樋は安政4年(1857)に山麓の岩盤をさらに切りひらいて五挺唐樋に増設し、翌5年には排水口周辺の根岩を除去して排水効率を高めた。これにより現在の五挺唐樋の姿ができ、当時はこれを新石唐樋(「普請要録」)と呼称した。他方、南麓の二挺唐樋は昭和20年(1945)7月、米空軍の爆弾投下により埋没した。
県内諸所の開作に係る樋門の多くは、樋守により戸板を上下に開閉するいわゆる南蛮樋(平生町所在の土手町南蛮樋等)である。小野田市浜の五挺唐樋は県内最大の開作地にかかわる汐止め樋門であり、創設及び改修の沿革が明瞭であると共に、使用時の景観や構造をほぼ今に伝える唐樋遺構である。<注3>
なお、近代的な樋門が近隣地に完成したため、平成元年にコンクリ-トで排水路が閉鎖それその使命を終えた。
(山口市)
干拓遺跡がある新開作は、山口市の南部地区名田島に所在し、山口市の穀倉地帯である。名田島は昭和19年に山口市と合併するまでは名田島村であった。古代には八千郷、その後潟上庄といわれていた。潟上庄と呼ばれていた地区には現在鋳銭司地区、陶地区、名田島地区の3地区が所在している。名田島村が成立するまでは陶村の管轄に属していた。名田島村が成立したのは正徳年中陶村から分離独立をし、名田島村となり、小郡宰判の管轄に属するようになった。名田島村の大部分は干拓により築立てられた地である。寛永3年(1626)に築立てられた長妻開作、萩藩によってに築立てられた慶三開作(1650)、元禄開作(1690)、その後に同じく萩藩によって元禄開作の沖に築立てられたのが新開作である。
新開作は、安永3年(1774)9月から築立が始められ、同年12月に潮止めされた百余町の干拓地である。現在はこの開作の沖(南)に大正12年9月に山口県営として着手、昭和3年に完成した。面積が172町余の干拓地が広がっている。
この完成によって、海と接していた堤防と樋門はご用済となり、ほとんど変更されることもなく、そのまま保存されていたものである。名田島は前記のとおりその面積のほとんどを干拓によって形成されたものであり、その中に干拓遺跡として保存することは、この地区の成立の過程を知る上からも大変貴重なものであり、また、意義深いものである。この樋門について地元の古老の話によると東側にある悪水樋の近くに樋守小屋があり干潮、満潮の時期に合わせて、1日に4回樋門の仕切り板の上げ下げが行われ、仕切り板の上下には六角形のロクロで巻き上げられていた。そのロクロの上には上屋が構築されていたということである。この樋守人に対し藩政時代には藩から給付が行われていた。樋守人は初めは常勤であったが、後には干満の時期に合わせて勤務するようになったといわれている。終戦のころまでは南蛮樋の仕切り板があり、上屋も残っていたそうである 新開作は、毛利家文庫の長陽年代記に記載されている。この記録によると萩藩より吉敷郡奉行粟屋六郎右衛門勝之に安永3年9月20日に名田島に百余町の開作が仰せつけられた。開作方として小郡代官三戸四兵衛、郡方本締より石川伝左衛門遠近に仰せつけられる。諸郡より加勢を得て、築立ができ、12月7日潮止めができたと記録されている。これらの人々の名前は新開作の鎮守三神社の石鳥居に刻まれている。
また、毛利11代史巻の84上「御国政再興記」の中に新開作の築立の必要性が記載されている。
新開作の様子が描かれている名田島新開作絵図が山口県文書館に残されている。絵図の大きさは横130.5㎝、縦103㎝、樋門について四挺樋、南蛮樋、石樋、南蛮樋の上に屋根の絵が書き入れてある。また、樋門の東方土手に「樋守固屋」との記入がある。
(山口市)
山口市名田島の周防灘干拓遺跡は、山口市名田島地区の南に位置し、東に陶ケ岳を起点とする連山があり、その麓に南若川が流下し、西は山口市北部の山地を源流とした椹野川とにはさまれている。山口湾の干潟を干拓した平地が展開する地で、昭和開作と新開作(安永開作)の間にあり、東は南若川と西は椹野川との間にある堤防の中央に位置する。この遺跡は、江戸時代の安永3年(1774)12月に潮止めされた新開作の堤防とその堤防に所在している排水用の樋門、三挺樋・四挺樋・悪水樋2基とそれに伴う堤防で構成されている。
(1)堤防
新開作は、江戸時代の元禄時代に開作された元禄開作から百余町の面積を囲む堤防が安永3年に築かれた。現在残っている堤防は新開作の沖(南)に昭和3年潮止めされた昭和開作が築かれたことによってその役目が解かれた東の南若川から西の椹野川の堤防と樋門が完全な形で残されている。
申請地内にある堤防は築立当時のままほぼ完全に残されているが、申請地外の堤防については後世手が加えられ堤防の巾あるいは高さが変わっている。申請地内の堤防の南側の石垣は、野面石で築かれている。申請地内の樋門の付近では約40㎝角の切り石によって二段に積み上げられている。その積み方は南側の樋門の付近は横積みであるが途中から谷積みとなっている。本来なら樋門付近と同じ横積みであったものが、後世の暴風雨や高潮によって決壊し谷積みに変更されたものと思われる。堤防の高さは約5.0m、巾は約12.5mで、三、四挺樋のある堤防の寸法は、後記の通りである。堤防の石垣は、海面より約3.5mのところで約1m内側に入ったところからまた約1.5mの高さに組まれている。
また、申請地外の西の堤防の内、南側の海に面した側は野面石で石垣が築かれている。その規模は椹野川から南若川までの堤防の長さが約1,240m、指定地内の堤防の長さが北側272.9m、南側309.6m。
(2)四挺樋
この樋門があるところの堤防幅は約43m、樋門東西幅6.5m、総高約5m。水路の底部には底が水によって掘れないように長方形の加工された石材によって石が敷かれ、側壁は底から約50㎝角の長方形の加工石材を4段重ねとしたものを縦(南北)方向に等間隔に5列並築し、それぞれに2列の溝が入っている。その溝に海との仕切り板を(戸板)を差し込むようになっている。樋門は4列の水路部を構成し、その上面に約43㎝角の石材を並べて敷き、天井部を構成している。さらにその上面に海側(南)には約43㎝角の長方形に加工された石材を3段重ね、その上に厚さ17㎝の石材を置き、水路部の上には約35㎝角の石材を置き滑車固定用の施設としている。遊水池(西)側には切石を積み上げて石垣を築いている。各排水路の内法は、幅126㎝、高さ185㎝である。海側と遊水池側どちらにも石材にくり溝が入れてあり、そこに潮止め用の戸板を上から落としたものである。
海側にはこの戸板を巻き上げる六角型のロクロの固定用の施設が設けられ、36㎝角の長方形の加工石材が海側に90㎝3か所等間隔に配置されている。石材は花崗岩である。
(3)三挺樋
この樋門があるところの堤防幅は約37m、樋門東西幅4.3m、総高約5m、樋門には約45㎝角の長方形の加工石材が四挺樋と同様に低部に敷きつめられている。低部から約45㎝角の長方形の加工石材を縦(南北)方向に7段積みされている。5段目の石材に戸板を上から落とすための受けの石材を入れるための穴あり、その穴に約45㎝の石材が東西に2本渡してあったが、1本は欠失している。その7段の石材の上に横約40㎝縦約25㎝の石材で7段積みの石垣を築き、その上を東西に堤防に沿って石橋が掛けてある。この4段目には上記と同じようにの東西に石材が渡してあるが、1本は欠失している。この石材があるところには底から縦に約35㎝の通しの石材があり、戸板が落とせるように溝がくってある。石材は花崗岩である。
(4)悪水樋
悪水樋は三、四挺樋より一段底が低く造られている。三、四挺樋をはさんで東西に2か所悪水樋がある。東にある悪水樋は、幅133㎝、高さ92㎝である。底には水で底が掘れないように敷石が敷かれ、そこから約50㎝角の長方形の加工石材を縦(南北)方向に3段積み、その上面に同石材を1段分横(東西)方向に敷き並べ天上部を造っている。その上面に5段同石材を積み上げている。北側(開作)の流入口には戸板が入れられるように樋門の両側に溝のくりが入れてある。西側にある悪水樋は、幅約200㎝、高さ約85㎝であるが、後年改修され四面コンクリ-トの水路となっている。
石材は花崗岩である。花崗岩は、山口市秋穂二島地区の岩屋から産出したものと思われる。
<注1>新唐樋の工事については寛文12年(1672)奥書の「高泊御開作新田記」(1巻、山陽小野田市大字西高泊字浜の宗教法人高泊神社所有、昭和59年3月1日に小野田市指定文化財(古文書))に記述があることから、汐止後2~3年の間(寛文10~12年頃)に完成したものと推定される。なお、汐止めの樋門は新唐樋の完成後に埋められ、当地には現在、標石(汐止石)が建てるれている。
<注2>本件は生産遺跡(産業・交通・土手に関する遺跡)であり、近世新田開発に関連するものである。
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