辻山のシダレザクラ
つじやまのしだれざくら
萩市
県
記念物
シダレザクラは枝の垂れるサクラ。このシダレザクラは旧むつみ村の北部、阿武町境に近い高佐上辻山のスギ林の中にある。現在は山林となっているが、もとは矢島家の旧宅があった場所。花の特徴から、エドヒガンという品種のシダレザクラ(別名イトザクラ)である。
高さは約15.8mと県下最大で、主幹の根元の周囲は約3.2m、目の高さの幹周り2.26m。地上4.9mで二つの幹に分かれ、さらに上方に向かって延び、そこから各方向に枝を伸ばしている。枝張りは東約6.2m、西約10m、南約7m、北約11.3mで、樹形はほぼ均整のとれた傘形をなし、樹勢は旺盛である。開花時期はおおむね四月上旬である。
旧宅地や周辺の畑にスギが植林され、山林となったが、シダレザクラは周囲のスギを切るなどして大切に保護されている。
シダレザクラは枝のたれるサクラんもことです。このシダレザクラは萩市高佐の、スギ林の中にあり、エドヒガンという品種です。高さは約16mと県内最大です。地上約5mのところで二つの幹に分かれ、上に向かってのび、さらにそこから各方向に枝をのばしています。枝は東約6m、西約10m、南約7m、北約11mに広がり、木の形は均整のとれたかさ形をしています。木は生き生きとしていて、開花の時期は4月はじめです。このシダレザクラは周囲のスギを切るなどして大切に保護されています。
辻山のシダレザクラ
天然記念物
平成11年4月6日
萩市大字高佐上字太郎田1222番
矢島家は、昭和のはじめに山口市に移住するまでは、むつみ村高佐辻山の本件のシダレザクラが庭に生育する大きな屋敷に住んでいた。明治・大正時代、矢島家は広大な田畑を所有しており、明治35年、当主である矢島寿一は高俣村長に就任している。
矢島家の墓石、旧宅にある宝篋印塔、および関係する古文書の調査(調査内容については別添資料のとおり)から、矢島家の祖先は養寿院(萩の天台宗養学院の配下)という山伏であり、西歴1700年前後にこの地に居を構えたこと、その後かなりの財をなしていたこと、江戸末期までは山伏として生計を立てていたらしいことがわかった。
矢島家は、徳川綱吉の時代(1680~1709年)に、むつみ村高佐に居を構えたという地元の言い伝え、および矢島の出である内田信子(現所有者の母)の「矢島家の先祖は山伏であり、旧宅の母屋は修行道場であったと聞いている。」という言葉と一致している。
また、高佐下村の庄屋であった蔵田家の古文書(山口県文書館蔵)の一つである「高佐廻地名記」(嘉永7年、西暦1854年記)は、当時の高佐の状況を小字ごとに詳しく説明しているが、辻山地区の紹介の中に「水の流八妙ヶ崎、西の麓は金挙、寺ヶ浴に行者あり、不道明王信心に、螺貝、錫杖、賑はしや、養寿院と申すなり、所帯吉野の庭の花・・・(略)」とある。この記事から、この地に養寿院という行者が居り、そこには「吉野の庭の花」と称されるように、本件のサクラが存在したことがほぼ確認され、当時村民に十分確認される存在であったことが判明する。
明治、大正時代、旧宅周辺は畑であったため、1㎞離れた中山地区からも山の中腹にシダレザクラの白い花が咲いているのを遠望でき、4月の農作業の目安にしていた。その後、旧宅跡地および周辺の畑に杉が植林され、辺りは山林化したが、シダレザクラだけは、周囲の杉を伐採するなどして、地元の内田家(旧矢島家)敷地管理者によって大切に守られている。
7 関係古文書(山口県文書館蔵)
・蔵田家文書 「高佐廻地名記」(嘉永7年、西暦1854年 吉岡順平祐永作)
蔵田安次郎による写し
地名と史実と織り込んだもので、高佐の歴史はこの地名記にすべて盛り込まれているといってよいほどの力作である。(むつみ村史より)
宇生賀村(今の阿武町宇生賀)、前は地吉(良し)之
畠あり、箕面(みもおり)平と申すなり、山根
や持や坂本の、百姓(姓)方之立気
吉(良し)、腕をさすりて我勝に、
水の流ハ妙ケ崎、西の麓は金拳、寺ケ浴に行者あり、
不動明王信心に、螺貝、錫杖、
振わしや、養壽院と申なり、
所帯吉野(所帯良し)の庭の花、後の
谷に草穴の、奥ハ深き
・蔵田家文書 「養壽院より貸銀勘定覚」(申十二月)
養壽院からの蔵田好太郎宛請求書
養壽院が、庄屋を勤める蔵田家にお金を貸せるほどの財力を有していたことがうかがえる。
・毛利家文庫 「奥阿武郡入隊之者及戦争子細人名簿」(明治2年)
これは、首標の名簿に、奥阿武宰判百姓中入隊者戦功録と農兵及戦争者子細人名簿を合綴し、さらに防長両国修験僧編成の玄武隊戦功録を添付したものである。
その玄武隊戦功録の中に、「萩養学院配下養壽院弟子・・・・」の記述があることから、養壽院は修験僧(山伏)で、萩の天台宗養学院の配下であり、弟子もいたことがわかる。
8 矢島家宝篋印塔及び墓の調査結果
(1) 宝篋印塔
矢島家旧宅跡地にあるもので、矢島家が山口に出た際に、一緒に移設したが、後に元の場所に戻された。
宝篋印塔に、養壽院の文字が刻まれており、矢島家の先祖が養壽院であったことがわかる。
<刻まれている文字>
維時天保六乙未
十月吉祥日建立(西暦1835)
施主養壽院四世 行栄法印
行主同二男 超諄坊
養壽院5世 行範法印代
石工須佐 玉屋民平
(2) 矢島家の墓
ア 江戸時代の墓・・・矢島家旧宅跡から1km離れてた場所にある。
「養壽院開基伏岳法印教山 不正位 正徳三癸巳十二月十七日」 西暦1713年
「養壽院二世行盛法印秀圓 不正位 宝暦五乙亥 八月廿三日」 西暦1755年
「養壽院三世中興行盛法印教山 不正位 文政四辛巳 六月三日」 西暦1821年
「養壽院四世ニ僧祇法印行榮 不正位 天保十四癸卯 六月三十日」 西暦1843年
「養壽院五世ニ僧祇法印行範 不正位 嘉永五壬子 正月廿六日」 西暦1852年
「高擧院天祐智眼大姉 文久ニ壬戌 閏八月二十九日」 西暦1862年
イ 明治時代以降の墓・・・矢島家旧宅跡から200m離れた場所にある。
墓標は法名でなく実名である為、矢島の文字はあるものの、養壽院の文字は見あたらない。
しかし、女性の墓の一基に、江戸時代の高譽院天祐智眼大姉の墓と同じ九曜の紋があり、養壽院が矢島家の先祖であったことを裏付けている。
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