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文化財の概要

文化財名称

山﨑八幡宮の本山神事

文化財名称(よみがな)

やまさきはちまんぐうのほんやましんじ

市町

周南市

指定


区分

民俗文化財

一般向け説明

 周南市富田の山﨑八幡宮において五穀豊穣を祈り行われるとされる秋祭り。
 祭りの数日前に、参道中程脇において、本山(ほんやま)、爺山(じいやま)、婆山(ばあやま)という3台の山車が組み立てられる。部材には、傷んだ箇所を除き、前年に使用されたものが再び使用され、ほぞとほぞ穴を組み合わせ、事前に採取したカズラで結わえられる。毎年新たに五段の枝を持つ松が御神松(ごしんまつ)として用意され、本山のやや後方中央に取り付けられる。また、祭り当日までに山車の引き綱が二つの地区から山﨑八幡宮へ奉納される。
 当日、3台の山車に幔幕(まんまく)がそれぞれ取り付けられる。本山にはさらに提灯などが飾りつけられ、シシと呼ばれる神主役1名、幣振り2名のほか、横笛、太鼓など概ね10名が乗り込む。
 まず爺山に翁(おきな)の人形と一本の引き綱が取り付けられ、子供達に引かれ出発する。参道を直進し、神社前の坂を引き上げられた後、幔幕、引き綱が外され、向きを変えて坂を落とされる。次いで婆山も同様に引き上げられた後に坂を落とされる。
 次に本山に二本の引き綱が取り付けられ、神主役により神事(祝詞奏上、舞)が行われた後、氏子衆に引かれ出発し、参道を直進する。途中、神事が行われ、カンコと呼ばれる稚児(ちご)2名及びその両親が乗せられ、さらに神事が行われる。坂の手前でカンコ及びその両親は一旦本山から降り、本山は坂を引き上げられる。本山は鳥居の前で神社より降りてきた神輿と対面し、神事(対面式)が行われる。神事終了後、乗員は本山から降り、本山から幔幕、引き綱が外される。その後、本山は向きをかえて坂を落とされ、坂の下では、参拝者により御幣や御神松の枝の奪い合いが行われる。落とされた本山の転がる方向により豊凶を占うとされる。
 以上、近世中期より、伝統的な方法で山車を組み立て、神社前の坂を引き上げ落とす一連の手法が、毎年続けられており、他に類を見ない貴重なものといえる。

小学生向け説明

 周南市富田の山﨑八幡宮で、五穀豊穣(穀物が豊かに実ること)を祈って行われるという秋祭り。
 祭りの数日前に、参道中ほどのわきで、本山(ほんやま)、爺山(じいやま)、婆山(ばあやま)という3台の山車(だし)が組み立てられます。材料には、いたんだ部分を除いて、前年に使用されたものが再び使用され、ほぞ(他の材料の穴にはめこむために突き出したもの)とほぞ穴を組み合わせ、カズラでしばられます。毎年新たに、五段の枝を持つ松が御神松(ごしんまつ)として用意され、本山の少し後方の中央に取りつけられます。また、祭り当日までに山車の引き綱が二つの地区から山﨑八幡宮へ奉納されます。
 当日、3台の山車に幔幕(まんまく)がそれぞれ取り付けられます。本山にはさらに提灯などが飾りつけられ、シシと呼ばれる神主(かんぬし)役1名、幣(へい。折った紙を木にはさんだ、おはらいのための道具)振り2名のほか、横笛、太鼓など約10名が乗り込みます。
 まず爺山に翁(おきな)の人形と一本の引き綱が取りつけられ、子ども達に引かれ出発します。参道を直進し、神社前の坂を引き上げられた後、幔幕、引き綱が外され、向きを変えて坂を落とされます。次いで婆山も同様に引き上げられた後に坂を落とされます。
 次に本山に二本の引き綱が取りつけられ、神主役により祝詞奏上(神前で、祭りの目的などについての文章を読み上げること)と舞が行われた後、氏子衆(同じ地域に住んで、共通の神様をまつる人びと)に引かれ出発し、参道を直進します。途中、神事が行われ、カンコと呼ばれる子ども2名とその両親が乗せられ、さらに神事が行われます。坂の手前でカンコとその両親はいったん本山から降り、本山は坂を引き上げられます。本山は鳥居の前で神社より降りてきた神輿(みこし)と向かい合い、神事が行われます。神事終了後、乗員は本山から降り、本山から幔幕、引き綱が外されます。その後、本山は向きをかえて坂を落とされ、坂の下では、参拝者が御幣や御神松の枝を奪い合います。落とされた本山の転がる方向によって、豊作か凶作かを占うといわれます。
 江戸時代中ごろから、伝統的な方法で山車を組み立て、神社前の坂を引き上げて落とすというやりかたが、毎年続けられており、他に例のない貴重なものです。

文化財要録

要録名称

山﨑八幡宮の本山神事

指定区分・種類

無形民俗文化財

指定年月日

平成22年5月18日

所在地

周南市

保持者

山﨑八幡宮本山神事保存会

保持者住所

周南市宮の前一丁目9番10号 山﨑八幡宮内

時期及び場所

毎年9月下旬の土・日曜日
山﨑八幡宮及び参道

由来及び沿革

当祭礼について、「富田村庄寺(しょうじ)八幡宮」(元文5年(1740年)、『防長寺社由来』所収)に関係する記述が見られることから、遅くとも18世紀中頃には、現在に続く祭礼の形が整えられたと考えられる。
 また『願事録(がんじろく)』(徳山毛利家文庫)などの史料に、寛政5年 (1793年)から明治期まで、富田新町から徳山藩に対し、毎年山車を組み立てる際に必要となる御神松、竹、カズラなどの採用を求めると同時に、損傷した部材の採用を求める文書が提出されていたことが確認でき、現在と同様に、損傷した部材を毎年取り替えながら、山車を組み立てていたことが確認できる。

参考情報

 山﨑八幡宮という名称は、元治元年(1864年)に庄寺八幡宮から変更された名称である。
 また、大正15年(1926年)10月に山﨑八幡宮から山口県知事宛に提出されている「昇格願」(『県社以下神社』所収、山口県文書館蔵)では、「毛利家記録」を引用し、元禄15年(1702年)5月に虫害により農作物の不作が続いた際、馬場を開設し、その両側に松・杉を植え、その後、秋季例祭に御神事山と鉾山2つを奉納したとある。

画像

山﨑八幡宮の本山神事 関連画像001

山﨑八幡宮の本山神事 関連画像002