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文化財の概要

文化財名称

長府藩主毛利家墓所

文化財名称(よみがな)

ちょうふはんしゅもうりけぼしょ

市町

下関市

指定


区分

記念物

時代

江戸時代

一般向け説明

 長府藩主毛利家墓所は、功山寺(曹洞宗)・笑山寺(しょうざんじ)(曹洞宗)・覚苑寺(かくおんじ)(黄檗宗)に所在する(この他、東京都港区高輪二丁目11番1に所在する泉岳寺(曹洞宗)にも墓所がある)。14代元敏を除いた歴代藩主に限れば、功山寺・笑山寺は詣り墓、覚苑寺は埋め墓である。
 功山寺には初代秀元をはじめ、5代元矩(もとのり)、9代匡満(まさみつ)、10代匡芳(まさよし)、11代元義、12代元運(もとゆき)、14代元敏といった歴代藩主に加え、藩主の正室・側室・子女といった関係者の墓がある。現存する功山寺の墓域は、明治時代に墓域の改変があったことから、江戸時代に比べて整理・縮小されているものの、その規模は3ヶ寺の中でも最大であり、加えて石塔は当時のものを使用し林立していることから荘厳である。また、明治時代に入って没した12代元運室欽子(なるこ)や14代元敏、元敏の姉?子(れいこ)の墓は、文献資料から埋葬の様子を窺うことができ、近代における大名華族の墓制を知る上で貴重である。
 笑山寺には、2代光広と7代師就(もろなり)の二代の藩主や、光広没時の殉死者などの墓がある。とりわけ光広の墓は、県内最大級の五輪塔とも言われ壮大である。また、7代師就の墓には周囲を玉垣がめぐる。
 覚苑寺には、3代綱元と6代匡広(まさひろ)、及び13代元周(もとかね)夫妻の墓がある。このうち、綱元と元周夫妻の墓が同一区画にある一方、匡広の墓が独立して区画を形成している。綱元及び元周夫妻の墓を概観すると、綱元・元周の墓は玉垣をめぐらしている一方で、元周室の墓には玉垣はなく、墓石もやや小ぶりである。また、匡広の墓は、墓石の周囲に玉垣をめぐらした上で、その外周部に土塀が現存し、墓の正面には門も備えていることから、歴代藩主墓の中で最も原初の姿をとどめているものと考えられ、特筆に値する。
 3ヶ寺の墓域の周囲には土塀跡が見られ、墓域が土塀により周囲と区画されていたことが窺える。

小学生向け説明

 長府藩主毛利家墓所は、功山寺(こうざんじ)・笑山寺(しょうざんじ)・覚苑寺(かくおんじ)にあります(このほか、東京都港区にある泉岳寺(せんがくじ)にも墓所があります)。14代元敏(もととし)を除いた歴代藩主に限れば、功山寺・笑山寺は詣り墓(まいりばか。遺体を埋葬していない、お参りするための墓)、覚苑寺は埋め墓(うめばか。遺体を埋葬した墓)です。
 功山寺には初代秀元(ひでもと)をはじめ、歴代藩主のほか、藩主の妻や子どもたちの墓などがあります。いまの功山寺の墓地は、明治時代に変えられたもので、江戸時代に比べて整理・縮小されていますが、その大きさは3つの寺の中でも最大で、さらに昔からの石塔がたくさんならび立っており、重々しく立派な様子です。また、明治時代に亡くなった12代元運(もとゆき)の妻・欽子(なるこ)や14代元敏、元敏の姉・?子(れいこ)の墓は、文書から埋葬の様子を知ることができます。
 笑山寺には、2代光広(みつひろ)と7代師就(もろなり)の二代の藩主の墓などがあります。特に光広の墓は、県内最大級の五輪塔(ごりんとう)とも言われ、大きくて立派です。また、7代師就の墓はまわりを垣根がかこんでいます。
 覚苑寺には、3代綱元(つなもと)と6代匡広(まさひろ)、13代元周(もとかね)夫妻の墓があります。綱元と元周の墓は垣根にかこまれている一方で、元周の妻の墓には垣根はなく、墓石もやや小ぶりです。また、匡広の墓は、墓石が垣根にかこまれて、その外側に土塀があり、墓の正面には門もあるため、歴代藩主の墓の中で最も初めのころの姿を残しているものと考えられます。
 3つの寺の墓地の周囲には土塀跡が見られ、墓地が土塀により周囲と区切られていたらしいことがわかります。

文化財要録

要録名称

長府藩主毛利家墓所

指定区分・種類

史跡

指定年月日

平成26年12月2日

所在地

(功山寺)下関市長府川端一丁目2171番1
(笑山寺)下関市大字豊浦村字土肥山2692番地
(覚苑寺)下関市長府安養寺三丁目1272番地
      下関市長府安養寺三丁目312番地4 

由来及び沿革

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利輝元・秀就父子には周防・長門両国が与えられることになった。
 これを受けて輝元は、従兄弟である毛利秀元に、長門府中(長府)において3万6千石余を与え、萩藩の支藩である長府藩が成立した(後に4万7千石、天明3年(1783)には城主格となり5万石)。以後14代にわたり長府藩を治め、明治4年(1871)の廃藩置県を迎える。
 参勤交代により各藩主は、国元もしくは江戸で没することになる。長府藩主の場合、国元で没する事例は2例を数えるにとどまり(6代匡広、13代元周)、多くは江戸で没した。そして一例を除き、泉岳寺(現東京都港区)に埋葬され、国元(長府)には詣り墓を設けた(3代綱元は例外で、江戸で没するものの遺体を長府に搬送して埋葬した)。すなわち、長府に現存する3代綱元・6代匡広・13代元周の墓(いずれも覚苑寺)は埋め墓であり、他の藩主の墓は詣り墓である(ただし、14代元敏は明治41年に長府で没し功山寺へ埋葬)。
 また、正室については江戸在府が基本であったことから、江戸の泉岳寺に埋葬され、長府には詣り墓が設けられた。
 近代に入り、国家神道が奨励される中、華族たる旧大名家へも神道の影響が強まった。そのとりわけ墓制においては顕著であり、長府毛利家も例外ではなかった。長府毛利家では、領内にあった関係者の墓を功山寺に集めると共に墓域の整理を行い、あわせて近代以降の関係者を当該寺院に埋葬した。

地図

画像

長府藩主毛利家墓所 関連画像001

長府藩主毛利家墓所 関連画像002