紙本墨画淡彩四季山水図 雪舟筆
しほんぼくがたんさいしきさんすいず せっしゅうひつ
防府市
国
国宝
室町時代
雪舟等楊の画いた墨画淡彩の山水画巻で、防府市の防府毛利報公会所蔵である。縦37.0cm、全長15.9mで巻子装である。この絵は多くの雪舟作品の中で最も代表的なものである。四季の山水の変化が巻を追って順に展開し、春から始まり冬に終わる。まさに詞の無い山水の大絵巻というべきもので、山水自然の構成繁簡の配置は無限の変化を出現している。巻末に「文明十八年嘉平日 天童前第一座雪舟叟等楊六十有七歳筆受」と署名があり、これにより1486年、雪舟が67歳の時の作とわかる。
雪舟は名を等楊といい、雪舟は号である。1420年備中(岡山県)で生まれ、京都相国寺に入り、画僧周文に学んだ。40歳の頃山口に至り、50歳の頃明に渡った。帰朝後も山口に住み、多くの傑作を残している。
室町時代の1486年、雪舟が67歳の時に描いた墨画です。防府市の防府毛利報公会で所蔵されています。たて37cmで、長さは16mもあります。春から冬までの四季の山水の変化が、順をおって描かれているものです。雪舟の代表作であり、水墨画(すいぼくが)の最高傑作といわれています。
雪舟は1420年に備中国(びっちゅうのくに・現在の岡山県)で生まれました。その後、京都の相国寺に入り画僧周文に絵を学びました。40歳のころに山口に来て、50歳のころ勉学のため中国に渡りました。帰ってきてからは、日本各所をめぐったのちに山口にふたたび住み、1506年87歳で亡くなりました。
紙本墨画淡彩四季山水画 雪舟筆
文明十八年の年記がある
附 紙本墨書送雪舟帰国詩並序 徐璉筆
成化五年の年記がある 一幅
紙本墨画淡彩四季山水図 伝雲谷等顔筆(副本) 一巻
国宝(絵画)
昭和6年1月19日 (文部省告示 第9号) 国宝(旧)
昭和25年8月29日 文化財保護法施行により重要文化財
昭和26年6月9日 (文化財保護委員会告示 第2号) 国宝
昭和32年2月19日 (文化財保護委員会告示 第10号) 附指定
防府市多々良1の15の1
財団法人 防府毛利報公会
室町時代 文明18年(1486)
一巻
雪舟等楊
紙本墨画淡彩、巻子装
縦37.0cm 全長15.9m
文明十八年嘉平日天童前
第一座雪舟叟等楊六十有七歳筆受
雪舟は名を等楊といい、雪舟は号である。別に備渓斎、米元山主、雲谷軒等をも称した。本氏は小田氏で、応永27年(1420)備中国都窪郡赤浜に生まれ、12・3歳の時同国井山の宝福寺に入ったが、生来画を好んで経巻を読まず、師僧もその画才を認めて遂に画の研鑽を認めたという。後に京都に上って相国寺に入り、同寺の都司であった画僧周文について学ぶところがあり、一家の風格を達成して画名漸く高かった。応仁2年(一説には寛正4年、又は応仁元年ともいう)山口の桂庵玄樹の明に使するに随って彼地に渡り、四明山天童寺に登って修業、その第一座となった。画においても北京の礼部院中堂の壁に揮毫し、また富士、三保、清見の三絶景を描いて明人を驚かしたことなどが伝えられている。
文明2年(又は文明元年ともいう)に帰朝し、その後文明8年豊後の大友氏を頼って九州に下り、大分附近の景勝地に天開図画楼を築いてここに暫く在住したが、次いで大内氏に招かれて山口に至り、天華に雲谷庵を結んで居住し、在山10数年の長きに及んだ。晩年に至り石見国益田の医光寺に入り、やがて同地の大喜庵に移って永正3年(1506)8月8日87歳の高齢をもって没した。
雪舟の画は主として如拙、周文を師とし、渡明後は高彦敬や張有声、李在等に師事したが実地に名山大川について自ら悟得したところが寧ろ多かったと言われている。その描くところは構想雄大、筆力頸健墨色豪宕で画格の高邁なこと前後にその比を見ない。実に室町時代宋元新様の北画は如拙、周文を経て雪舟に至り最高潮に達した観があり、当代北画の代表的作家の随一である。
門人には秋月、宋淵、周徳、周耕、宗悦などがあり、その画風を汲むものに至っては雪舟以後の北画家の殆どすべてといってよいのであるが、天文頃の雪村が最も顕著である。しかして雪舟以後狩野派が専門画人として禅家の余技でなく一派をなすが如き情勢になってきたのに対応して、雪舟の画統もおのずから流派化することになって、後に雲谷等顔の一門により山口を中心として雲谷派なる一派が結成せられるに至った。
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