絹本極彩色智界曼荼羅 絹本極彩色理界曼荼羅
けんぽんごくさいしきちかいまんだら けんぽんごくさいしきりかいまんだら
下関市
県
有形文化財
鎌倉時代
下関市豊田町江良の神上寺に所蔵されている。
二幅は同じ寸法で縦227.3cm、横151.5cmで掛幅装である。
智界曼荼羅は金剛界曼荼羅、理界曼荼羅は胎蔵界曼荼羅の別称である。曼荼羅とは一般に密教において、仏の世界を象徴的に図示した仏菩薩の集合図のことである。智界曼荼羅は金剛経によって9つの曼荼羅の集合を描き、理界曼荼羅は大日経の説く所により図したもので、大日如来を中心とする仏、菩薩、諸天、善神を集合して描いている。
彩色は豊富で、描写も的確であり、制作は鎌倉時代初期、13世紀初め頃とされている。
神上寺は真言宗の古寺で、平安時代以来勅願所として尊崇を集めたと伝える。
下関市豊田町江良の神上寺にあります。
二幅は同じ寸法で、たて227cm、横152cmです。
曼荼羅図とは、仏の世界を図でしめした仏菩薩の集合図のことです。
つくられたのは鎌倉時代のはじめ、13世紀初めごろとされています。
神上寺は真言宗の古寺で、平安時代以来勅願所(ちょくがんしょ)として尊崇をあつめたとつたえています。
絹本極彩色智界曼荼羅 絹本極彩色理界曼荼羅
絵画
昭和41年6月10日 (山口県教育委員会告示 第5号)
下関市豊田町大字江良624番地
宗教法人 神上寺
鎌倉時代初期
一幅 一幅
絹本着色、掛幅装
智界曼荼羅(cm)/理界曼荼羅(cm)
縦 227.3/227.3
横 151.5/151.5
神上寺所蔵の什物帳には、著者・年代・伝記は不詳なれども古筆と記されている。古くから貴重な什物として取扱われている。
[什物帳]
理智両界曼荼羅 貳幅
仁王会曼荼羅 壱幅
右者此度當寺什物改候仰付候ニ付坊中並役僧立合ノ上相改候処一ツ書ノ通相違無之候
文化十三年丙子三月 神上寺林秀(印)
前書之通此度趣有之御吃吟以什物改候仰付候ニ付見届無紛候
御目附 福田太三郎左衛門
寺社奉行 友田惣右衛門
(以下同文で、年月、住職、御目附、寺社奉行は次の通りである)
文化十四年九月 神上寺一阿
御目附 井上丹下 寺社奉行 友田惣右衛門
天保元年正月 神上寺継實
御目附 弘中藤左衛門 寺社奉行 田坂玄兵衛
天保十年二月 神上寺慈言
御目附 田坂玄兵衛 寺社奉行 村野六之助
嘉永三年六月 神上寺某
御目附 山中杢兵衛 寺社奉行 松中半之焏
安政七年 神上寺快猛
御目附 野村市左衛門 寺社奉行 正岡藤右衛門
文久三年 神上寺覚仁
御目附 井上彦左衛門 寺社奉行 半野極人
神上寺は寺の縁起によると、役小角が九州の彦山から来て開基したもので、開山は徳仙上人である。奈良時代元正天皇の時、権現に定められた。平安時代、朱雀天皇の時代、天慶の乱に際し、戦勝祈願があった。一條天皇の時代、土佐・伊予の乱を藤原純輔大納言(豊田氏の祖)が征伐する時、御祈願があり、一万三千の神々を勧進された。このためこの山辺を神原と称し、神上山と呼ぶようになった。鎌倉時代の初、後鳥羽天皇建久5年(1193)に勅を以って昼夜12時愛染明王温座供養の勤行を修められた。後醍醐天皇元享2年(1322)に、堂舎を山の麓即ち現在の位置に下ろした。これからこの山を下山と呼ぶようになり、名を豊浦山神上寺と改められた。仁王門はこの時建てられたもので、「豊浦山」の額は、後醍醐天皇の御宸筆が下されたそうであるが、現存のものは、貞享4年朝枝庸治の筆である。
神上寺は、以上のように勅願所として朝野の尊崇が厚く、往昔より御朱印、宣下等の多くの書状が納められていたが、応永、享禄2度の戦火で焼け、堂宇も度々焼失している。
多くの名僧は、この寺院の復旧に力を盡したが仲々困難であった。そこで、戦国時代中国の領主毛利隆元は、弘治3年(1557)名僧英暈僧都を神上寺の住職とし、保護を加えて復興にあたらせた。隆元の子輝元は、従弟の秀元と共に秀吉の朝鮮征伐に出征し、この寺に、戦勝祈願をしたが、輝元は不幸病にかかって早く帰国し、秀元が後を継いで奮戦した。凱旋の後、御礼に御樽代を納めている。
毛利秀包夫人のお墓が境内にある。こういうところから長府藩主の手厚い保護をうけ、江戸時代には300万石の扶持米を得た。
當時は一番奥に温座堂があって、これに上る坂道の両側に、中ノ坊(別当職)遍智院、下ノ坊、辻ノ坊、万徳院、谷ノ坊の六寺院があって、「神上寺御掟の條々」(現存)という厳粛なおきてのもとに、多くの僧侶の真言密教伝修の道場となってきたのであるが、今は仁王門と中ノ坊だけのこり、その他は明治の初、とり除かれた。
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