絹本着色仁保弘有像
けんぽんちゃくしょくにほひろありぞう
山口市
県
有形文化財
室町時代
山口市仁保下郷の源久寺所蔵である。掛幅装で、寸法は縦76cm、横39cm。
侍烏帽子に素襖(すおう)を着し、上畳に座した仁保弘有の像である。上方に天与清啓の賛があり寛正六年(1465)の制作と知れる。画像の筆者は不明であるが、雪舟筆ではないかといわれている。1465年は弘有の没前34年にあたり、弘有の生前の姿であり貴重である。
弘有は、鎌倉時代に仁保地頭職として補任されて来た平子重経の後裔で、応仁の乱には大内政弘に従って上京し、大いに軍功があった。1499年に没した。
賛を書いた天与清啓は建仁寺の91世、1463年幕府から遣明船の正使を命ぜられ、翌年周防に来ている。そして雪舟らと共に入明している。漢詩文に優れていた。
山口市の源久寺(げんきゅうじ)にあります。寸法はたて76cm、横39cmです。1465年に描かれました。描いた人はわかりませんが、雪舟ではないかといわれています。仁保弘有の生前の姿です。
弘有は、鎌倉時代に仁保(現在の山口市仁保)の地頭として関東からきた平子重経(たいらごしげつね)の子孫です。応仁の乱のときには大内政弘(おおうちまさひろ)にしたがって上京し、数々の手柄をたてました。亡くなったのは、1499年です。
賛を書いた天与清啓(てんよせいけい)は、1463年に幕府から遣明船の正使を命ぜられ、その翌年山口に来ています。そして雪舟らとともに中国へ渡っています。
絹本着色仁保弘有像
寛正六年乙酉八月如意珠日天与清啓の賛がある
絵画
昭和46年1月12日 (山口県教育委員会告示 第1号)
山口市仁保下郷2910番地
宗教法人 源久寺
室町時代 寛正6年(1465)
一幅
絹本着色、掛幅装
縦76cm、横39cm
世者其家必大徳過人者其澤必長
三浦介輔明君一戦而覇其後仁保地
也口世而旦口斬寿像寔爲覧良春
曰貌之馴風生叱咤道無豺
自許後塵争望曽聞談者之
頗牧復□民人之借外群久
曰大之弥久頼先功徳之不
口流出冷風従花裏過来香
右 仁保上総介弘有寿像求以予讃
詞峻拒則不可也仍書焉
寛正六年乙酉八月如意珠日
前建仁天与孝雪清啓
仁保弘有の略伝は下の通りである。
建久8年(1198)武蔵国の平子重経は、周防国仁保庄と恒富保の地頭職に補佐されて下向した。この平子氏の子孫は仁保に居館を構え、後に仁保氏を称し、又三浦氏を称して存続した。仁保弘有は、平子重経から第14代目の当主である。平子氏11代の重頼の時、平子姓を仁保と改めた。弘有は13代仁保盛郷の子である。宮内小輔または上総介と称した。仁保氏の全盛期は実にこの弘有の時代である。応仁元年(1467)妙法院庁から蓮華王院領周防楊井本庄の代官職に補任された。その他多くの所領を有した。応仁の乱の勃発に際し、大内政弘は西軍に味方して上洛したが、弘有はこの役に従軍し摂津、京都などで戦い、政弘から度々感状をうけた。その後弘有は東軍に応じた。明応8年(1499)9月22日に没した。行年は不明である。
天与清啓の略伝は次のとおりである。
天与清啓は幼にして建仁寺の禅居庵で、伯元清禅和尚に教えをうけた。後信州の法金寺に住した。寛正元年(1460)に将軍足利義政の命により遣明使の正使に任ぜられた。寛正5年7月に京都を発ち、備前にしばらく滞在して、年末近く周防に来った。京都を発して来防がおくれたのは、伊予の河野氏と細川氏との戦いが勃発したからである。翌6年7月、入明の査証である勘合符の手続きが了されたが、発航にいたらなかった。この8月に弘有の画像に賛をしている。9月に大内教弘が病没したので、遣明使の発航はまた挫折した。清啓が入明したのは応仁2年(1468)であるという。清啓は彼の地においては大いに外交の手腕を現わし、書籍、銅銭などをもたらして還った。清啓は五山文学者として名高く、海樵老人と号し、自ら搗湖清啓、あるいは萬里叟と称した。遺稿中、萬里集、再渡集は伝わらず、わずかに戊子入明記一冊を存するのみである。
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