紙本着色尼子経久像
しほんちゃくしょくあまごつねひさぞう
山口市
県
有形文化財
室町時代
山口県立山口博物館所蔵である。
掛幅装で、寸法は縦50.9cm、横31.5cm。
尼子経久俗体の肖像画で、右手に扇子を持ち、黒衣の直垂姿で、烏帽子はかぶっていない。頭髪を「まげ」に結いあげているが、小さくうすいし、顔の状況からみても老年の頃の肖像である。
経久は1541年(天文10)に没した。上方に洞春寺9世の永明の賛がある。永明は江戸中期の僧で1769年(明和6)に没している。賛は没後200年余り経て書かれたわけである。賛には「子孫の時久が寺を訪れ、経久自画像を示して賛を求めた」とあるので、佐々木家(尼子家)に経久自画像として200年も伝わっていたものであろう。
経久は戦国時代の武将で、尼子家は代々出雲の守護代を勤めた。経久は勢力を伸ばして11ヶ国を手中にした。経久はまた戦陣にあって、よく文学を愛好し、画技に長じ、神仏を篤く崇敬したといわれる。84歳で没した。
山口県立山口博物館にあります。
寸法はたて51cm、横32cmです。
尼子経久(あまごつねひさ)の老年のころの肖像です。室町時代末期に作成されたと考えられています。
尼子経久は戦国時代の武将です。尼子家は出雲国(いずものくに=いまの島根県)の守護代を勤めていましたが、経久の時、勢力を伸ばして中国地方11ヶ国を手中にしました。経久は文学を愛好し、画技に長じ、神仏を篤く崇敬したといわれています。1541年84歳で没しました。
紙本着色尼子経久像
絵画
昭和49年11月8日 (山口県教育委員会告示 第5号)
山口市春日町8-2 山口県立山口博物館
山口県
室町時代 末期
一幅
紙本着色、掛幅装
縦50.9cm、横31.5cm、総縦120cm、総横42.4cm
「洞春寺9世永明碩孝禅師賛」
月叟省心大居士畫像賛并序
省心居士諱計久 字伊豫守 姓尼子雲州富田城主也 其先宇多天皇」第八王子敦實親王二十一代之苗裔矣 保元平治之間有佐々木冠」者秀義者 即其後胤也父清定娶馬木上野介女生経久於長禄二戊寅」十一月廿日 字又四郎 及長稱民部小輔 實絶倫奇才姿度廣大浩々焉」洋々焉 淵乎不可量而己矣 爰考其行事
志慕周武 気傚殷湯」率衆以信 待士以禮 是以上下交和 老幼以康
雖古代己謝亦異世」之一時也 義旗一擧士卒林會抜中北国終守十一州矣 功勲多々不可」備論 春秋八十有四 天文十辛丑仲冬十三日逝矣 令孫時久一日敲」禅扉示以経久自畫像請賛 予雖不文以交誼之厚不辞應其儒云爾
/img>乎遠祖 系自天皇 具六運勇 爲千夫望
臨民以信 労士有方 気不可奪 力誰敢當
名播四海 威振八荒 暑往寒至 二百星霜
蘋/img>行潦 式煎式湘 嘉聲不朽 奕世彌光
前真如具洞春寺永明筆獅子窟中(印)
(朱文方印、印文不詳)
民子氏は佐々木京極氏の支族で、近江国守護京極高秀の3男高久が近江国犬上郡尼子荘を領し、尼子を称したに始る。京極氏が隠岐・出雲の守護であったことら、高久の子持久は出雲守護代として出雲に移り住んだ。
尼子氏は持久の子清定、清定の子経久の盛期をへて、義久の代に至り、毛利氏の手に下るところとなった。その後支族の勝久が、山中鹿之介らに擁され復興をはかり、豊臣秀吉の助けを得ることとなったが、天正6年(1578)播磨上月城が吉川・小早川勢に囲まれ、勝久は自殺、尼子氏は滅亡した。
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尼子経久(1458~1541)は、長禄2年清定の子として生れ、初め又四郎、のち伊予守民部少輔と称した。文明16年(1484)段銭未納の件により幕府軍のため居城の出雲月山富田城(島根県能義群広瀬町)を追われたが、文明十八年(1486)には奪還して勢威を回復した。
その後、山陰一帯を経略し、その領国は出雲、隠岐、石見、伯耆、因幡、美作、備前、備中、備後、安芸、播磨の11か国に及び、尼子氏の全盛時代を現出した。
大永2年(1522)には、毛利元就とともに防長の雄将大内義興と安芸の金山で戦い快勝した。しかし、毛利元就が大内氏に通じ、天文2年(1533)以後は尼子対大内・毛利の対立となった。
経久は、戦塵の間にあってよく文学を愛好し、画技に長じ、また、神仏を篤く崇敬したといわれる。天文10年84才で没した。法号を叟省心という。
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