紺紙金泥般若心経 後奈良院宸翰
こんしこんでいはんにゃしんぎょう ごならいんしんかん
防府市
国
重要文化財
室町時代
室町時代の終わり頃(16世紀中頃)は戦国の世の中で、諸国に病気の流行も続いた。そこで、後奈良天皇は般若心経を数多く写して供養の為に25か国に使いをつかわして、寺におさめさせた。
本書は周防国に対するもので、烏丸光豊(からすまみつとよ)が使いとして、国分寺に般若心経1巻を寄進せられた。諸国の寺に寄進された内で現存するものは9巻しかなく、本書はその中の1巻である。
今から約450年前の室町時代の終りごろ、諸国に病気の流行が続きました。そこで、後奈良天皇は般若心経を数多く写して死者をとむらうために25か国に使いをつかわして、寺におさめさせました。
この書は周防国に送られたもので、般若心経1巻がおさめられました。諸国におさめられたうちで残るものは9巻しかなく、この書はその中の1巻です。
紺紙金泥般若心経 後奈良院宸翰
附 光豊寄進状一通
重要文化財(書跡)
明治43年4月20日 (内務省告示 第68号) 国宝(旧)
昭和25年8月29日 文化財保護法施行により重要文化財
防府市国分寺町2-16
宗教法人 国分寺
室町時代
一巻
後奈良院筆
紺紙金泥、巻子装
般若心経/附寄進状
縦 27.1cm/35.6cm
横 49.5cm/51.5cm
天文3年(1534)から夏に疫病流行し、後奈良天皇は宸筆般若心経を嵯峨大覚寺に納められ、蒼生の多難より蘇らむことを祈り給うた。ついで同8年は天下凶作、翌9年にも飢饉疫病起って死亡数を知らぬという惨状であった。ここにおいて天皇は9年6月宮中に修法を行い、また親しく般若心経を書写し、その奥書に天下大いに疫し、万民多く死亡にのぞむは朕民の父母として徳覆うこと能わざるためで痛心に堪えず、竊かに金字心経を写して供養せしめ疫病の妙薬たらむことをこいねがう意味を宸書し醍醐三宝院に納められた。続いてその後天文14年(1544)に至るまでに多数の心経を謹書し、公卿等を勅使として下向せしめ、主として諸国一宮に納められたが京都曼殊院に蔵する宸筆御目録によればその国々は25か国に及び、その中現存するものは9種に上る。
本書はその周防国に対するもので、前記目録によれば、周防・肥前・肥後の分は烏丸光康が勅使たることが注記されている。さらに山科言継卿記や阿蘇西巌寺殿文書阿蘇惟豊宸筆心経進納状その他によれば、天文13年9月23日光康は心経を携えて肥後に向い、10月阿蘇に下着滞在の後、肥前・周防を通って夫々心経を奉納したらしい。言継卿記によれば、翌14年4月20日防州より帰洛し、御湯殿上日記によれば、同月23日肥前より帰った彼は御礼に参内したことが記されている。光康が周防で奉納した場所は一宮たる玉祖神社であったかも知れないが、その仏典たる性格により国分寺に寄進せられたのであろう。
なお後奈良天皇は特に行草体の普通の御書に勝れさせられ、筆勢優美にしてしかも雄渾なるを特徴とするが、本書の如く楷書で謹書されたものは別人と思われるほど筆致が異なって居り、その筆痕は力強い。
当寺には元亀3年(1572)5月15日付光豊寄進状があって宸筆心経に添えられている。従来は勧修寺光豊が天文14年から略30年を経た元亀3年に勅使として下向し、玉祖神社から国分寺へ納め替えたと解釈されているが、光豊の生年は天正3年(1575)であるから、元亀には未だ生れて居らず、筆蹟も異なり、甚だ疑念に富む。但し勧修寺家は毛利氏と朝廷との間の諸事を執奏する例であった関係から周防国分寺の伝奏を勤めていたことは明らかである。即ち当寺には勧修寺光豊筆の後陽成・後水尾両天皇の御歳書を始め、同家代々の歴代天皇御歳書があって玉体安穏を祈念したのみならず、同家の伝奏によって住職自屡々上京参内し、天皇御前に祈祷を行ったことを示す文書が多数伝わっている。
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