紙本墨書豊浦宮法楽和歌
しほんぼくしょとようらのみやほうらくわか
下関市
国
重要文化財
南北朝時代
長門国の二宮(にのみや)である忌宮神社は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇を祭神とし、古くから武神としてあがめられ、南北朝時代には足利氏一族の信仰を得た。本書はその信仰を物語る奉納された和歌4通で、祭神の護りをたたえている。内容はつぎの通り。
足利尊氏 自筆和歌 2首 1337年
足利直義(尊氏の弟) 奉納和歌 2首 1334年
足利高経(尊氏の一族)奉納和歌 2首 1334年
足利直冬(尊氏の養子)奉納和歌 2首 1351年
忌宮神社は長門国の二宮(にのみや)とされ、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇を祭神とし、古くから武神としてあがめられた神社です。南北朝時代には足利氏一族の信仰を受けました。この書は、その信仰のあかしとして、差し出された和歌4通で、1巻になっています。差し出した人は、足利尊氏ほか三人です。
紙本墨書豊浦宮法楽和歌 尊氏外三人筆
重要文化財(書跡)
明治43年4月20日 (内務省告示 第68号) 国宝(旧)
昭和25年8月29日 文化財保護法施行により重要文化財
下関市長府宮ノ内
宗教法人 忌宮神社
室町時代
一巻
足利尊氏等筆
紙本墨書、巻子装
第1紙(尊氏筆)/第2紙(直義奉納)/第3紙(高経奉納)/第4紙(直冬奉納)/
縦 31.2cm/28.0cm/29.1cm/31.2cm/
横 52.1cm/48.9cm/50.1cm/60.9cm/
忌宮神社は仲哀天皇・神功皇后御西征の行在所である穴門豊浦宮の遺跡に営まれたという伝説があり、神功皇后を祭神として仲哀天皇・応神天皇を併祀し、神功皇后宮とも呼び、長門国二宮であった。古来武神としてあがめられ、鎌倉時代には幕府や長門探題の保護厚く、南北朝時代には足利氏及びその僚属の信仰を得て社壇大いに栄えた。これらのことは社蔵文書の証するところ、就中本文書は足利氏一門の崇敬を物語る史料であってすべて4通からなる。
第1は足利尊氏自筆のものである。尊氏は後醍醐天皇に叛き、延元元年(1336)正月京洛の戦に敗れ、西国に走って再挙を図ったが、その間当社に参詣したことがこの文書によって知られる。やがて彼は弟直義と共に大軍を率いて東上し、同年5月湊川の戦に楠木正成をたおし、たちまち京都を奪取し、天皇吉野に遷幸されてより官軍苦難の世となったのである。本書は翌2年すなわち北朝建武4年(1337)11月15日今や一天静謐の時を得、四海無為の化に属せりとして2首の歌を詠んで神に対するよろこびを述べたものである。
この御代はにしの海よりおさまりてよもにはあらき波風もなし
いにしへの二つのたまの光こそくもらぬ神のこころなりけれ
第2首の2つの珠とは古伝にいう神功皇后が豊浦津でえられた干珠満珠の如意珠である。なお尊氏自筆の書はほかの武将に比すれば神仏への奉納や経典の奥書などに多く残されているといえよう。本書は彼の書としては筆蹟の伸びが乏しく、たどたどしい感があるが、それだけ謹んで書いたものと見るべきである。
第2は直義奉納のものである。直義は兄の尊氏より7年後の康永3年(1344)12月15日に2首の歌を納めた。前文には当社を以って本朝鎮護の大廟、外国降伏の霊祠を述べ、また先年参詣の時の祈願に対する冥助掲焉と讃えているのは延元元年のことを指すのであろう。
第3は足利高経奉納和歌である。高経は尊氏の一族で斯波氏である。尊氏と行動を共にし、度々新田義貞と戦って遂に勝ち、北陸を鎮めた。彼も又当社に参詣祈祷し一天の安全に逢うたよろこびを二首の歌詠に託した。日付は直義のと同日で両将の結託を知ることができる。後年尊氏、直義兄弟の反目に際しては直義に与している。
第4は尊氏の庶長子直冬の奉納したもので日付は直義・高経のより更に7年後の貞和7年6月1日となっている。時に南朝は正平6年、北朝は前年貞和を改元、観応2年(1351)であるが、直冬はこれに従っていない点に興味がある。すなわち彼は主として直義と気脈を通じて尊氏と和せず、大宰府にいて中国・九州筋を抑え、西日本に独自の大勢力を築きつつあったのである。歌詠には祭神の護りを讃える。
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