南嶺和尚道行碑文
なんれいおしょうどうぎょうひぶん
宇部市
県
有形文化財
室町時代
南嶺和尚は、長門国守護・厚東武実が建てた東隆寺(臨済宗)を1339年(暦応2)に開いた禅僧で、京都・天龍寺の夢窓国師と親しい高僧である。
中世長門国文化における南嶺和尚及び東隆寺の比重は大きいにもかかわらず、今日に伝わる資料が少ない。そうした中で、この道行碑文は南嶺和尚の業績を記録する唯一の資料として注目されるものである。
南嶺和尚は、後に当寺を去り、摂津・福厳寺、博多・聖福寺などの住職を勤めたが、晩年、再び東隆寺の住職を勤め、1363年(貞治2)に没した。
南嶺和尚は、長門国守護厚東武実の建てた東隆寺(とうりゅうじ)を1339年(暦応2)に開いた僧です。この道行碑文は、南嶺和尚の業績を記録する唯一の資料です。
南嶺和尚及び東隆寺の長門国の文化における比重は大きいにもかかわらず、今日に伝わる資料はあまりなく、その点で注目される資料です。
南嶺和尚は1363年になくなっています。
南嶺和尚道行碑文
付 南嶺和尚道行碑文石碑
書跡
昭和44年12月5日 (山口県教育委員会告示 第27号)
宇部市厚東区大字棚井647番地
宗教法人 東隆寺
明時代 景泰5年(わが国享徳3年-1454年)
一幅
付 一基
浙江杭州府僧綱司都綱天竺霊山住持丘雲屋妙
浙江杭州前衛昭信校尉管軍百戸葵原呉東升書并篆額
紙本墨書、掛幅装
後世の補筆が見られる。
縦198cm、横103cm
[篆 額]
「日本長州鳳凰山安国禅寺南嶺和尚道行碑」
日本国長門鳳凰山安国東隆寺、開山、南嶺和尚道行碑
浙江杭州府僧綱司都綱、天竺霊山住持、此丘、雲屋妙
浙江杭州前衛昭信校尉、管軍百戸、葵原、呉東升書篆額、(印)(印)
日本居大海原、俗習多取法於中国、其崇敬仏教、尤為隆篤、故其剏寺置額、亦以五山十刹、而甲乙之禅林儀軌、並依百丈清規、若鳳山南嶺禅師、一門数世、雄拠大方、化声交振、而四海雷奔盛矣哉、其法孫元久航海来朝覲、謂曰、吾祖曾欲遊中国、而不遂志、化已来幾百年、未記道行、若待今日、願丐文刻于碑、予読其状曰、師諱子越、号南嶺、洛陽茂族藤氏子、髫頴異不群、初従懐敬和尚受業、竺墳魯誥、通大義、尋拝仏燈国師、燈挙第一義而勘之、随間随答、当仁不譲、既而司侍職於東山、首衆於巨福、三浦介延請問法、一日謂介曰、吾有南遊志、豈匏繋此哉、促装行、介留不止、偕弟日東海、振策西邁、道経長州、太守厚東崇西、夢肉身大士入境、黎明躬往視、与夢符契、即迎館於上舎、将別、西公曰、吾立梵刹奉師使封内人民均沽法雨、師不得已応其請、而東海入中国、代書寄江西信庵主、天目本禅師、二師展視曰、扶桑有斯人乎、東海回、各附僧伽黎以表信、其衣現在、太守姓物部氏、守屋大臣冑胤、崇敬仏乗、有給孤長者之風、将闢寺基之夕、復夢鳳凰遷巣於某山、往観峯環水繞、松檜森聳、乃鳩工購材、始作浄名室、次盖居仏殿、名其山曰鳳凰、寺曰東隆、応夢也、然後門廊庖庫靡不畢具、輸税以充衆食、従此向師風者、川奔雲湧、暁月、窓光、寂室遠来助化、緇素問道者無虚日、故天龍国師遇関西僧、必問曰、會礼長門長老来否、若豪家富族、捨第建寺、延師開山、今為附庸者二十余院也。摂州福厳国師道場輿議、請師継踵、期満還山、諸方大刹迎不起矣、故建仁嵩中山寄渇曰、三十余年方得信、審知五十五春秋、開千光室遅君久、須急来扶老比丘、観応二年詔位列諸山、賜安国然寺額、割山一郷、永充常住荘園、師又択寺正比爽地、作寿蔵之塔、扁続燈庵、師退居、一夕将三鼓、忽有女子、乞受帰戒、為授畢、侍者覘之、没入前渓大池、先是、火于浴室、鐘鼓斉鳴、道俗来、師宴坐自若、月窓来叫曰、火及方丈胡不出去、師執其手笑曰、老僧江湖興発、紫陽聖福欠主席、詔師、師辞老、勅太守固起之、延文四年八月入寺、鯨音再震鼓重喧、衆歎希有、謝事回旧隠、影不出山矣、貞治二年九月十一日、聚衆遺誡、書偈云、七十九年、心月孤円、来時無口、一句了然、擲筆而化、寿若干、臘若干、塔曰常照、其徒弟元初就聖福建塔、亦曰続燈、出世弟子曰潮、曰信、曰烱、曰幢、曰礼、曰伊、余目視雲霄者尚多矣、師十八時、仏前立誓過午不食、脇不沾席、三会語録、門人纂集之、大相公謂礼履仲曰、不幸失膽汝師、願拝遺像、遣使之安国迎取、至則斎沐梵香設拝、召画工図写二像、命僧録大岳師述讃、一留第供養、一賜履仲、以為法門之栄、寺経会禄、続燈然独存、若有神護、師之四十余年紹隆祖道、荐膺殊櫂、拠大道場、声実昭灼、龍象奔趨、而化緑有限、良可喟也、然其去住自由、光明赫、道俗具膽斯足矣、彰其法身之常住、而表其功行之純懿、垂休千古厥有斯在、語言文字何足以軽重哉、然而先世行業子孫顕揚礼也、遂不辞而述以辞曰、
扶桑之域、居大海東、習俗取法、与中華同、一、崇敬仏僧、尤為隆盛、金刹巍峨、宝輪暉暎、ニ、禅林規矩、百丈是宗、五山十刹、丕振玄風、三、篤生碩師、号曰南嶺、魯誥竺墳、窮探要領、四、勝幢屡建、宗旨弘、化風遐暢、師道蔚昌、五、主鳳凰山、応檀邦夢、緇白象龍、川奔雲湧、六、門徒弟子、得法尤多、附庸諸刹、棋布星羅、七、化権輝赫、時縁際会、一皆南嶺、如幻三昧、八、塔曰常照、庵曰続燈、永鎮海邦、金剛眼晴、九、我辞非実、惟黙斯契、一月千江、太虚無際、十、
大明景泰五年歳在甲戌夏四月朔旦
東隆寺は長門国守護厚東武実建立の臨済宗寺院で山号は鳳凰山、開基はすなわち南嶺和尚である。南嶺は姓藤原、名は子越、京都南禅寺仏燈国師の弟子となり、暦応2年(1339)元に留学を志して西下の途中、武実に招せられて東隆寺に止住した。天龍寺の夢窓国師疎石と善く、足利尊氏・直義兄弟が夢窓疎石の勧めにより、国ごとに一寺(安国寺)・一塔(利生塔)の造立を発願するや、東隆寺に以って長門安国寺に当て、観応2年(1351)勅して諸山に列し、安国寺額を賜わった。
南嶺は後に当寺を去り、摂津福厳寺、博多聖福寺などに住したが、晩年ふたたび当寺に帰住し、貞治2年(1363)9月に示寂した。
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