製塩用具
せいえんようぐ
防府市
国
重要民俗文化財
江戸時代
入浜式製塩法は、塩浜の砂が乾くのに従って、底の潮水を吸上げ土砂に塩分が付く方式で、揚浜方式にくらべ少ない労働力でより多量の塩分をとることを可能にしたもので赤穂で考え出された。
防府の三田尻に入浜方式が伝えられたのは1699年(元禄11)のことで、それ以来三田尻は防長地方最大の塩田を形成し、瀬戸内海有数の大塩田地帯に発展した。
1952年(昭和27)頃から瀬戸内の入浜式塩田は、流下式に切り替えられ、1958年(昭和33)頃には、生産過剰となり防府の塩田は廃田となった。
製塩用具は三田尻塩業組合により入浜式製塩関係用具として収集保存された49点と、別に日本専売公社防府製塩試験場が収集し追加指定された能登の揚浜式製塩関係用具24点からなる。ともに日本の製塩法の推移を示す貴重な文化財である。
塩田から塩をつくる昔の道具が海洋民俗資料収蔵庫(防府市)にあります。
古い塩田では、人手で海水をくみあげて散水して塩分を砂につけ、塩を採取していました。その後、塩田の砂がかわくのに従って、底の潮水を自然にすい上げ砂に塩分をつける方法が兵庫県の赤穂(あこう)で考え出されました。
今から300年前に、赤穂で考え出された方法が三田尻に伝えられ、防府の三田尻(みたじり)塩田は山口県東部で最大となり、瀬戸内海沿岸で有数の大塩田地帯に発展しました。
50年前頃から新しい流下(りゅうか)式という方法に切りかえられて、塩はあまるようになり、現在、防府の塩田はその役割を終えましたが当時の塩をつくる道具が伝えられています。また、塩田の跡は公園になっており、当時の姿を見ることができます。
製塩用具
(ほかに追加指定二四点)
重要有形民俗文化財
昭和34年5月6日(文化財保護委員会告示 第17号)重要民俗資料
昭和40年6月9日(〃 第43号)追加指定
昭和50年10月1日(文化財保護法1部改正に伴う名称変更)重要有形民俗文化財
防府市大字三田尻 防府市立海洋民俗資料収蔵庫保管
防府市
七三点
[塩田用具]
/番号/名称(別名)/呼称/数量/用法/
/1/六本金子/ろっぽんかなこ/1挺/春季採かん準備作業のとき、地盤を深く掻き起し、毛細管作用をよくする。/
/2/十本金子/じっぽんかなこ/1挺/雨後地盤に撒砂が圧着した時、あら掻きする。金子は、後ろ向きに徐行し、腰の力を用いてあつかう。/
/3/根太/ねだ/1本/春季採かん準備作業に撒砂の凹凸を引均し、また撒砂の塊状を砕いて圧着させる。/
/4/浜引/はまびき/1挺/竹子製で撒砂の乾燥面積を増す為縦横斜引など数回掻廻する。/
/5/沼井堀鍬/ぬいほりぐわ/1挺/沼井の中の骸砂を掘出したり、骸砂を地場面に振りつける。/
/6/縁入/へりいれ/1挺/撒砂寄せ集めのとき溝辺の土の溢落を防ぐため内側によせる。/
/7/入鍬(縁引)/いれぐわ(へりひき)/1挺/寄女が乾燥撒砂を寄せ易いように道づけをしたり、集めた撒砂を沼井へすくい入れる。/
/8/寄板/よせいた/1挺/撒砂を沼井の周囲に寄せ集める。主に寄女が用いる。/
/9/掛板(曳板)/かけいた(ひきいた)/1枚/浜引で掻き回した後の撒砂が、地盤に圧着するよう軽く押えまた塊状の撒砂を砕く。/
/10/杓(もんだれしゃく)/しゃく(もんだれしゃく)/1本/藻垂水(沼井から前壺に滴下したかん水)を沼井に汲みこんだり暗溝(かん水輸送装置)へかん水を運ぶ時担桶にくみこむ。/
/11/打杓/うちじゃく/1本/毛細管作用を助けるため、地場面の撒砂へ撒潮する。/
/12/担桶/にないおけ/1荷/溝の海水を沼井へ担ぎこむ。前壺(もんだれ壺)のかん水を暗溝またはかん水溜へ担ぎこむ。/
/13/担おうこ/にないおうこ/1本/担桶をになう棒/
/14/道引/みちびき/1挺/海水またはかん水を担い運んだ足跡を掻きおこす。/
/15/水車(あい車)/みずぐるま(あいぐるま)/1台/持目作業のとき溝から溝へ海水を転換したり、又は、雨後に淡水を地面から外へ排出する。/
/16/鎌/かま/1挺/浜引の摩滅した竹子の先を削り、又は竹子の突端を一直線に揃える。/
/17/沼井板(ひたい板 とあい板)/ぬいいた(ひたいいた とあいいた)/2枚 1枚/ひたい板は、沼井の両端に用いる。 とあい板は、沼井の中央に設けて一台に二等分する。/
/18/もんだれ桶(藻垂)/もんだれおけ/1個/沼井の滴口の下に埋設し、沼井より滴下するかん水を溜める。/
/19/あてこ/あてこ/2枚/海水または、もんだれ(藻垂)水を沼井の中に敷き、かん水の滴出に用いる。/
/20/沼井菰/ぬいごも/1枚/茅、または小麦藁で編み、沼井へ汲み込むとき下敷に用いる。/
/21/てれん/てれん/1荷/撒砂の入替のため運搬に用いる。/
/22/中柄/ちゅうえ/1挺/沼井を造ったり、修理するとき、又は、赤粘土等の打締めに用いる。/
/23/かち槌/かちづち/2挺/同前(かん水溜をつくったり、修理するとき、又は沼井粘土の打締めに用いる。)/
/24/金べら/かなべら/1挺/かん水溜又は、沼井等を造ったり、修理するとき用いる。/
/25/丁の鍬/ちょうのぐわ/1挺/沼井、樋門などの修理に用いる。/
[釜屋用具]
/1/釜石(河原石 御影石)/かまいし(かわらいし みかげいし)/5個 5個/かん水をせんごうするための石釜を構築する石。はじめは河原石を用いたが、幕末の頃から御影石の切口を用いた。/
/2/釜杓/かましゃく/1挺/温目釜で熱したかん水を前釜にくみこむ。/
/3/十能/じゅうのう/1挺/かまどへ石炭を放りこむ。/
/4/炭割(割十能)/すみわり(わりじゅうのう)/1挺/かまどの中の燃焼を掻き砕き、火力を増強する。/
/5/手子火箸/てこひばし/1挺/かまどの中の燃え終った炭殻を排出口へ突き出す。/
/6/おき引/おきひき/1挺/排出口へ突き出された炭殻をかまどの前へ引き出す。/
/7/石殻鍬/いしがらぐわ/1挺/かまどの前へ引出された炭殻を捨場へ搬出する。/
/8/柄振(押柄振 引柄振)/えぶり(おしえぶり ひきえぶり)/1挺 1挺/前がまの中で結晶した塩を押柄振で取口の方へ押し集め、引柄振で掻き上げる。/
/9/塩籠/しおかご/1個/前釜から掻上げた塩を、塩籠にかき入れ、ニガリ(苦汁)を垂らす。/
/10/刎替/はねがい/1挺/塩かごでニガリを垂らした塩を塩かごから居出場に刎込む。/
/11/塩切出/しおきりだし/1挺/塩を俵仕立するとき、居出場や塩倉の固くなった塩を切り出す。/
/12/桝桶五升 四升 三升/ますおけ/1個 1個 1個/塩を俵仕立するとき塩を計る。/
/13/桝かき板/ますかきいた/1枚/桝桶で塩を計るとき、量を正確にするため余分の塩をかきおとす。/
/14/一升本桝/いっしょうほんます/1個/塩を俵仕立するとき、塩を計る桝/
/15/桝かけ/ますかけ/1本/一升桝に入れた塩の量を正確にするために余分の塩をかきおとす。/
/16/もっこう/もっこう/1挺/俵仕立した塩を上荷船に運搬する。/
/17/金槌/かなづち/1挺/主に塊炭の粉砕に用いる。/
[その他の用具]
/1/膳箱大 小/ぜんばこ/1個 1個/食器や筆墨その他の日用品を入れる浜子必携の調度品。/
/2/米櫃/こめひつ/1個/浜人から支給される浜子の飯米(1日1人当り7合2勺)を貯蔵する共同の米櫃。/
/3/ため石(自然石)/百ためいし/3個/石炭上荷船に積載量の印をつけるための計量石[百振…(1振16貫)]までのとき使用。約130個を必要とする。/
/4/ため石(加工品)/三十ためいし/2個/上に同じ。100振を超すこと30振までの計量に使用する。約60個を必要とする。/
/5/ため板/ためいた/1枚/ため石を積載して船の吃水を計り、その吃水線にうちつけてため印を捺印する板。上荷船1艘につき14枚を必要とする。/
/6/ため印/ためのはん/1個/ため板と船に押印する焼印。/
/7/ためみ船板/ためみふないた/1枚/ため板を打付けた状態を示す船板の一部。/
[塩田用具-追加指定]
/1/引桶/しごおけ/1個/塩田内にある海水溜桶である。(450リットル)12石5斗入 (239リットル)1石3斗3升入がある)/
/2/荒潮桶(担桶)/あらしおおけ(かよいおけ)/2個 小/海水をなぎさからくんで塩田まで運搬する桶である。/
/3/担棒/にないぼう/1個/担桶を担う棒である。/
/4/打桶/うちおけ/1個/海水散布用の桶で、砲弾型をし、尻つぼみとなっている。/
/5/端間桶/はないおけ/1個/端桶ともいい、沼井に合垂注入用釣瓶形である。/
/6/駒渫/おこしごま/1個/浜起しにつかう。/
/7/駒渫/さすりごま/1個/散潮前の爬砂につかう。/
/8/柄振(1)/えぶり/1個/かん砂収集用具。/
/9/柄振(2)/同/1個/かん砂収集用具。/
/10/込/こみ/1個/かん砂を沼井に集積する用具で、込の山形のものである。/
/11/刎/はね/1個/骸砂を散布するものである。角型スコップ様となし、桐板厚さ2.7cmのものの縁をうすくけずり柄をつける。/
/12/盤突/ばんつき/1個/地盤をつきかためる器具。/
/13/りょうご/りょうご/1個/板で造った背負子で砂採り砂運びに用いる。/
/14/どうけ/どうけ/1個/かん水をためる桶。/
/15/移動沼井 垂槽台 垂槽足 構槽台/いどうぬい/1式/かん水の塩分を浸出する装置。/
/16/固定沼井/こていぬい/1/かん水の塩分を浸出する装置。
[釜屋用具-追加指定]
/17/釜杓(柄杓)/かましゃく/1個/かん水用の柄杓である。/
/18/しおあげ/しおあげ/1個/釜の塩をかきとるもの。/
/19/さくり/さくり/1個/釜の固着物をかきおとすもの。/
/20/柄振/えぶり あわがきえぶり/1個/釜の中のあわをかく。/
/21/苦汁杓/にがりじゃく/1個/苦汁をすくうしゃくである。/
/22/火箸/ひばし/1個/燃料を釜中に押入するために用うV型樫の木の火ばし。/
/23/灰掻/はいだし/1個/かまの灰をかき出すもの。/
/24/釜/かま/1個/いもの製平釜(丸釜)で540リットル入りである。差水で720リットルのかん水をせんごうすす。
わが国の塩業史上、最初に豊富低廉な塩の供給を可能にし、塩の商品化を助長し画期的な進歩をもたらしたのが、海水濃縮における入浜法の発明と塩水せんごうにおける石炭焚の創始である。
入浜法とは干潟に堤を築き、堤内の塩浜に溝を設け、満潮に海水が塩浜の砂に乗らない程度に潮を溝に湛えて浜底に融通させ塩浜の砂をかきさがし、日にさらし、砂の乾くのに随って底の潮を吸上げ、土砂に潮のつく方法で、打潮で砂に潮をつける揚浜と違い、はるかに少ない労働力で、より多量の濃い塩水をとることができる。揚浜法に比べると確に技術的に一大進歩であって揚浜に見られる海水汲み上げの労苦は全くはぶかれ、塩水の採取がいちじるしく経済的となった。そしてその方法はいろいろな条件から瀬戸内海でなければ実行できず、近世のはじめ赤穂浜で考え出され、たちまちに瀬戸内海沿岸地方に拡大していった。かくて大量生産された瀬戸内海の塩は全国的に売り出された。そしてこの方法は、江戸・明治・大正・昭和と300年近くの間、日本の塩業をささえてきたのである。
ところが入浜法ではすべての作業が砂を移動しなければならず、しかもこれらはすべて人の力で行う重労働であり、人件費がかさんだ。そこでこの不便を除き労力を節約するため、砂を固定してその代りに海水を移動させようとする研究が昭和に入って防府製塩試験場で続けられ、昭和十六年砂層貫流式塩田法が考案され、さらに終戦、この方法から更に一歩を進め、流下式塩田法が考案された。塩田を短冊状に区画し、100分の一程度の緩勾配をつけて海粘土を張り、これに枝篠架法といって、竹枝又は粗朶を数段逆さにつるし下げ、これを伝って海水がしたたり落ちる間に天日と風力によって水分を蒸発させる方法を併用することによって、入浜式塩田法の二倍近くの塩を生産できるようになった。かくて昭和27年頃から瀬戸内海の入浜塩田は次々と流下式塩田に切り替えられ、防府地方においても33年には完全に切替えを完了した。ここに日本独自の塩田法として300年の歴史を持つ入浜式塩田法は全くその姿を消すことになり、我が国製塩史上の一大革命を迎えることになった。しかしこれによって莫大な過剰食塩を産出することになり、ついに根本的な塩田整理が打出されるにいたった。
そして三田尻浜(防府地方の塩田の総称)においては新流下式の成果を見るいとまもなく全塩田が廃田の運命を荷わされることとなったのである。
また、塩水のせんごうにおける石炭焚は江戸時代の中頃三田尻浜において工夫改良され、三田尻浜方式の石炭焚築竈の制が防長浜に拡がり、更に瀬戸内浜一帯に及んだのである。石炭焚は従前の千葉焚に比して燃料の費額を減ずること莫大であり、塩業を企業化することにあずかって力があった。そしてその築竈法は多少の改善は加えられたが、昭和に入り合同製塩が行われるまで重要な役割を果たしたのである。さて三田尻と総称せられる防府地域にある古浜、鶴浜、中浜、江泊浜、西浦浜の六カ所浜は総塩戸数200数軒、防長浜全体のほぼ半数を占め、瀬戸内でも赤穂に次ぐ屈指の大塩場であった。藩府はその中心地である鶴浜の一角に塩田大会所を設け、大年寄役座を置いて防長塩業の総本締とした。
明和8年、田中藤六が三八、替持の休浜法を持って瀬戸内浜の遊説に成功して以来、三田尻浜大年寄は瀬戸内浜の塩制にもあずかって力をいたした。こうした因縁もあり、明治維新以後も三田尻浜は十州塩田の中心となって日本塩業史の上に大きい足跡をのこしている。
いま廃田の運命を前にして、輝やかしい歴史をになう三田尻浜を記念する意味から、三田尻浜塩田の大会所の後身である三田尻塩業組合は、散還寸前の入浜式製塩用具を収集し、これが永久保存の措置を講ずることとした。
[入浜式製塩法]
塩田の構造については、まず、地場は4層からなり、最下層は海底の砂、その上につけすな(大きさ米粒位)を厚さ1尺8寸(54.54センチメートル)に敷き、その上に張砂(大きさ糖ふるいにかけた位、すなわち粟粒上の砂)を厚さ3尺6分(10.9センチメートル)に敷き、更にその上に持砂(大きさ絹ふるいにかけた位に微細でどろのすこしも交じらない砂)を1尺2寸(3.6センチメートル)に敷いた。塩田の善悪は全く地層組織の良否によるといわれる。この中に沼井がある。沼井とは、濃い潮水の付着した持砂を寄せ集めてこの中に入れ海水を注ぎ、藻垂れをもくみかけてかん水を前壺(藻垂)にたらす装置のことである。
採かん作業の大要を記すると次のとおりである。
毎年3月中旬、塩田1町5反(1.5ヘクタール)の地面を高低なくならし、八本子の金子をもって縦にかき起こし、また六本子の金子をもって斜めに2度かき起し、また、縦のかき起し、また横にかき起し、次いで浜引(竹子)をもって縦横一鍬あてと、斜めに2鍬かき交ぜ、その上を均らし木をもって引き均らし、沼井台の肩に盛り上げてある採かん用の持砂20荷内外を地場に散布し、浜引で十分に混淆して、潮水を塩田一面に引き入れ、1日間おいてよく湖水を地場に侵入せしめる。翌日潮水を落して地場を日光にさらし、さらに3日間経て、八本金子をもってさらに縦・横にかき起し、次いで浜引をもって斜・縦・横等5鍬引き、また、均し木をもって地均しをする。以上がいわゆる仕入れ浜である。
しかして、三つ割持においては明日沼井台からかん水を取る所の持浜6反歩(0.6ヘクタール)は縦、横9鍬引き混ぜ、最後に掛け板をなし置き、明後日かん水をとる所の第3浜6反歩(0.6ヘクタール)は5鍬引き交ぜとなし、十分にかき交ぜ、浜溝へ溜めて侵入せしめる。翌朝未明、第2浜は斜めに2鍬を引き第3浜は斜め2鍬、横1鍬を引き掛板をなし置く。午前7時浜に降り立ち、沼井台の肩にある厚土を地場へ散布使用のためにかき出し、沼井台内にある前土を沼井の肩に盛り上げて置く。10時に中鍬、11時に合鍬、11時30分横鍬、正午に持鍬を引く、この使役は浜子4人である。午後1時、持浜6反(0.6ヘクタール)前のかん砂を寄せ女3人で寄板をもって沼井台の側へ突き寄せさせ、浜子は入鍬をもってこれを沼井台内へ採り入れるのである。これを持目という。浜子4人、沼井踏1人、寄女3人、持目手子1人合計9人の使役である。土の採り入れが終われば、「もんだれ」を沼井台にくみ込む。また浜子1人をして沼井台へ潮をくみ込ましめてかん水を滴出せしめる。この業を終われば跡浜という使役がある。さらにかき出してある土を地場に散布し、持跡を縦・横2鍬ひき、掛板をなし、地面に潮を散布して置くのである。午後5時に至って前壺に滴出したかん水を担桶にくみ取り、大壺に近い所はにない移し、手先塩田のかん水は土中へ暗溝を装置し、大壺・助壺(共にかん水の貯蔵壺)へ流通せしめる。採かんの多少は天候にもよるが、春3荷、盛夏6~7荷、冬1荷を通例とし、1荷の量は4斗4升(79リットル)である。替持にする時も最初地場のこしらえは前述のようにし、1町5反(1.5ヘクタール)を2分して7反5畝歩(0.75ヘクタール)あてとし、翌日休浜する7反5畝歩(0.75ヘクタール)を朝鍬といって暁天に縦・横・斜めに4鍬引きならし、その上に掛板をかけて置き、日の出に至って、当日採かんする7反5畝歩(0.75ヘクタール)の沼井の肩4つ角にある砂を掘り出す。8時ごろに至って、中鍬といって、浜引を引き1時間あまりして、地場のかわき加減を見計らい、合い鍬といってまた、これを引く。また1時間にして横鍬を引き、正午に至って持鍬といって更にこれを引きならす。午後1時に至り、かん砂を寄せ集めて沼井に採り入れかん水を採る方法はすべて3つ割持と異る所はないが、ただ、人夫男2人、女1人を増すのみである。
次に煎熬であるが、まず「釜屋の構造」は30尺(9.09メートル)4面内に大柱4本を建てて梁を渡し、上に大桁4本をかけ(8つ物と言う)、四方を壁で囲い一方に6尺(1.818メートル)の出入口を設ける。その口のとおりの奥に口径深さ各5尺(1.515メートル)の桶(瓢箪という)を埋め、桶の底の側面に穴がうがち、竹管で大壺に連絡し、大壺のかん水を自然にこの桶に流入せしめる。屋根はかやあるいは麦わらでふき、煙突は、釜屋の外に高く築き、また、屋根の中央及び左右には通称「ホロ」(塩を煮る時の水蒸気を大気中に排出せしめる口)を設け、自在に開閉する。左側に居出場を、右側には石炭置場を設けるのである。「かまの構造」釜屋のほぼ中央の地を長さ1丈1尺(3.333メートル)幅7尺5寸(2.725メートル)、深さ2尺5寸(75センチメートル)ばかりに掘り下げ、その跡へ浜溝の土を取り入れ、また後のの「温め鍋」をすえる位置へ地面から8寸(24.24センチメートル)高く盛り固め、「温め鍋」の穴を掘り、その土をもって4方に7尺5分(22.72センチメートル)の土居縁をつけ、左右前後に堀り下げてある下に土居へ上は土を掛け、後縁中心の前面土居の上ばからは、6寸(18.18センチメートル)置いて底の深さ1尺8寸(54.54センチメートル)幅8寸(24.24センチメートル)ほど真直ぐに切り開き、これを火立という。火立は煙突に通じる穴である。その後ろに「温め鍋」をすえ、かん水を沸騰せしめる。その余焔は煤煙となって煙道を通過し、煙突に出る構造である。さて、かまの中央の地を溝のように掘り、その上へ「さな」の足をつけ、ろっ骨形にして構造する。土は、赤粘土と食塩とを練って用いる。「さな」の足は、左右に4個ずつあり、足と足との間は縦7寸(21.21センチメートル)、幅4寸(12.12センチメートル)とし、この穴から空気を入れるのである。中央で「さな」のこう配は7寸(21.21センチメートル)、長さ3尺7寸(1.1211メートル)、幅2尺(60.6センチメートル)として「さな」尻に下たば8寸(24.2センチメートル)を明けて空気を入れる。このかまの上に石釜をすえるのである。
「石釜の構造」かまができると、その縁に6寸(18.18センチメートル)角の長い根太木2本を横に置き、かまの縁と根太木の間に根太枕と呼ばれる小さな板を置く。根太木の上に厚さ1寸(30.3センチメートル)の松の釜板を敷く。この釜板の上からかまの縁の上まで6寸5分(19.96センチメートル)の空がある。さて板の上にはまず「耳石」(縁の石の石)を置き、その上に「へりがね」(縁の金の意)と「すみがね」(隅の金の意)をひっかけ、その中に約20個の「かぎ」(金のかけものの意)を打ちつける。「かぎ」の代りに、板の上に小さな杭をつきさしてもよい。しかる後、この枠を沢山の小石で充たし、その間を「掛土」(灰と塩から成る)で充たして平らにする。その施行がすむと、前に入れた杭を抜き去って、その空に「かぎ」をつきさし、赤土と塩を混ぜたもので、その間を充たして固定する。それから穴の周囲に塩を敷いた後、同じ混合物で5寸(15.15センチメートル)位の高さの縁を作り、この縁の一側に1尺5寸(45.45センチメートル)幅位の口を開ける。これはできた塩をかき出すためのものである。次に塩を釜一面にまいた後、一端の沢山のむぎわらをくくりつけた長さ12尺(3.636センチメートル)の竹の棒で「たれしほ」を右の上、土の上「かぎ」の間へよくまいて、それから、口の側にある「かぎ」の間は、松の葉でおおい、他の「かぎ」にはまきを高く積み上げ、その上を2~3枚の潮で湿したむしろでおおい、まきに火をつけ、ぬれむしろの所々に煙がみえるように燃やし、段々と燃え方を大きくする。この時、煙であけられた穴は、小さく切ったぬれむしろでおおう。このようにして焚いた焼け灰で、釜上をよくかわかす。かくて、釜土が焼き固まれば、4つの「かぎ」の前で、かまの縁の外側に4尺5寸(1.3653センチメートル)の4本の柱(花崗岩)を立てる。その上に長さ10尺(3.03メートル)の板を2枚おく。これを「笠木」と呼ぶ。そして、また、その上に長さ13尺(3.939メートル)の「転ばし」と呼ばれる板を2枚置く。その上にさらに「釣木」と呼ばれる長さ8尺(2.424センチメートル)の棒7本を置く。この組み立て物を「櫓」と呼ぶ。既に、焼かれてかわかされたところの約20個の「かぎ」は、その頭のところをひもで結び、「釣木」に引っ掛ける。ひもの間に小さな竹棒をさす。これによってひもを絞り、又はぬるめて釜を上げ下げする装置である。それから、釜の下の板、根太木等を取りのけ、釜とかまの間に4つの石を置き、石の間のあき間は、かわいた四角形の赤土と入替土でつめる。この時、そこに1つの穴を作って、そこから内部がみえるようにする。これを物見穴という。穴にはふたをする。かくて石釜が完成するのである。石釜は、古くは厚さ2寸(6.06センチメートル)の平滑な佐波川の丸石(油石または河原石という)を使用したが、釜のき裂を生じることが多かったので、方5寸(方15.15センチメートル)角・厚さ1寸(3.03センチメートル)の花崗岩を使用するようになった。石釜は、約40日間焚き続けるのに耐えるといわれる。
「煎熬の順序」大壺から瓢箪(かん水溜桶)に導入されたかん水を温め鍋に汲込み、まず、第一に「温め鍋」の下を焚き沸し、「さな」の上に装置した石炭、松葉へかま焚口から火を移して石釜を焚く。石釜が十分暖まった時、竹の柄の先にわらをつけたほうきのようなもので「温め鍋」の水潮を着けて石の継ぎ目をする合わし、約2時間焙り釜石の熱度を沸騰点に昇らしめて「温め鍋」のかん水をくみ込んで、なお、よくすり合して焚きたてるのである。焚立の初めから元釜位までは色が黒いのでこれを黒塩といい、4番目に至ってようやく純白な食塩とするのである。この一釜のかん水容量2石(360リットル)を石炭で焚くこと、1時間3、40分で結晶する。これをかき出して釜の横にある径3尺(90.9センチメートル)の塩籠に移す。その下には壺が置いてあって、塩からしたたる「にがり」を受ける。「温め鍋」で沸騰したかん水を石釜にくみ込むと、その後「温め鍋」の側にある瓢箪桶からから水をくみ込む順序にして、再び石釜のかん水が結晶をしだした際、さきに塩籠に入れて置いた塩を「居出し場」に移して、その塩から滴下した「にがり壺」の「にがり」を全部石釜の中にくみ込み、煮ること30~40分、再び結晶すれば、これを塩籠にかき出す。このようにして煎熬を繰り返すのである。一昼夜に14~5釜乃至16釜を焚きあげ、その製塩量は、1釜について9斗(162リットル、324キログラム)内外である。
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