島田人形浄瑠璃芝居
しまたにんぎょうじょうるりしばい
光市
県
民俗文化財
里人から「祇園さま」として愛称され崇敬されてきた松浦神社で、8月4・5日に奉納上演される人形浄瑠璃芝居。室町時代のある年、島田川河口の島田庄に疫病が流行した時、農民たちが病気の治まることを祈願するため、胡瓜に串を刺し、それに着物を着せて人形とし、人形浄瑠璃芝居を奉納したところ、疫病が治まってきた。この日が旧暦6月15日であったので、それ以来、この日に、満月の下で、夜を徹して人形芝居を奉納することが恒例となったと言われている。人形の使い方は、当時、旅芸人などの見様見真似で習得されたもので、その演技は、地方色豊かな郷土芸能として貴重なものである。
里人から「祇園さま」として親しまれ敬われてきた松浦神社で、8月4日と5日に奉納上演される人形浄瑠璃芝居です。室町時代、島田川河口の島田庄に疫病が流行したときに、農民たちが、病気が治まることを願い、串を刺したキュウリに着物を着せて人形とし、人形浄瑠璃芝居を奉納したのがはじまりといわれています。
島田人形浄瑠璃芝居
無形民俗文化財
昭和51年3月16日 (山口県教育委員会告示 第3号)無形民俗文化財
光市
島田人形浄瑠璃芝居保存会
8月4日・5日 松浦神社奉納上演
島田市の一角には古くから「いざなぎ」、「いざなみ」の両神をまつった熊野神社があり、その末社「松浦神社」を里人は「祇園さま」と愛称して崇敬してきた。その祭典に奉納される「人形浄瑠璃芝居」は素朴な民衆たちの祇園進行とともに郷土芸能にまで高められ、同時に楽しいレクリェーションとして田舎の年中行事の1つであった。
室町時代のある年、島田川の河口に発達した島田の庄に疫病が流行した際、農民達は信仰の中心になっている松浦神社に平癒祈願をこめ、「きゅうり」に串をさし、これに着物をつけて人形とし、人形浄瑠璃芝居を奉納したところ、さすがの悪疫も下火になったという。この日が旧暦の6月15日であったので、それ以来、この日を卜して、折からの満月に、夜を徹して人形芝居を奉納することが恒例となった。
この地は古くから「島田百軒」といわれ氏子100戸をもち、これらの人々によって「座」が組織され、経営されて今日に至っている。「座」には20数戸の「本頭」という家柄のものがあり、代々世襲として人形遣い、浄瑠璃の語り手を務めてきた。この外本頭以外の氏子70戸のうちからくじ引で4戸を「脇頭屋」に決め、その年の芝居の小屋掛、その他の雑事にあたらせた。またその奉納芝居の経営については、春は麦、秋は籾を一升ずつ、氏子中から集めてこれにあてた。その年の全体の維持管理は「本頭」及び「脇頭」のうちからくじ引きで選出された2名の「当屋」がこれを司った。昭和30年境内に約30坪の恒久的舞台を建てて以来、奉納行事は、氏子全体で当ることとなった。
各語り手、面使いは世襲として伝習している。現在世襲の本頭は26家島田市に在住している。
この座の人形は3人遣いの「淡路系」のもので、大半は光市民ホール展示室に収納されており、また個人持ちを合せると現在100余体が伝存している。
頭には、人形作りとして高名の「天狗久」、「由良亀」、「人形富」等の名作も10余体ある。大きさは、着衣すると4尺に達するものもある。
衣装の著名なもので伝存しているものを列記すると次の通りである。
/新調年次/品名/
/寛政7年/「安達の三段目」源義家の「したたれ」/
/文化3年/「太閤記十段目」光秀の母の帯/
/文化12年/「又助住家の段」又助の着物/
/文政元年/「一の谷」熊谷直実の着物/
/文政4年/「又助住家の段」又助の庄司のはかま/
/天保2年/「千代萩」の八汐の着物/
この座が好んで上演した芸題は下記のとおり。
/芸題/語り手/面使い/
/太閤記十段目/松村家/藤谷家外17名/
/千代萩御殿の場/松村家/木村家外/
/御所桜堀川の段/巌島家/武内家外14名/
/奥州安達ケ原袖萩祭文の段/巌島家/宮内家外23名/
/箱根霊験滝の段/藤村家/原田家外20名/
/壺坂霊験記/常光家/宮内家外5名/
/玉藻前道春館の段/松村家/山本家外14名/
/艶姿女舞衣/松村家/木村家外/
人形の遣い方は、当時、旅芸人等により見様見真似によって習得されたもので専門家の指導によるものではない。それだけにその演技は地方色に富む郷土芸能として貴重である。
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