山代白羽神楽
やましろしらはかぐら
岩国市
県
民俗文化財
9月17日の人丸祭宵祭、11月2日の白羽神社秋祭夜殿祭、12月13日の天神祭宵祭に、白羽神社舞殿で舞われる神楽。
いつ頃から始まり、どこから伝えられたかは不明であるが、江戸時代に、相次ぐ飢饉や疫病の流行に悩まされた農民が、五穀豊穣と悪疫退散の祈願をこめた神事として始めたという伝説がある。当初は、12座で構成された神事舞いであったが、1839年(天保10)の白羽神社社殿改築落成興業に招いた芸州佐伯郡明石村(現在の広島県)の神楽から鑑賞的な神楽を取り入れることになり、当時の若者が伝習を受けて、12座の神楽を24座に改めたという言い伝えがある。
また、神楽を奉仕する者は、地区の若者で、若連中に入った者は、必ず、神楽の伝習を受けて奉仕しなければならないきまりがあった。明治になってからは、これが、長男とされ、現在も、この考えは残されている。昭和初期までは、「二ツ野舞子中」と称していたが、その後、「二ツ野神楽団」と改め、1962年(昭和37)に、「白羽神楽団」となっている。
9月17日の人丸祭宵祭、11月2日の白羽神社秋祭夜殿祭、12月13日の天神祭宵祭に、白羽神社舞殿で舞われる神楽です。
江戸時代に、相次ぐ飢饉や疫病の流行に悩まされた農民が、穀物の豊かな実りと悪疫が逃げ去るように願いをこめた神事として始めたと言い伝えられ、初めは、12座の神事舞いでした。1839年(天保10)、白羽神社が建て替えられた時、芸州佐伯郡明石村(今の広島県)の神楽を取り入れて、24座の神楽に改めたと言われています。
山代白羽神楽
無形民俗文化財
昭和51年3月16日 (山口県教育委員会告示 第3号) 無形民俗文化財
岩国市
山代白羽神楽保存会
9月17日の人丸祭宵祭、11月2日の白羽神社秋祭夜殿祭、12月13日の天神祭宵祭に白羽神社舞殿において舞われる。又、年祭神楽は9年の11月2日毎に行なわれ、9月17日を舞初め、11月2日本舞、12月13日舞納めとも言っている。
山口、広島の県境を流れる小瀬川の上流、名勝「弥栄峡」を見おろす山上に白羽神社を中心にした三つの集落からなる小村二ツ野部落があ。この小村に古くから伝承している神楽がある。これはいつの時代から始められ、どこから伝承したかは不明であるが、口碑によると江戸時代に相つぐ飢きんや疫病の流行に悩まされた農民が、五穀豊穣と悪疫退散の祈願をこめた神事として始められたものであると伝えられている。
こうして始められた神楽も時代と共に幾多の変遷があった事と思われるが、この部落の鎮守白羽神社の秋祭には絶えることなく舞い続けている。そして寛政6年に発記された善秀寺年代記に
寛政十己ノ年の秋九月十一日益者生見の舞祭相調ふ
その年始テ沖ノ田にてまいをまふなり (以下略)
とあり、又安政5年春3月に行われた生見八幡宮御鎮座千年祭の記録の中に
(前略)
凡廿日より神事始ル 同夜舞方 二ツ野舞子中 (以下略)
とあるように、この地方の総氏神生見八幡宮にも度々奉納している。
この神楽も始めは、十二座で構成されていた神事舞であったと伝えられているが、天保10年白羽神社々殿改築の際の落成興行に招へいした芸州佐伯郡明石村の神楽から観照的な神楽をとり入れることになり、その頃の若者であった、清兵衛、六次、長蔵等数名が伝習をうけ十二座の神楽を二十四座の神楽に改めたものと伝えられている。又、神楽を奉仕する者は、部落の若者で、若連中に入組した者は必ず神楽の伝承をうけて奉仕しなければならない不文律があった。明治期に入るとこれが長男とされ、今でもこうした考え方は残されている。
この神楽人の組織体を江戸時代から昭和の初め頃までは「二ツ野舞子中」と称していたが、その後「二ツ野神楽団」と改め、昭和37年1月1日に「白羽神楽団」と改称すると共に、二ツ野部落全体で「白羽神楽保存会」を設立して現在に至っている。
この地方には昭和の初め頃までは多くの神楽が行われていたが、今では非常に少なくなってきた。白羽神楽保存会で伝承している山代神楽は始めに神事的な採物舞(俗に太夫舞という)、中入後に神話や伝説などによる劇的要素をもつ仮面舞(俗に狂言舞という)を行っており、出雲流の流れをくむ安芸系の神楽に備中神楽が影響していると考えられている。又、白羽神社の9年毎に行われる年祭には、神楽の最後に神がかりのせいそうな悪疫退散の祈願をこめた舞を行っている。
舞法は五行拝や水車の順逆、通り会い、やっはな、でんでんおくり、ぐるぐる舞等で、これを組合せて四季四筋に舞って居り、粗野で荒々しいものである。古くからこれを舞う時は、むしろ2枚の中で舞わなければならないと伝えられ、元来その間取りも小さいものである。
舞い初めの身曽岐神楽では神前に向かって座し、中臣祓を奏し、祝詞を奏上する。又、9年毎の年祭には舞殿に設けられた神棚に神幣、五行幣、氏子幣、眷属幣、銭旌幣を始め龍形大注連縄、名種の供物、神饌物が供えられて神事が行われる。そして神楽が始められ、最後の神楽は夜明頃になり、神がかりになった神楽人の神戻しの神事がある。
(1)禊神楽
まず神前に向かって座し、中臣祓を4人で奏し、首座の1人が祝詞を奏上し、終って神楽を行う。
(2)湯立神楽
四季歌を歌う。
(3)諸神
神楽歌がある。
(4)漉水
神楽歌、謂がある。
(5)七夕
漉水に同じ。
(6)一人神楽
七夕に同じ。
(7)六神胡月
謂がある。又、二座に分かれている。
(8)小太刀
六神胡子に同じ。
(9)二本刀
小太刀に同じ。
(10)霊剣長刀
霊剣長刀は始め4人の太刀舞で後に長刀が加わり五人立の舞となり、それが終ると小太刀2人が退場して二本刀2人と長刀の三人立の舞となり最後に長刀一人立の舞となって曲芸的なはげしい所作事をつづけながら舞う神楽である。
(11)三鬼
(12)荒神
謂、神楽歌がある。
(13芝鬼神)
神楽歌、謂がある。
(14)天大将軍
天大将軍は弓1人、刀4人の5人立の舞であって、始め弓を中央四方は刀の4人で舞法にしたがって舞い、のち刀の4人は四隅に座し、弓だけとなる。年祭の時にはこの弓舞が一通り終ると、はげしい楽と共に天蓋を東から一つ宛落とし終ると、神棚の龍形注連を舞いながら神棚からたたき落す。この頃になると舞子は顔面そう白となりはげしい舞となり、龍形注連が落ちると神がかり状態となる。これから神事が行われる。年祭神楽の時以外はこの最後のところは舞わない。
(15)恵比須
(16)すすはき
(17)岩戸開
(18)五郎王子
この神楽は前後二座になって居り、長い謂がある。
(19)八岐乃大蛇
八岐乃遠呂智は始め憂いにうち沈む櫛名田姫が舞いながら舞殿にあらわれ、これを追うようにして足名槌、手名槌が恐れおののきつつ出場する。悲しみのため途方にくれている3人のところへ、須佐之男命が現われ、五行の順逆の舞で自分の由緒を語り、3人の泣く理由をたずね、櫛名田姫との婚約が結ばれ、恐れと悲しみのものである八岐之遠呂智を退治する策をねる。やがて足名槌、手名槌によって酒ぶねが用意され遠呂智が出るのを隠れ待つ。ややあって雲を吐く遠呂智の出現となり、あたりをうかがっている遠呂智が酒ぶね見つけてこれを飲み、酔って心地よく眠ってしまう。この龍をうかがっていた須佐之男命はぬきはらった剣で切りかかり、両者の死斗が始まり乱舞となり遂に遠呂智は討ち亡ぼされる。命は遠呂智の尾から出た宝剣を手に櫛名田姫と共に勝ち得た喜びの舞を舞いつつ足名槌、手名槌に別れを告げながら退場する。残った足名槌、手名槌も歓喜の舞を舞いつつ退場する狂言舞である。
(20)大江山
[舞方人数]
(1)禊神楽 4人 (2)湯立神楽 2人 (3)諸神 3人 (4)漉水 4人 (5)七夕 4人 (6)一人神楽 1人 (7)六神胡子 3人 (8)小太刀 3人及び4人 (9)二本刀 3人 (10)霊剣長刀 5人 (11)三鬼 4人 (12)荒神 5人 (13)芝鬼神 2人 (14)天大将軍 5人 (15)恵比須 1人 (16)すすはき 1人 (17)岩戸開 6人 (18)五郎王子 7人 (19)八岐乃大蛇 5人 (20)大江山 8人
座(曲目)は古くは十二座であって、湯立神楽、漉水、諸神勧請、六神、七夕、二本紀、真榊対応、三鬼、荒霊武鎮、将軍、五郎王子、岩戸開、の名が残っているが、江戸時代の末葉に改められて今は次の二十四座を行っている。身曽岐神楽、湯立神楽、一人神楽、諸神、漉水、七夕、六神胡子、すすはき、恵比須、荒神、荒鬼神、三鬼、五郎王子、霊剣長刀、三人小太夫、四人小太夫、二本刀、天大将軍、岩戸開、八岐乃大蛇、五本刀、七本刀。この中で六神胡子と五郎王子は二座に分れている。又、五本刀、七本刀は余りにも曲芸的な所作が多いため今では舞われていない。その他に大正初期から始められた大江山がある。
はやしを行う楽士は布衣、烏帽子を着用するが、白衣と袴だけで行うこともある。舞子の衣装は下に白衣を着るが、神楽の曲目によって種々の衣装をつける。
(1)禊神楽
採物 榊・扇子
衣裳 烏帽子・狩衣・袴
(2)湯立神楽
採物 輪鈴・幣・刀
衣裳 烏帽子・狩衣・袴
(3)諸神
採物 大幣・小幣
衣裳 烏帽子・狩衣・袴
(4)漉水
採物 小幣・輪鈴
衣裳 烏帽子・狩衣・袴
(5)七夕
採物 小幣・輪鈴
衣裳 烏帽子・狩衣・袴
(6)一人神楽
採物 神楽鈴・大幣
衣裳 烏帽子・狩衣・袴
(7)六神胡子
採物 小旗・小幣
衣裳 立烏帽子・水干・袴
(8)小太刀
採物 刀
衣裳 頭巾・袴
(9)二本刀
採物 刀
衣裳 頭巾・袴
(10)霊剣長刀
採物 長刀・刀
衣裳 頭巾・袴
(11)三鬼
採物 鬼・鬼神杖
衣裳 太夫・立烏帽子・肩切・袴・鬼・四天、袴
(12)荒神
採物 小幣・輪鈴
衣裳 烏帽子・陣羽織・袴で小旗を背に負い刀を帯す。もどきは小袖に袴で面をつけて、宝物を背負う。
(13)芝荒神
採物 太夫・鈴・大幣・刀・鬼・鬼神杖・扇子
衣裳 太夫・烏帽子・水干・陣羽織・袴・鬼・四天・胸当・袴
(14)天大将軍
採物 刀・弓
衣裳 頭巾・袴・烏帽子・狩衣・袴
(15)恵比須
採物 鈴・小旗・扇子
衣裳 立烏帽子・狩衣・袴
(16)すすはき
採物 鬼神杖・扇子
衣裳 黒熊・面・狩衣・袴
(17)岩戸開
採物 大幣・鈴・榊・鏡
衣裳 古代衣裳・面
(18)五郎王子
採物 刀・弓・輪鈴・旗
衣裳 初めは烏帽子・狩衣・陣羽織・袴で弓を持つ。後には頭巾・鍬形・肩切・袴に変り刀を持つ。
(19)八岐乃大蛇
採物 杖・輪鈴・剣・花火・煙幕・蛇
衣裳 古代衣裳・面
(20)大江山
採物 鬼神杖・斧・扇子・徳利杯・紙糸
衣裳 狩衣・四天・肩切・小袖・打掛面・黒熊・しゃ熊・烏帽子
これ等の衣裳は古くは素朴なものであって、小袖に袴をつけ木綿たすきに風折烏帽子で舞っていたものであるが、時代と共に華美になり豪華な金襴ものも使っている。面は、青、赤、般若、酒天等の鬼面、頼光、金時等の面や住吉、須佐之男、手力男、恵比須、猿田彦等の太夫面、宇細女、櫛名田等の姫面、翁や姿面にもどき面などがある。
花火は古くは各種の原料を調合して作っていたもので、千羽鶴、千本菊、糸ざくら、流れ星、車火、大菊、一丈菊千本竹等の原料調合の分量書が残っているが現在では作れないので市販品を用いている。 この神楽を行う場所を「舞殿」といっている。舞殿は二間四方のものでこれに仕度部屋につけて、舞殿の四方や各種の飾付けをするのが本来の姿であるが、今頃は神社の拝殿で行っている。これはいつ頃から始められたかわからないが、年寄は拝殿を舞殿とも呼んでいるところから考えると相当古くからこうしたことが行われていたようである。
舞殿の飾付けは四方に注連縄を張り、これに紙垂や旗をつける。旗には三十二部神、三十二随神名を書く。また、東西南北の方位や春夏秋冬の四季をあらわす「ローカ」と呼んでいる切絵紙をさげる。天井には白蓋を、その四隅に天蓋をさげる。白蓋には、中央に天神地祇八百万此座降臨鎮護祈攸と書いた大旗を、又、八神名、祓戸神名を書いた旗をさげて四方に大幣をつける。天蓋には、四方神名を書いた旗をそれぞれの中央にさげその四方に幣をつけ、これに「ローカ」をさげる。又、散米を袋に入れてつける。この白蓋と天蓋を紙で作った注連縄でつなぎ袋幣をつける。9年毎に行われる年祭神楽には、舞殿の東南隅に神棚を設ける。
はやしは太鼓、笛、合せを用い、4人~5人の楽士が奏楽する。楽の調子は八調子が基調であるが、音取、託宣、はやし、拍子楽、寄進楽等があって、軽快な八調子からゆるやかなテンポの三調子まである。
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