浜出祭
はまいでさい
下関市
県
民俗文化財
7年目毎の4月15日に、田耕神社・堀切・土井ケ浜で行われる祭り。
山側の小野にあった厳島神社(現在は田耕神社に合祀されている)の社伝では、蒙古襲来と結び付けられた伝説があるが、民間では、厳島神社と海側の土井ケ浜にある蛭子社との男女2神の再会の神事であると言われている。江戸時代には、豊浦支藩領と萩本藩領とに分かれていたが、両地の間を数村合同の大掛かりな武者行列の警固を伴うものであったようである。宮座という特別な組織によるきまりがあり、浜殿に行くご神幸の途中や、浜殿での神事や舞いに、古い儀式が伝えられている。何故、このようなことが行われたのか、理由は分からないが、それぞれ生産を異にする山地と浜との和合による式年の祭礼行事を行うことによって、村内の繁栄と秩序を願ったものではないかと考えられている。
7年目毎の4月15日に、田耕神社・堀切・土井ケ浜で行われる祭りです。
厳島神社(今は田耕神社に一緒に祀られている)の社伝では、蒙古襲来と結び付けた伝説がありますが、一般には、厳島神社と海側の土井ケ浜にある蛭子社の男女2神が再会する神事と言われています。江戸時代には、両地間の数村合同の大掛かりな武者行列に守られて行われていたようです。宮座という特別な組織によるきまりがあり、浜殿に行くご神幸の途中や、浜殿での神事や舞いに、古い儀式が伝えられています。それぞれ違うものを生産する山地と浜とが、定められた年に、合同で祭礼行事をすることによって、村が栄え、まとまることを願ったものではないかと考えられています。
浜出祭
無形民俗文化財
昭和51年11月24日 (山口県教育委員会告示 第7号)
下関市
浜出祭文化財保存会
7年目毎の4月15日、田耕神社、堀切、土井ケ浜で行なう。
厳島神社伝に弘安4年蒙古が来襲した際に、探題北条武蔵守は執事小笠原二郎入道を以って、厳島社司加藤治郎太輔並びに社僧の大専坊に、外敵降伏の祈祷をさせた。外寇の注進が激しくなるに及んで、鎌倉から井上左京亮なる者が下向して、当社に外敵降伏の祈願をした。7月蒙古の兵船は筑前博多に来襲したが、敗れて神田村土井ケ浜に漂着した。我が兵はこれを逆襲して破った。敵将は身長7尺余という勇者の者で、囲いを破り残兵を率いて滝部村三千原で戦ったがまた破れ、遂に田耕五千原で敗走した。我が兵はこれを追跡して蒙古兵を全滅した。
この敵将は白羽の矢に射られて死んだが、これを神の射給う所とみな崇めた。そこで勝捷を神に奏せんと川の渡せで祓をした。ここを化粧瀬と云う。また敵将の首を埋めた所を、鬼ケ原と行った。弘安6年始めて土井ケ浜に御神幸をした。その後止んでいたところ、疫病が流行したので占うと、恒例を怠るからとのお告げであったので、浜殿祭を復活したところ疫病が止んだので、それ以来続けることになったというように、従来浜出祭は蒙古襲来と結びついて説かれて来たが、民間では男女二神の再会の神事とも云われ、浜出の年に買った着物は虫が付かないとも云われて来た。記録として残っているものでは、享保9年分「土井ケ浜祭礼諸役人数割符」が一番古く、安永10年、天保8年、天保14年にも行われたこともあるし、祭日も11月13日、11月2日、9月13日と云う様に必ずしも一定しておらないが、大正9年の協定により4月15日に定った。
従来祭の1カ年前に田耕側から神玉側へ申し入れをし、必要によっては両村の代表が滝部村で協定を行うこともあった。
祭りが近づくと田耕神社では社地の掃除や道づくりが行われ、4月11日には清祓といって鳥居に注連縄がはられ3役(伝御長、花巫女、御幣持)その他総代が集まり祓がおこなわれる。その際馬に乗る役にはシテが配られ、それらの家多々では斎竹を建て注連繩が張られる。
祭りの前日には本殿祭が行われ、総代が参列して俵に神輿がすえられ出発の用意が整えられる。神玉側では田耕側の申入れを了解すると共に役割を分担し諸道具を整える。土井ケ浜斎場の引受け部落江尻・岡林・波原の3部落は宮座の鰤切り行事に用いる鰤の用意を島戸、和久、矢玉浦に依頼する。祭りの前日は各部落とも竹・杭・縄・篠等を持ち寄り、斎場の垣や仮屋をこしらえる。又堀切での行事の為に滝部地区神田口部落は田耕側の控える陣屋をこしらえ、直子部落は神玉側の控える陣屋をこしらえる。
祭りの当日の朝、田耕神社の本殿で出発の祈願祭がおこなわれ、行列の呼び出しをする。行列が整うと、旧厳島神社をへて堀切に向う。一方神玉側では、神官付警固の旧下田組、根崎組、それに旧沢組が一の宮に集結、行列を組んで堀切に向う。又大年寄は行列も旧道を堀切に向う。神玉神官は堀切に到着すると神玉側陣屋に待機。田耕大年寄(伝御頭)2人は田耕側陣屋に控える。田耕神官及び助勤神職は陣屋がなく神輿は盛土の上に据える。
合図の鉄砲と共に田耕神官より神田神官のところへ奉者が遣わされる。この時若党、鎗持、草履取、捻、長杖等が奏者の前後を固める。
次に神田神主より田耕神主へ奏者を遣す。この後大年寄の奏者を双方同時に遣す。この奏上途中、よく観衆から「やり直せ」の掛声がかかったもので、俗に7度半の使と呼ばれた。歌舞伎もどきの口上で双方が村の代表であることを意識してか、緊迫感がある。このあと田耕の雄山伏は一の宮から担いで来た酒樽の鏡を抜きほら貝で酒をくんで田耕側の行列や観衆に振舞う。これを飲ませてもらうと無事息災で、雄山伏に子供を抱いてもらうとよく育ち、出世するという。
出発の合図の鉄砲と共に行列を整え神田の花巫女が先導して土井ケ浜斎場へ進む。
斎場への到着とともに神輿は御仮屋の前へすえられる。神玉側の神輿は、夷社が神功皇神社へ合祀されてから出るようになったもので、以前は双方の神輿から御神体を一緒にお遷ししたと云って、縦120cmに横150cm位の室がしつらえてあった。斎場には竹垣がしつらえてあり正面に神官座(宮座又は江尻座という。)正面の左右に波原座、岡林座とあって交代で勤める。
神事は祓式、献饌、祝詞、神玉神主が南西、西北に2本矢を射る蟇目神事、玉串拝と続く。以上が終って宮座行事に移る。薦宰領が指示して神官座を改め、菰を敷く。
まず入亭主の挨拶。次に幣振行事といって神田地区特牛の名門祠堂田の藤野氏が神官座から始めて左右両座を祓って歩く。神官座より左右両座へ奏者を遣す。
左座より奏者が来る。奏者は刀さばきをして口上を述べる。次に右座の奏者が来て刀さばきをして口上を述べる。
奏者の挨拶が了って次に神子の舞がある。神田巫が舞い、次に田耕巫が舞う。舞うといっても現在は神主が連れて座を1廻りするだけである。神酒三献。
続いて魚据及び魚切り行事に入る。神玉側が魚を出し、田耕側がそれぞれの座で切る。鰤切りの行事は土井ケ浜における代表的行事である。鰤は古例により、島戸・和久・矢玉浦から出るが大きい鰤を供えるほど、漁がよいといって競って出す。鰤切りはまず定座に着席、裃の上は乳の上まで下げる。手は袴の下に差し入れる。両足の先を少し交叉して丈を高くみせる。神官座では鰤据は鰤切りの前まで進んで立って鰤を捧げたまま、左右に少し会釈をする形をする。左右の座では鰤据は年寄の前まで前進し、後退して鰤切りに据え、一応末座に控える。肴の頭の方を左側、肴の腹を手前に据える。魚据が去ると脇庖丁は本庖丁の前に進んで紙を口に咥えて(用意して居る半紙四ツ折)俎の動かぬようにしっかり据える。肴の前に庖丁、後に俎箸が紙に包んで置いてある(魚据が肴を持って来る時に肴が俎から落ちぬようにして来たもの。)脇庖丁は其の庖丁と箸とを別々に会釈して本庖丁に渡す。本庖丁も会釈して受取る。脇庖丁は元の座に帰る。本庖丁は受取った庖丁や俎箸の紙を取り去り、右の膝の側に置く。(その時は自分の持って来た庖丁・俎箸と換える)本庖丁はこれから肴を切るので、裃の左の上(前の垂れ)を脱ぎ、勢よく背にやる。肴の頭と胸鰭を中心に、各左右60cm位の処に俎箸を力強く差込む。そして鰭の根元と箸二本(交叉)一緒に左手(逆手)に握り高く差し上げる。(この時右手の庖丁の背で俎を強く叩き)大声で「これ見たり」と叫ぶ。そして肴を下す。下す時に右手の庖丁で肴の尾をさばき、肴の落ちぬ様に庖丁で支えて俎の上に下す。下した時は、最初据えた時と反対で、頭が右側で腹が手前(背は向側)になっている。俎箸を差換える(一本は頭に一方は胴に)。切るに都合の良い処、肴の顎のカマの処より8~9cm胴の方に寄った処を切り離す。切った頭は切ったままの方向に向けて立てる。(頭の顎を手前にして)頭を立てたら脇庖丁の前に来て、会釈をして紙を口に咥えて、更に肴の口に押込む紙(用意してあるもの)を出して肴の口に押込む。この時本庖丁は庖丁の先で肴の口をあけて、脇庖丁の紙の押込み易いようにする。脇庖丁は会釈して元の座に戻る。(本庖丁は肴の下側の胸鰭を頭の方に向を換え置くこと。庖丁が鰭の上に行くと切れにくいから)庖丁が箸の下を通ったら、箸を強く差込む(魚の動かぬように、切り易いように)。尾の処は少し残す(切り離すと肴が落ちるから)。このようにして三枚におろす。切る処を見定めて箸を左右に突き刺す。骨と骨との継ぎ目の所を切ればよく切れるが、骨の上に庖丁が行ったら切れにくい。その時庖丁の先きを下げて前に切り下げ、今度は庖丁の手前を下げて切る。観客には、切り離した様に見せかける。このようにして三個に切る。切り終ったら肴の頭を元の様に並べる。(紙を咥えたまま)本庖丁は裃の左の垂れをもと通りになおす。脇庖丁は本庖丁が肴を元の形に並べると、座を立って本庖丁の前に行き会釈をして本庖丁から庖丁と箸とを受取る。(本庖丁は庖丁、箸を元の様に紙に包んで脇庖丁に渡す)次に肴の前後に(魚を動かぬように、落ちぬように)紙に包んだ庖丁と箸を入れる。(この時脇庖丁は半紙を咥えて、手も素手ではなく矢張り紙を握り添えて行う)本庖丁は行事が終った事を魚据に知らすために、座より少しいざって会釈をする。それを見て魚据が肴を下げに来る。肴を捧げて立った時の作法は初めと同じである。
肴が下ると勧進元では肉庖丁が肴を刻み、肴挟みかカガチで鰤とコンニャクのあえものを作り木皿に盛る。
次は直会行事であるが、右のあえものに盃(椀の蓋)を添え、膳に入れてお通いが人数に配る。一膳は神前に供える(後年寄や社人伴中には膳がない。)残りは部落の者が分け合うが、何年たっても腐らないと言い、これを戴くと病気にかからないと言う。又魚のイガが喉にささった時この鰤を頭にのせるとのくという。次に勧酒と言って酒をついで歩く。全員が飲み了ると一同互礼をして、神官座では引受役の新左ヱ門の挨拶があって終了する。
(昭和44年)
[田耕側行列]
(1)先払 2名 (2)大鉾持 1名 (3)山伏 2名 (4)幟持 12名 (5)杖持 12名 (6)鎗持 12名 (7)大笠 12名 (8)飾弓 12名 (9)鉄砲 12名 (10)片箱 12名 (11)太刀持 12名 (12)花巫子 1名 (13)長柄大傘持 1名 (14)助勤神職 1名 (15)合鐘 1名 (16)太鼓 6名 (17)御幣持 1名 (18)金幣持 1名 (19)四神鉾 2名 (20)賽銭箱 2名 (21)神輿守 12名 (22)四神鉾 2名 (23)神官 1名 (24)長柄傘 1名 (25)神官供付 3名(若党1名、猩々緋1名、小人1名) (26)合図鉄砲 1名 (27)将軍右座、左座各4名 (28)伝御長右座 1名 (29)供付 6名(若党2名、猩々緋2名、小人1名、両掛1名) (30)伝御右座 3名 (31)伝御左座 3名 (32)伝御長左座 1名 (33)供付 6名 (若党2名、猩々緋2名、小人1名、両掛1名) (34)大宰領 1名 (35)副宰領 1名 (36)神輿係 4名 (37)行列係 11名 (38)奏者 4名(神官付2名、伝御付2名) (39)鰤切 6名(神官座2名、右座2名、左座2名) (40)賽銭箱 6名 (41)床几持 1名
[神玉側行列]
(1)塩桶 1名 (2)山伏1名 (3)竹杖 2名(4)長杖 2名 (5)鉄砲 4名 (6)幟 3名 (7)四人侍 4名 (8)年寄 1名 (9)小姓 1名 (10)奏者 1名 (11)助役 1名 (12)鎗持 2名 (13)両掛 1名 (14)大宰領 2名 (15)後押 1名
[旧下田組行列]
(1)山伏 1名 (2)錦旗 1名 (3)竹杖 1名 (4)鉄砲 3名 (5)小宰領 2名 (6)大宰府 1名 (7)猩々緋 5名 (8)鎗持 3名 (9)弓持 3名 (10)長杖 1名 (11)若侍 4名 (12)若侍 2名 (13)目付 1名 (14)奏者 1名 (15)小姓 1名 (16)幟侍 5名 (17)酒かき 1名 (18)人夫 1名
[根崎組行列]
(1)錦旗 1名 (2)猩々緋 2名 (3)長杖 1名 (4)若侍 2名 (5)大宰領 1名 (6)弓 1名 (7)長柄 1名 (8)幟 2名 (9)槍 1名 (10)鉄砲 1名 (11)若侍 1名
[旧沢組(西沢)行列]
(1)猩々緋 1名 (2)弓 1名 (3)口添 1名 (4)若侍 2名 (5)若侍 1名 (6)目付槍 1名 (7)奏者 1名 (8)鎗持 1名 (9)幟 1名 (10)酒かつぎ 1名 (11)小宰領 1名 (12)鉄砲 1名
[旧沢組(河原)行列]
(1)山伏 1名 (2)竹杖 1名 (3)鉄砲 1名 (4)小宰領 1名 (5)猩々緋 2名 (6)鎗持 1名 (7)弓持 1名 (8)若侍 1名 (9)小姓 1名 (10)幟 2名 (11)幟 1名 (12)長刀 1名
[江尻座役割]
(1)亭主役 1名 (2)大宰領 2名 (3)菰宰領 1名 (4)扱棒 2名 (5)勧進元(設備係) 2名 (6)魚据 1名 (7)菰敷 1名 (8)勧進元(整理元締役) 2名(9)膳据 2名 (10)酒注 2名 (11)魚挾 1名 (12)魚切 2名 (13)神輿かき 3名 (14)太鼓かき 1名 (15)酒監視 2名 (16)酒屋行き・浜持出 2名 (17)菰浜持出し 1名 (18)勧進元手伝 1名 (19)諸道具持出及後始末 2名 (20)魚頼み(島戸) 1名 (21)魚取り 1名 (22)御礼酒送り 1名 (23)酒び杓・まな板作 1名 (24)八封菰作 1名(25)五封菰作り 12名
[波原座役割]
(1)年寄 2名 (2)後年寄 2名 (3)鰤据 1名 (4)奏者指揮 1名 (5)奏者先払進物係 1名 (6)奏者 1名 (7)上通 2名 (8)下通 2名 (9)座監督 1名 (10)酒世話人 2名 (11)肉庖丁 2名 (12)行荷運搬人 3名(13)戻荷運搬人 2名 (14)神輿太鼓係 3名 (15)駕籠係 1名 (16)菰編 8名
[岡林座役割]
(1)左年寄 2名 (2)右年寄 2名 (3)奏者 2名 (4)鰤 1名 (5)捻り 1名 (6)抑え 1名 (7)通い 2名(8)宰領(酒肴荷物) 1名 (9)鰤切 2名 (10)座宰領 2名 (11)酒運び役 2名 (12)酒汲 2名 (13)肴挾み 2名 (14)荷物持出係 4名 (15)荷物持帰係 4名 (16)神輿出御係 3名 (17)神輿還御係 3名 (18)荷物受取係 2名
[田耕側行列]
(1)先払
採物 刀・杖
衣装 陣笠、紋付、袴、白足袋、紙緒
(2)大鉾持
上に同じ
(3)山伏
衣装 千日鬘、輪袈裟、高下駄(一本歯)
(4)幟持
衣装 供笠、羽織、股引、脚袢、黒足袋、草履
(5)杖持
衣装 鉢巻、袷、襷、白足袋、草鞋
(6)鎗持
衣装 陣笠、紋付、袴、白足袋
(7)大笠
衣装 供笠、羽織、股引、脚袢、黒足袋、草鞋
(8)飾弓
衣装 陣笠、紋付、袴、白足袋、紙緒
(9)鉄砲
上に同じ、但し草鞋
(10)片箱
衣装 供笠、羽織、股引、脚袢、黒足袋、草鞋
(11)太刀持
衣装 謡楽、垂冠、袴、白足袋、紙緒
(12)花巫子
衣装 十二単衣
(13)長柄大傘持
衣装 供笠、羽織、股引、脚袢、黒足袋、草鞋
(14)助勤神職
衣装 官服
(15)合鐘
衣装 羽織、股引、黒足袋、草鞋
(16)太鼓
衣装 白丁、鉢巻、カンパン、股引、脚袢、黒足袋、草鞋
(17)御幣持
衣装 烏帽子、狩衣、袴、白足袋、紙緒
(18)金幣持
衣装 裃、白足袋、紙緒
(19)四神鉾
衣装 陣笠、紋付、袴、白足袋、紙緒
(20)賽銭箱
衣装 カンパン
(21)神輿守
衣装 烏帽子、白丁、股引、白足袋、草鞋
(22)神官
衣装 官服
(23)長柄傘
衣装 供笠、羽織、股引、脚袢、黒足袋、草鞋
(24)神官供付
○若党
採物 刀、杖
衣装 供笠、紋付、袴、白足袋、紙緒
○猩々緋
上に同じ
○小人
衣装 供笠、紺袷、股引、脚袢、白足袋、紙緒
(25)合図鉄砲
衣装 陣笠、紋付、白足袋、紙緒
(26)将軍右座・左座
衣装 謡楽垂冠、白足袋、紙緒
(27)伝御長右座
採物 刀
衣装 陣笠、紋付、袴、白足袋、紙緒
(28)供付
○両掛
衣装 股引、脚袢、黒足袋、草鞋
(29)伝御右座・左座
伝御長に同じ
(30)奏者
採物 刀
衣装 袴
(31)鰤切
衣装 裃
(32)賽銭箱
衣装 カンパン
(33)床几持
衣装 着物、脚袢
[神玉側行列]
(1)塩踊
衣装 羽織、袴
(2)鉄砲
衣装 陣笠、袷着物、襷、袴下
(3)幟
衣装 羽織、袴
(4)四人侍
採物 大小刀
衣装 陣笠、紋付、袴
(5)年寄
採物 扇、大小刀
衣装 陣笠、袴
(6)小姓
採物 大小刀
衣装 麻裃
(7)奏者
採物 鉄扇、大小刀
衣装 陣笠、麻裃
(8)助役
上に同じ
(9)鎗持
衣装 羽織、袴
(10)両掛
衣装 羽織、着物
(11)大宰領
採物 大小刀
衣装 陣笠、紋付、袴、襷
(12)後押
衣装 陣笠、羽織、袴
[旧下田組行列]
(1)錦旗
衣装 紋付、袴
(2)竹杖
採物 大小刀
衣装 紋付、袴
(3)鉄砲
衣装 陣笠、袴、白襷
(4)小宰領
衣装 羽織、袴、白襷
(5)大宰領
採物 大小刀
衣装 陣笠、紋付、袴
(6)猩々緋
衣装 紋付、袴
(7)鎗持
衣装 羽織、袴
(8)弓持
上の同じ
(9)長杖
採物 大小刀
衣装 紋付、袴
(11)若侍
採物 大小刀
衣装 陣笠、紋付、袴
(12)若侍
上に同じ
(13)目付
衣装 羽織、袴
(14)奏者
採物 鉄扇、大小刀
衣装 麻裃、陣笠
(15)小姓
採物 小刀
衣装 裃、陣笠
(16)幟持
衣装 羽織、袴
[根崎組行列]
(1)錦旗
衣装 紋付、袴
(2)猩々緋
上に同じ
(3)長杖
採物 大小刀
衣装 紋付、袴
(4)若侍
採物 大小刀
衣装 陣笠、紋付、袴
(5)大宰領
上に同じ
(6)弓
衣装 羽織、袴
(7)長柄
上に同じ
(8)幟
衣装 羽織、袴
(9)槍
上に同じ
(10)鉄砲
衣装 陣笠、袴、白襷
(11)若侍
採物 大小刀
衣装 陣笠、紋付、袴
[旧沢組(西沢)行列]
(1)猩々緋
衣装 紋付、袴
(2)弓
衣装 羽織、袴
(3)口添
衣装 着物
(4)若侍
採物 大小刀
衣装 紋付、袴、陣笠
(5)若侍
上に同じ
(6)目付鎗
衣装 羽織、袴
(7)奏者
採物 大小刀、鉄扇
衣装 陣笠、麻袴
(8)鎗持
衣装 羽織、袴
(9)幟
衣装 羽織
(10)酒かつぎ
衣装 着物
(11)小宰領
衣装 陣笠、羽織、袴、白襷
(12)鉄砲
衣装 陣笠、袴、白襷
[旧沢組(河原)行列]
(1)竹杖
採物 大小刀
衣装 紋付、袴
(2)鉄砲
衣装 陣笠、袴、白襷
(3)小宰領
衣装 羽織、袴、白襷
(4)猩々緋
衣装 紋付、袴
(5)鎗持
衣装 羽織、袴
(6)弓持
上に同じ
(7)若侍
採物 大小刀
衣装 陣笠、紋付、袴
(8)小姓
採物 大小刀、鉄扇
衣装 陣笠、麻裃
(9)幟
衣装 羽織、袴
(10)幟
上に同じ
(11)長刀
衣装 羽織、袴
[江尻座役]
(1)亭主役
衣装 裃
(2)魚据
上に同じ
(3)膳据
上に同じ
[波原座役]
(1)年寄
衣装 裃
(2)後年寄
衣装 紋付、袴
(3)鰤据
衣装 裃
(4)奏者指揮
衣装 紋付、袴
(5)奏者先払進物係
衣装 紋付袴、鉢巻、白襷
(6)奏者
採物 脇差、大小刀
衣装 裃
(7)上通
衣装 裃
(8)下通
衣装 紋付、袴
(9)座監督
上に同じ
(19)酒世話人
衣装 紋付
(11)内庖丁
上に同じ
(14)神輿太鼓係
衣装 袴、白足袋、草履
[岡林組役割]
(1)左年寄
衣装 (前年寄)裃、(後年寄)羽織、袴
(2)右年寄
上に同じ
(3)奏者
採物 大小刀
衣装 裃
(4)鰤据
衣装 裃
(5)捻り
衣装 羽織、袴
(6)抑え
上に同じ
(7)通い
衣装 裃
(8)宰領(酒肴荷物)
上に同じ
(9)鰤切
上に同じ
(10)座宰領
衣装 羽織、袴、白足袋
[土井ガ浜江尻座緒用具]
(1)マナ板 1枚 (2)マナ箸 1膳 (3)庖丁 1本 (4)割箸 16膳 (5)竹 20本(12cm) (6)肴鉢 1枚 (7)盃(勧進元用) 10個 (8)寿司鉢 1個 (9)会席膳 16膳 (10)木皿 32枚 (12)椀
16個 (13)三ツ組盃及び盃台 2組 (14)銚子 2個 (15)扱棒 2本 (16)置座 2個 堀切では、神玉側の陣屋と田耕側の陣屋を作り、神輿を据るために土を盛る。土井ガ浜では、浜殿を中心に斎場を作る。
座配りについては、下図のとおり。
山地側の小野鎮座の厳島神社(現在田耕神社に合祀されている)と、海浜側の土居浜鎮座の蛭子社との陰陽和合の出合祭であって、藩政時代には田耕と神玉は豊浦支藩領と本藩領に分離しており、両地18kmの間を数村合同の大がかりな武者行列の警固を伴う渡御式であった。宮座による祭祀組織の司祭者の定めがあり、浜殿に至る神幸の途次にも古儀式を伝えており、浜殿における「奏者の刀さばき」「幣振り」「神子の舞」「蟇目神事」「鰤切り」などの古儀式が見られる。
このように藩政時代において数カ村にわたって両神社合同の御幸渡御式がおこなわれてきたことは、深い理由があったと思われるがそれぞれその生産を異にした山地と浜との陰陽和合による式年の祭礼行事によって、その都度祭政の一致によって村内の繁栄と秩序を乞い願ったものと思われる。最近年では昭和51年4月11日に行ったが、昔は11月の苅上祭に行った。かかる大祭礼には物心両様非常な労苦を伴うものであるにかからわず、華麗尊厳なる祭儀が行われたことは、驚くべきことである。
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