玉祖神社の占手神事
たまのおやじんじゃのうらてしんじ
防府市
国選択
記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財
昔は、陰暦8月15日であったが、明治以後は、太陽暦の採用により、周防一の宮・玉祖神社例祭前夜の9月24日に行われるようになった神事。近年は、それに近い土曜日に、神社境内の神門前の石畳の上で行われている。社伝によれば、仲哀天皇が熊襲征伐に行かれる途中に、玉祖神社を参拝して祈願され、戦の吉凶を占われたのが始まりと言われている。真夜中に行われていたので、「夜の神事」と呼ばれ、また、その神事が、相撲の形によく似ていることから、「占手相撲」とも呼ばれている。この神事に伴って、仲哀天皇が陶工・沢田の長に命じて、近くにある高田の粘土で、3本足の土鼎(土鍋)と大皿を作らせ、白と黒の御食を炊いて神前にお供えしたという伝説もあり、そのとき作られた土器が、「佐野焼」の始まりであると言われている。土鼎で炊かれたものが神前に供えられ、古い慣習に従って続けられている神事は、民俗文化財として、大変価値の高いものである。
昔は、陰暦8月15日でしたが、明治以後、太陽暦の採用により、周防一の宮・玉祖神社例祭前夜の9月24日に行われるようになった神事です。近ごろは、それに近い土曜日に、神社境内の神門前の石畳の上で行われています。社伝によると、仲哀天皇が熊襲征伐に行かれる途中、玉祖神社を参拝して戦勝を祈り、戦いの吉凶を占われたのが始まりと言われています。真夜中に行われていましたので、「夜の神事」と呼ばれ、その神事が、相撲の形によく似ていることから、「占手相撲」とも呼ばれています。佐野焼の土鼎(土鍋)で炊かれた白と黒の御食が神前に供えられ、古い習わしに従って行われています。
玉祖神社の占手神事
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として選択されたもの
平成9年12月4日
防府市
占手神事保存会
往古は陰暦8月15日であったが、維新以後太陽暦採用により9月24日午後8時開始、同9時終了。
玉祖神社境内、神門前、石畳の上。
伝によれば、仲哀天皇西征の途次、玉祖神社にご参拝親しくご祈願なされ、軍の吉凶を占われたことに起因するといわれている。
毎年例祭前夜これを行い、古くは丑の刻執行したため俗に夜の神事と称し、またその行事のやや相撲の形に似ていることから、占手相撲とも称せられている。
この神事と起源を同じくして伝えられた古例に、仲哀天皇が当地佐野燒陶工の始祖、沢田の長に命じ、高田の土をもって三足の土鍋を作り、御供えを炊き大■に盛って玉屋の明神に供え、軍の吉凶を卜なわせたとの伝により、爾来その子孫代々相伝えて、毎年三足の土鼎(2個)と■(2個)と一ノ鳥居のしの竹(2本)とを新調し、例祭前に献納する行事が行われて来た。例祭当日、この土鼎をもって、1は白1は黒の御食を炊き■に盛って供進している。神事の所役は宮付の者が奉仕し、その家が現今4戸(世襲制)存在していて相撲道の祖型をうかがうことが出来る。
定刻、神門前に燎を焚き宮付着座して、その首座2名は裃を着し判士をつとめる。行事所役2名は裸体で白羽二重の褌を締めている。
宮司以下着座し、神職大麻をもって行事所役両人を祓いついで宮付首座より行事諸役へ不浄除の守を授け(維新前は終始己の髷に挾んだものであるが、今は宮付首座へ預けておく。)、ついで行事に移り、まず所役2名左右相並んで円座を棒持して進み、宮司の前正中の左右に置き、退いて再び飾太刀を棒持して円座の上に安置し、一揖して退いて左右に分退する。次に両掌を開き両掌を腰の上部に着け姿勢を整え、そのまま両足をくの字形となし、さらにくの字形の歩調で左右より左右左と3歩向い歩み行き合いて己の左方の腰を1回打ち、両足をくの字形となし、左右左と3歩退く。又、右左右と相進んで行き合いて右方の腰を打ち、右左右と3歩退く。そして又左右左と進み行き合いて左右の腰を同時に打ち、左右左と3歩退く。次に左右相並んで進み、彼の円座上の飾太刀を撤す。つぎに宮付首座より行事所役へ不浄除の守を授け、行事所役受取り押しいただいて宮付首座へ預け置く。次に所役左右相並んで飾太刀を棒持し、円座の上に安置し一揖して退き、左右に分退し、前段同様の所作を再び繰返す。次に左右相並んで進み、飾太刀を首座のもとへ撤し、つぎに円座を撤す。つぎに両人左右に相分かれ、前段同様の姿勢と歩調をもって行き合いて共に左手の掌を示し後退す。つぎに又進んで右手の掌を示し後退す。次に両人両手を取組み、東方のものは西方の位置、西方のものは東方の位置に回って、其のまま掌をもって地上を叩く。其の数平年には12、閨年には13をもってする。終って両人双手を挙げ、北面して鬨の声を発し、一揖して退出する。
首座2名は裃を着用し、行事所役2名は裸体で白羽二重の褌を締める。 神門前石畳の四方に注連縄を張り燎火を焚く。(予め燎火、案、棒劔円座を用意)
卜占神事として、きわめて呪術的儀礼に富み、雰囲気そのものが宗教的敬虔性をもって一貫していると共に相撲が本来もつ神事的性格をも現わしている。特に神饌が土鼎によって炊かれた白黒の熟饌をもってすることは、現今の生饌をもってするに反して、もっとも古習をとどめるものといわれ、民俗文化財として価値の高いものである。
宮付首座(世襲制の家役)、行事諸役(世襲制の家役)
奉仕者の家族に凶事があった場合はその時に限り首座がその代替を斡旋することとしている。宮付首座が管理の任に当たる。
玉祖神社は延喜式神名帳に載せられている式内神社で、右田大崎に鎮座し、玉祖命を祭神とする。玉祖命は玉祖宿彌の祖天明玉命(一名櫛明玉命、又は羽明玉命)と称し、天孫降臨のとき衆を率いて創業を補佐せられたといわれる五伴緒の神の一である。社伝によれば、その後この地に座して神去り給うたので、今の玉岩窟と呼ぶ地に葬ったと伝えているが、天平10年(738)の周防国の正税帳には禰宜玉作部五百背の名が、また今昔物語には宮司玉祖惟高の名が見えているので玉作部の部民が周防国に来住し、その祖神である玉祖命を祀ったものと解せられている。
当社は周防一宮として、皇室はもとより国司をはじめ国内の信仰ことのほか厚く、大内氏、毛利氏など歴代国守の尊崇庇護もまた甚大であったので、古記録、遺跡、遺物、神事等の貴重な文化財が現存し今日まで継承されている。鎌倉時代のはじめ、俊乗坊重源が当社を造替した建久6年9月付の「造替目録」(重文)、南北朝時代の建武2年9月に大内弘幸が当社を重建した「住建目録」(重文)、正平11年丙申歳と刻銘のある「九曜巴文雙雀鏡」など一部社会に紹介されている。
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