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文化財の概要

文化財名称

木造重源坐像

文化財名称(よみがな)

もくぞうちょうげんざぞう

市町

防府市

指定


区分

重要文化財

時代

鎌倉時代

一般向け説明

 防府市阿弥陀寺に安置されている。ヒノキ材の一木造りで、像高は88.2cm。
 重源(ちょうげん)は1121年に出生、13歳で上醍醐寺に入り、密教を学び、のち源空に師事し浄土教を信仰した。1167年に入宋し、中国の大寺を歴訪した。1180年に兵火で奈良東大寺が焼失したが、その再建のため、翌年東大寺勧進職に任ぜられた。1185年に大仏開眼、1195年に大仏殿落慶(らっけい)の供養をとげた。
 当時周防国が東大寺の領国であったため、大仏殿の再興に必要な材木を、佐波川上流の山に求め、自ら現地へ行って、伐採運搬の指揮に当った。
 阿弥陀寺は重源が周防にあった時、開山となり創建した寺である。
 重源の肖像彫刻は当寺のほか、奈良の東大寺、播磨(はりま)の浄土寺、伊賀(いが)の新大仏寺にもあるが、それらは当寺のものよりやや小さい。年令は当寺のものが一番若く見える。しっかりした写実が見られ、鎌倉時代の肖像彫刻の中でも白眉である。おそらく重源と信仰上深い関係にあった仏師の作であろうと言われている。

小学生向け説明

  この仏像は防府市の阿弥陀寺(あみだじ)にあります。ヒノキ(檜)を彫って作られたものです。仏像の高さは88cmです。細かなところまでしっかり彫られてあり、重源(ちょうげん)とかかわりのあった人が作ったものといわれています。鎌倉時代につくられた彫刻のなかでも優れたものです。
 重源は、平安時代の1121年に生まれました。13歳で僧(そう=お坊さんのこと)になりました。勉強のために中国へ渡ったことがあります。1180年に奈良の東大寺が焼け、重源は、その東大寺の建物を建てなおす役目につきました。当時、周防国(すおうのくに)は東大寺の領国でした。東大寺を作るために必要な材木は、佐波川(さばがわ)上流の山から運ばれました。重源は周防に来て、材木の切り出しと運送の指示をしました。この像がある阿弥陀寺は、重源が、周防にいたときにひらいた寺です。

文化財要録

要録名称

木造重源坐像

指定区分・種類

重要文化財(彫刻)

指定年月日

明治35年7月31日(内務省告示 第55号)国宝(旧)
昭和25年8月29日 文化財保護法施行により重要文化財

所在地

防府市大字牟礼1869番地 

所有者

宗教法人 阿弥陀寺

制作等の年代又は時代

鎌倉時代

員数

一躯

品質及び形状

〔本躰〕
桧材、一本造、諸所に矧木をなし、あるいは木屑をもって盛り上げ、布貼とし彩色をなす。
〔台座〕
後補、桧材、寄木造、漆箔

寸法又は法量

〔本躰〕
像高 88.2cm
自頂上至顎 26.1cm
面奥行 18.8cm
耳張 19.5cm
臂張 55.1cm
腹奥行 30.9cm
膝張 77.3cm
膝奥行 60.0cm
膝高 17.9cm
〔台座〕
総高 33.3cm
幅 92.4cm
奥行 71.2cm
高 9.1cm
奥行 71.2cm
礼盤座 97.0cm
同奥行 73.6cm
同高 24.2cm

参考情報

 俊乗房重源は俗名を刑部佐衛門尉重定といい、十三才で上醍醐寺に入り、名を重源と改め、真言の修行をしたが、法然上人に帰依して自ら南無阿弥陀仏と号し念仏を勧めた。
 治承四年(1180)奈良東大寺が平重衡の乱のため大仏殿其他緒堂宇が焼けた時朝廷では最初法然上人をして諸国勧進せしめんとされたが、法然が固辞してうけなかったため、その弟子の重源を大勧進として東大寺の復興を計られた。
 重源はそれから十余年の長年月に亘り諸国を勧進して東大寺再興に従事し、建久六年(1195)三月十二日、天皇行幸のもとに落慶供養を営むと、その年の六月六日入滅したともいわれ、又其頃飄然と寺を出て姿を消してしまったともいう。
 周防の阿弥陀寺は重源が東大寺念仏堂やその他六ヵ所に不断念仏を興隆したうちの一つである。また周防国が東大寺の料国であった関係上、東大寺再興に必要な材木を佐波川の流域に求めたことなどに重源と本県との関係を知ることが出来る。

地図

画像

木造重源坐像 関連画像001

木造重源坐像 関連画像002