塑造寿円禅師坐像
そぞうじゅえんぜんじざぞう
美祢市
県
有形文化財
室町時代
塑像で像高は49.2cmある。円頂(えんちょう)の僧侶の姿で、衲衣(のうえ)に袈裟(けさ)をかけ、ひざ上で両手を重ね、第一指をあわせる形で坐している。頭部は木心に塑土をつけてつくり、これを輪積状にしてつくった胴体にさしている。ひざ前、両脇袖などもこれにつけている。表面に白土をひき、彩色がなされていたが今は見えない。自住寺の寺伝によると、寿円禅師は自住寺を再興した僧であった。正平9年(1354)この地の大干魃に際して、広谷の滝穴(今の秋芳洞)にこもって雨を祈り、その効験があったので、奉謝のため滝穴の淵に身を投じて入滅した。里人はその徳をしたって、禅師の骨灰をもって造ったのがこの像であるという。近年修理がなされ、曲と方座が新しく作られた。秋芳洞入口脇の堂に安置される。
美祢市秋芳町の自住寺(じじゅうじ)にあります。
塑像(そぞう)で、仏像の高さは49cmあります。
つくられたのは南北朝時代です。
表面に白土をひき、彩色がなされていましたが今は見えません。
寺の伝えによると、寿円禅師は自住寺を再興した僧でした。1354年、この地にひでりがおこったときに、広谷の滝穴にこもって雨を祈り、その願いがかなえられたので、謝礼に滝穴の淵に身を投げて入滅しました。里人はその徳をしたって、禅師の骨灰をもってつくったのがこの像であるといいます。それで骨灰像と呼ばれています。
塑造寿円禅師坐像
彫刻
昭和42年1月17日(山口県教育委員会告示 第1号)
美祢市秋芳町秋吉5163番地
宗教法人 自住寺
南北朝時代
一躯
円頂のど骨をあらわす。鼻より口にしわあり。衲衣に袈裟をつける。襟のぬい目を線刻襟際に下着をあらわす。左肩より袈裟をかけ、膝上で右掌に左手を重ね第1指をあわせる形、裳及び袖を垂らして坐る。
頭部は木心(杉、径1.5㎝)に塑土をつけてつくり、これを輪積状に積層してつくった胴体(内径長径24.7㎝短径15.7㎝、木心下端までの深さ19.5㎝)に挿してつくる。膝前両脇袖等をこれにつける。表面仕上げを要する箇所は藁巻きつけの上土を重ねる(左膝奥欠損断面でみると四層位土を重ねたかと思われる)。
袈裟及びそのつり環などは別につくりはりつける。表面白土を引き彩色、塑土は骨を混じるか(遺灰と思われる)、紙すさか麻のもみきれを混ぜる。
表面はさびをぬりその上に白土をかけ、彩色でくろずんだか、うるしをぬり彩色したかと思われる。台座、仮箱座、木造(除去)。曲と方座、桧材、黒漆塗(新補)。
〔本体〕
像高 49.2㎝
頂上~顎 17.5㎝
面幅 11.4㎝
耳張 13.7㎝
面奥 14.5㎝
臂張 37.6㎝
膝奥 31.6㎝
裾張 45.6㎝
膝上~裳垂下 28.0㎝
〔曲〕
高さ 93.0㎝
幅 64.0㎝
奥行 40.0㎝
自住寺寺伝によると、当寺は平城天皇大同2年弘法大師の草創と伝え、その後廃頽したが、後醍醐天皇の延元2年大洞寿円禅師がこれを再興したという。そしてこの寿円禅師については次に記すような高徳の伝がある。
後村上天皇の正平9年の初夏、この地方が大旱魃にて作物はほとんど枯死せんとし、戦乱につぐ天災にて庶民の憂苦甚しかった。寿円禅師はこれを深く憂えて5月朔日より字広谷の滝穴(秋芳洞の古名)にこもって雨乞いの秘法を修したところ、満願の5月21日早朝、大豪雨あり、万物悉く蘇生の思いをいたし、里人甚だ喜んで禅師を迎えんとして河口に集ったが、禅師はすでにわが立願達せりと大いに満足し、洞口明暗の境にある龍が淵に投身し天の霊験にわ奉謝した。里民これを惜しみ悲しんでその遺骸を荼毘に附し、その骨灰を練って禅師の霊像をつくり奉祀し、雨乞開山と敬仰して報恩の誠を致した。
この由緒によって、藩政時代には旱魃に際しては藩命を以って代官立会し、霊像を滝穴に移して雨乞を修する例とした。
この像をみるに、骨灰の像と伝えられるように当時信仰崇敬の極致として、荼毘に附した故人の骨灰に粘土を混ぜ練り固めて造形した、実に珍しい塑像(遺灰像)である。
そして温容慈願の中に威厳をそなえた面相、がっちりとした肩の張り、胸の厚み等、全体としての調和もよくとれ、どっしりとした堂々たる体貌は前記寺伝の伝えるように、衆生済民のために文字通り精魂を尽し捨身修法した禅師らしい相貌をよくあらわしている。而して頭首と体とを結合安定する為に1本の木心を通じており、製作手法も独特の味をもっている。
衣紋の裾に損傷のあるのが惜しまれる。
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