法泉寺厨子
ほうせんじずし
宇部市
県
有形文化財
室町時代
宇部市棯小野の法泉寺本堂に安置されている。桁行二間(76.4cm)、梁間一間(86.1cm)、入母屋造りの妻入りで、背面は切妻になっており、屋根は瓦葺風の木造である。柱は礎盤の上に立ち、上下に粽がある。板壁は貫で固めている。側面に華頭窓がある。正面の扉は桟唐戸であるなど、禅宗様式の手法でまとめられている。この手法により室町時代中期15世紀後半頃の建立と考えられる。
法泉寺は、大内義興が父政弘のために、山口に建立した禅宗寺院であるが、大内氏滅亡後、寺号は棯小野に伝えられ、後浄土真宗に改宗し現在に至っている。この厨子は法泉寺の抱え寺であった寿明院に存していたものであるが、寿明院が廃寺となって法泉寺に移ったものである。室町時代の厨子は県下に多くなく貴重なものである。
宇部市の法泉寺本堂にあります。厨子は、仏像などをおさめる箱のことをいいます。禅宗様式の手法でまとめられています。この手法により室町時代中期15世紀後半頃の建立と考えられます。
もともと法泉寺は、大内義興(おおうちよしおき)が父政弘(まさひろ)のために、山口市に建立(こんりゅう)した寺です。大内氏滅亡後、その寺はなくなり、名前がこの寺に伝えられました。この厨子は、法泉寺の抱え寺であった寿明院が廃寺となって、法泉寺に移ったものです。
法泉寺厨子 1基
建造物
昭和55年12月5日(山口県教育委員会告示 第7号)
宇部市大字棯小野321番地
宗教法人 法泉寺
この厨子の建造時期は室町中期と考えられる。それは次の2つの理由からである。まず第1は禅宗様式でまとめられているということである。「禅宗様の導入と成立の契機はやはり寛元4年(1246)の宋僧蘭溪道隆の来朝……無学祖元の来朝〔弘安2年(1279)〕と円覚寺の開創〔弘安5年(1282)〕などの宋僧の来朝と指導」以後と考えられること、すなわち鎌倉末期以後であるということである。
第2は手法から考えられる。すなわち①屋根板の表はヤリガンナを使用していること。現在の板ガンナは天正年間(1573~1792)以後使用され始めたと考えられる。②屋根板の裏はタテノコを使用している。タテノコの使用は室町中期以後のことであること。③厨子の表戸中心部分にはふくらみがあるが、この手法は桃山期になるとみられなくなる。
一基
不明
法泉寺という寺号は、大内氏29代政弘の法号に由来する。すなわち大内氏30代義興は父政弘(法泉寺殿直翁正大禅定門)の菩提を弔うために自らが建立した凌雲寺(現在跡地は国指定史跡)の東南瀧の地に七堂伽藍の美をつくした臨剤宗法泉寺を建立した。
しかし、天文20年(1551)8月28日、陶氏の山口攻め入り、大内氏滅亡によって寺は焼失し、今は山門付近にあったというシンパク(国指定天然記念物)が周辺の石垣とともに住時をしのばせている。
その後、毛利時代になってからも法泉寺の寺号は伝えられ、元就らとの因縁もあったようである。毛利輝元は山口からこの寺を厚狭郡棯小野龍厳山の南面に移し、地名によって龍厳山法泉寺と改号させた。
その後寺地はかわり、更に現在地の長尾山の東南に移転した。寺の移転後、この寺は禅宗から浄土真宗に改宗し現在に至っている。
さてその法泉寺厨子であるが、文化4年(1807)の記録に法泉寺の抱える「長尾山寿明院」について説明をしている。それによれば「寿明院は大内家代々のご祈祷所で本尊の阿弥陀如来は吉祥安楽の御姿をされて居る。作は伝教大師で息災延命・鎮護国家の仏像で宮殿・須弥壇は飛騨の内匠の作である。古くはご祈願所であるから寺領も余分についていたが今は少ない。同じ宮殿に安置されている観世音菩薩の木像は花山院の作で当寺の昔の本尊である」として寿明院の由来を記している。
この中で考えられることは、法泉寺の厨子が作については問題があるとしても今は廃寺となっている寿明院に存したものであることがわかる。
さらにこの厨子について、現法泉寺に文政4年(1821)に旧記を書き写したとする棟札によれば「棯小野村の長尾山寿明院の観音堂は享祿年中(1528~1532)大内氏によって建てられた。ところが180余年経過すると堂は荒れ、飾りの備具もなくなったものもある。ただ厨子は残っている。そこで宝永6年(1709)河内勘右衛門が山口の大工に厨子を収めた観音堂に修理をさせた」とある。
このような法泉寺厨子はもともと法泉寺にあったのではないが、その製作年代は室町中期のこれであり、大内氏ゆかりということから法泉寺に移されたものである。
(1)構造・形式
入母屋造妻入、背面は切妻、屋根は瓦葺風の木造であるが欠除している。全体は禅宗様式でまとめられている。間数は正面一間.側面二間である。
(2)規模
桁行 二間 76.4cm 梁間 一間 86.1cm 底面積(柱真々) 0.6578㎡ 高さは屋根の一部が欠除しているため測定不能である。
(3)概要
ア 柱 上下に粽をつけた6本の丸柱には、それぞれ意匠材としての礎盤がつけられている。
イ 貫 地貫・腰貫・飛貫と挙鼻を持った頭貫へと順に続く。これらの貫は柱と柱を結びつけるとともに、この厨子の板壁の化粧材としての役割を果たしている。
ウ 台輪 頭貫に沿っておかれているが頭貫鼻の上は花頭窓に似たかたちがえがかれている。
エ 組物 組物は出組構を基本としている。詰組もおかれているところから禅宗様の特色がでている。
オ 軒廻 反り付垂木は二軒で、地垂木、飛檐垂木とも角材を使用している。全体は扇垂木構である。
カ 柱間 前面には向拝風の吹放しの間があるが、この形式のある厨子は非常に珍らしく、厨子だけの国指定のものでも、神奈川県平塚市の光明寺、静岡県袋井市の油山寺の二例しかない。
なお、向拝上部には虹梁を差通しているが、その虹梁は二つの大瓶束によって三つの部分に分けられている。
扇は縦横に組んだ桟で枠を構成する両開きの桟唐戸でこれを藁座で釣ってる。
側面には禅宗様の窓である花頭窓が設けられているが、その形は中央部の突端がややのびあがっている。
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