木造薬師如来坐像
もくぞうやくしにょらいざぞう
下関市
県
有形文化財
平安時代
下関市豊田町神上寺に安置されている。ヒノキ材の一木造りで、像高は85.2cm。右手はまげて手の平を前にし、五指をひろげ、左手は手の平を上にして、左ひざの上におく。その手の薬壷はいま欠失している。顔には張りがあり、口・鼻・くちびるには写実性があり、彫り方はさえている。像底に銘があり、建長7年(1255)の造立、大勧進僧が良建とわかる。鎌倉時代の典型的な地方作として作域もすぐれ、造像銘をもっていることは貴重である。
下関市豊田町の神上寺にあります。
ヒノキを材とした一木造りで、仏像の高さは85cmです。
仏像の底に銘文があり、1255年につくりはじめたことがわかります。
山口県内で二番目に古い造像銘(ぞうぞうめい=仏像制作の銘文)をもつものです。
鎌倉時代の典型的な地方作として、また造像銘をもっていることで貴重です。
木造薬師如来坐像
彫刻
昭和55年12月5日(山口県教育委員会告示 第7号)
下関市豊田町大字江良624番地
宗教法人 神上寺
建長7年(1255)
一躯
全体に小さい虫穴が認められるが、ことに後頭部・両肩部・右肩にかかる衲衣の下端・腹前の衲衣部・像底地付部の背面などは虫害が甚しい。
【品質・構造】
檜材の一木造り。
全身木肌をあらわにしていて、今は眉・瞳・髭髯を墨で描くほかは彩色などのあとをほとんど認めない。白毫は茶色の玉を嵌入(後補)。
頭体部は肩まで含んで竪一材から彫出し、膝奥の小三角材を左右に加える。膝前は横一材から彫出し、丸柄を2ヶ所に入れて体部に矧付けていると思われる。裳先は別材を矧ぐ(後補)。
像底からの内刳りはない。ただし、背部に楕円状(縦47.0㎝)の背板を4ヶ所で釘止めする。打診すると、背板と体部との間に若干の空隙が認められる。
右腕は下膊部と手首で矧付け、左腕は袖部を矧付けて手首から先を袖部に差込む。指先は左右ともすべて矧付ける。両耳朶及び左右の腕の矧付け部から先は掌部をのぞきほとんど後補と考えられる。
また、左右上膊部及び左膝前下などに小材を矧ぐが、いずれも後補である。
全体に小さい虫穴が認められるが、ことに後頭部・両肩部・右肩にかかる衲衣の下端・腹前の衲衣部・像底地付部の背面などは虫害が甚しい。
【形状】
右手施無畏、左手は掌を上にして左膝上に置き、その掌中に薬壺を載せる(薬壺は欠失しているが柄穴が残る)形。足は左足を外にして結跏趺坐する。像容をみると、肉髻部はやや低めで、全体として地髪部となだらかに連続している。切り付けの螺髪の粒は大きく、やや粗い彫出で、後頭部に不整形が目立つ。画貌は、額に白毫相を現わし(水晶を嵌入)、眼は彫眼。耳朶は環。三道を刻む。
両肩は張り、体部の側面観は胸部から腹部へなだらかに厚みを増している。衲衣は左肩を蔽い、右肩に少しかかる。
単位cm
像高85.2 体奥27.2 頂上~顎26.6 臂張50.6 面長16.6 膝張73.1 面幅18.5 膝高14.5 面奥21.1 膝奥52.5
(1)造像銘
「建長七年大歳乙卯十月廿七日庚宣宣時始造 大勸進僧良建」
(2)修理銘
「昭和三十四年十一月十一日修理
神上寺六十八世 観穿代」
「二十三体中 大仏師千代田仁朝 石田嵩治」
膝前の底地付部に以下の造像銘及び修理銘を墨書する。
神上寺(真言宗)は、奈良朝元正天皇のとき、権現に定められた古刹である。そもそも華山の山頂にあって数多の坊を抱えていたが、元亨2年(1322)、今の地に移り、豊浦山神上寺を称するようになったという。室町時代、少なくとも二度の火災に罹り、旧記などを焼失させた。藩政時代には長府毛利藩から寺領200石余を賜った。
この神上寺には、重要文化財「絹本著色仁王経曼荼羅図」1幅(鎌倉後期の作)を初め、県指定有形文化財「絹本極彩色智界曼荼羅・理界曼荼羅」2幅、町指定有形文化財「木造阿弥陀如来立像」1躯(平安後期の作)等々がある。
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