線刻菩薩形坐像懸仏
せんこうぼさつぎょうざぞうかけぼとけ
下関市
県
有形文化財
鎌倉時代
直径18.3㎝の円形の薄い銅板に、火焔をめぐらす二重円光を負い、蓮台に座った菩薩像が細い線で彫られている懸仏。円板の周囲を幅0.3㎝の輪で覆い、上部2カ所に花鐶座を鋲(びょう)で留めて鐶によって吊り下げるようになっている。鐶座のつくりや花形・覆輪は素朴で、時代的特徴をよく表している。裏面の銘文から、1202年(建仁2)に作られたものであることがわかり、山口県内に知られている懸仏としては、最も古いものである。また、豊田氏8代当主・豊田種隆の存在を実証する唯一の史料でもある。
豊田氏は、藤原道長の兄道隆の子孫といい、道隆4代の孫輔長になって豊田氏を称したという言い伝えがある。
直径18㎝の丸い形をした薄い銅の板に、火炎を取り囲む二重の光の輪を背負って蓮台に座った菩薩像が、細い線で刻まれている懸仏です。
円板の周囲を幅 0.3㎝の輪で覆って、上部の2カ所で吊り下げるようになっています。
鎌倉時代の1202年に作られたもので、山口県内に知られている懸仏としては最も古いものです。
また、豊田氏八代目当主・豊田種隆がいたことを証明する貴重な資料です。
線刻菩薩形坐像懸仏
工芸品
昭和55年12月5日(山口県教育委員会告示 第7号)
宗教法人 八鷹八幡宮
建仁2年(1202)
一面
八鷹八幡宮は、旧称を八道八幡宮といい、明治40年、鷹子の地にあった鷹子八幡宮を合祀したものである。さらに遡れば、八道八幡宮はもと上八道・中八道・下八道の3ヶ村にあった各八幡宮を、元禄12年(1699)中八道八幡宮に合祀した。
鷹子八幡宮は、楝札写によれば、貞和4年(1348)の創建にかかる。片や八道の各宮は「寺社由来」(天明8年の書上げ)には、豊前宇佐八幡宮からの勧請と伝えるのみで、創建年代を詳らかにしないが、当該懸仏をもって建仁2年の創建と人口に膾炙している。
さて、豊田氏は、かの藤原道長の兄道隆(953~995)の子孫と伝え、道隆4代の孫輔長に至って豊田氏を称したという。豊田は豊浦郡を3区に分けて設けられた私郡の一つで、現在の豊田町に相当する。豊田氏は赴任国司の土着したものと考えられ、のち時代の趨勢に伴い武士化し、鎌倉期その勢力を強めたが、やがて大内氏の支配の及ぶところとなり、その力を消滅させた。
【構造・形式・法量】
(1)法量(単位㎝)
面径 18.3
面厚 0.1
覆輪の幅 0.3
鐶座の幅 2.6
鐶座の高さ 2.1
像高 12.2
(2)構造・形状・品質
円形の薄い銅板の周囲に覆輪をめぐらし、上部2ヶ所に花鐶座を鋲留めし、鐶によって懸垂する形をとる。
板面には、線刻の浅い毛彫りで、火焔をめぐらす二重円光を負って重弁の蓮台に坐す菩薩像が描かれる。
宝髻を高く結い、その前面中央に化仏らしきものを戴く。冠帯を両耳の上で結び肩先に垂らす。三道をもち、左肩から条帛をかけ、裳をまとう。
左手はわずかに臂を屈し手首を膝上に置いて、裳を仰ぎ五指を伸ばす。右手は臂を屈して胸前で掌を外に開いて五指を立てる。足は右足を外にして結跏趺坐する。
頭の右脇に未開蓮華が1本描かれる。
覆輪は3区からなるが、上部鐶座間の部分が欠失している。鐶座の花形は表のみ描かれ、裏には見られない。
板面は表裏とも緑青が蔽い、随所にその盛りあがりが見られる。また、後年の傷痕もある。
○裏面右
「建仁二年壬戌七月廿三日乙丑」
○同左
「豊田太郎藤原種隆」
【その他参考となる事項】
豊田町西市の西八幡宮(旧は阿座八幡宮)には、建久2年(1191)の在銘をもつ懸仏が伝存する(門外不出の社宝)。この懸仏は、豊田種隆の父種弘が同八幡宮に「息災延命、無病安穏奉平」を祈って寄進したものである。
豊田氏は、平安末から鎌倉初期にかけて、豊田の地に宇佐八幡宮から神霊を勧請して数々の八幡宮を創建して、神祗を篤く崇敬している。
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