武久家文書
たけひさけもんじょ
下関市
県
有形文化財
武久家は、鎌倉時代、長門国府の役人として中心的な位置を占めるとともに、長門守護代、長門守護職にも任じられた。南北朝時代の初めに武久氏を称し、長門の有力武士になったが、室町時代になると次第に武士的性格を失い、長門国一宮・二宮の祭事や国衙内の諸職を司るようになった。その居宅は近世には忌宮神社北側にあった。
「武久家文書」は、武久家に伝えられた鎌倉初期から明治初年までの文書 256点。中核をなすのは中世の文書であり、内乱期の防長領主層の動向を理解するうえで重要視されている。
「紙本着色武久季依像」は、武久氏21代季邦の長男で詩をはじめ多才をふるいながら早世した季依の肖像画。武久家一連の史料として加えられた。
武久家は、鎌倉時代より、長門の国府の役人として国衙(こくが)領を支配し、また長門国の守護職に任命(にんめい)されるなど有力な武士として活躍した家です。「武久家文書」は、鎌倉初期から明治初年までに書かれ、武久家に伝えられた 256点の文書です。中心になるのは中世の文書で、朝廷の役人でもあり、武士でもあった武久家の領主としての動向を知ることができます。
武久家文書
付 紙本著色武久季依像 一幅
古文書
昭和55年12月5日(山口県教育委員会告示 第7号)
下関市長府川端一丁目二番五号(下関市立長府博物館寄託)
写文書としては、文治4年(1188)10月の散位源有経解を最古とするが、原文書としては仁治3年(1242)6月の長門国庁留守所補任状が最も古い。下限を明治初年、武久氏23代季督とする。
由緒書4点は、いずれも不完存ではあるが、江戸中期頃に成立したものと考えられ、また系図は「永富家系」(目録番号84)が17世紀後半の成立で、他はいずれも新しいと思われる。
二五六点
武久氏は藤原氏(閑院・徳大寺家系)の流れをくみ、平安末~鎌倉初期、左大臣徳大寺実能(1095~1157)の庶子公保の子公祐を初代とする。公祐はのち名を時永と改めるとともに、永富姓をも称し、長門介に任ぜられたようである。
以後、永富氏は長門国府に在地して、介、大介を称し、長門国府の在庁を支配してその地歩を築くと同時に、鎌倉幕府とも連なって長門守護代、守護職にも任ぜられた。そして、鎌倉中期、永富季隆は、「永富地頭」を自称する国衙内の有力武士に成長、国内謀反人の追捕を行ったりしている。
中興政治の成立に寄与した永富氏は南北朝時代にになると室町幕府に属して、周防・石見・畿内に転戦して戦功があった。ほぼこの頃、永富忠季は大津庄地頭職を知行しており、その子季幸は暦応元年(1338)豊東郡武久名々主職を安堵され、以後「武久」姓を称することとなった。
こうして南北朝時代にかけての武久氏は長門の有力武士として幕府に従うことになるのである。しかし、室町時代以降の武久氏は次第に武士的性格をひそめ、本来の国衙領諸沙汰にかかわることが多くなってくるようである。諸沙汰というのは国衙内の諸職に関すること、及び長門一・二宮両社を中心とする社寺の祭事に関することである。系図によれば、すでに鎌倉時代から、一・ニ宮御斎神事その他年中の諸神事に責を負うていたことがうかがわれ、長門国の勅使役を仰せ付けられている。
文禄5年(1596)3月7日の毛利輝元宛行状では、神事領として豊東郡のうち146石余、堪忍料として豊西郡のうち127石余を給付されている。
近世以降は勅使役を継承しており、長府毛利藩主から「勅使役堪忍料」を給されている。「近分限帳いろは寄」(下関市立長府博物館蔵)によれば「現米七石」と見える。その屋敷は、忌宮神社の北の道を一つはさんで隣接したところ(現長府図書館の前附近)にあり、地積約500坪を数えていた。
明治3年閏10月27日の沙汰書によれば、士族に列している。
【形状・品質・法量等】
(1)文書(省略) (参照:「山口県指定文化財 古文書目録」昭和60年刊)
(2)紙本著色武久季依像
ア 法量 縦86.2㎝ 横34.0㎝
イ 品質及び形状 紙本着色、軸装
ウ 作者 〇画 不明
〇賛 役藍泉(1750~1806)
エ 製作年代 乙丑(1805=文化2)
オ 賛文
「題 武秀才 写真 用秀才自作詩礎
宛見清揚昔日新
幽明一訣断音塵
誰図堂上論文客
飜作身餘覓賛人
乙丑春 藍泉役観拜」
その他参考となる事項
紙本著色武久季依像の賛者、役藍泉は徳山の教学院の修験者で、本姓は島田氏、徂徠学を学ぶ儒者でもあり、藩校鳳鳴館の儒官を務め、詩に長じていた。
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