兄部家文書
こうべけもんじょ
防府市
県
有形文化財
兄部家は、戦国期から明治初期にかけて防府市宮市で商業を営んだ豪商。1319年(元応1)に周防国合物座(塩魚、干魚類を取り扱う問屋の組合)の長の職に任ぜられ、以来この職を世襲して、塩魚、農産物、度量衡器などを含む合物の売買を指揮した。江戸時代には酒造業も営み、毎年萩城へ吉例酒を納めており、また、1642年(寛永19)には萩往還において大名、幕府役人などが宿泊する本陣に定められている。
「兄部家文書」は、兄部家に関わる文書 68点と、後添えの文書4点(鎌倉時代初め~江戸時代)の計72点の文書。
「酒舗看板」は、兄部家が藩御用の酒造家であったことを示す木製の看板。
兄部家は、防府市で、鎌倉時代から江戸時代にかけて長らく商業を営んだ家です。江戸時代には藩から免許された酒造業も営み、また、1642年には、大名や幕府の役人などが宿泊する本陣に定められました。「兄部家文書」は、兄部家に伝えられた文書で、指定された商家文書としては山口県で最初の指定です。
兄部家文書
付 酒舗看板一枚
古文書
昭和56年3月24日(山口県教育委員会告示 第2号)
七二点
兄部家について
「防長風土注進案」に「中市御本陣壱ケ所 兄部盤右衛門」として本門1棟、本家1棟(五間半梁、桁行5間半、北入半間、長5間半之錣、南入1間長4間葺下ケ)、書院1棟、水除門1棟、酒造蔵1棟(3間梁=桁行13間半、西ノ方ニ半間=2間之錣これあり、中程注文1棟1間梁=桁行3間室場之分)同続酒造蔵1棟(3間梁=桁行5間、南ニ入1間長3間半之錣)、裏門1棟という屋敷構えで、地床畝数2反2畝20歩と記される。さらに同書は、「元和年中より上使御客室と申名ニ而、寛永拾九年よりは御大名様方御本陣ニ仰付られ罷在り候」と記す。
以上、兄部家は藩政時代、三田尻往還(山陽道)に面し本陣として、また御節酒など公私にわたる酒造家として「御両国町人衆に八か様の御馳走申上たる仁ハ御座なくと承り及び候」(目録番号49)とまでいわしめた家柄であった。
時代を溯れば、遅くとも室町時代(文明14年、1482)には相(合)物商人として宮市に商権を握る家柄であった(目録番号3)。「佐波郡あい物役司」(目録番号4)、「兄部役」(目録番号8)、「相物師」(目録番号9)、「防府宮市魚物役」(目録番号13)、「佐波郡魚物座司」(目録番号17)、「佐波郡宮市三田尻酒場役」(目録番号44)等々の役に任ぜられ、戦国~近世初頭、大内氏、毛利氏の庇護を得て家運を盛んにならしめた。例えば、「佐波郡魚物座司、前々の如く仰付らるる御奉書数通披見せしめ候、尤然るべく候、向後ともいよいよ馳走を遂げらるべく事肝要に候」との一文(目録番号17)に、そのことは証左される。
なお、兄部の氏姓の由来は、そもそも「兄部」はコノカミベと訓み、音便によってコノコウベと称し、武家供奉の頭役を勤める職名であるが、これが略されてコウベといわれるようになり、合物売買の長職にもこの名が使われて、のち氏姓に転化したものである。
兄部氏は初見は、目録番号15の宛名書に見える「河辺善左衛門尉」(天正15年、1587)である。
【形状・法量・内容等】
(目録省略、参照:「山口県指定文化財 古文書目録」昭和60年刊)
本文書群は、大別して兄部家伝来の文書と同家後添の文書に分けられる。
(1)兄部家伝来の文書
イ 箱書に「御判物 兄部家彌權太夫」と記される1巻物 49通。 法量(省略) 享保元年(1716) 兄部与右衛門(恭輔)の改装になったものであるが、初めの表装の際、文書の由来をただした覚書(黄紙)が添えられたものがあり、原文書の年号に異年も見られ、これもこの折の手と考えられよう。
ロ 見返しに朱筆で「此巻ハ享保年中ノ装飾也ト云」と記される1巻物、3通。奥端裏書に「天保十三丑ノ年迄弐百拾九年」と墨書がある。法量縦35.0㎝横254.2㎝(目録番号45~47)
ハ 「御打渡并御地所諸役御除御証拠物三通」と題書された1巻物、2通。各通とも裏書があり、かつまた奥端裏書に「享保十五年より元文三年迄の間悪年ニ付米高直ニ而御節酒□造止ニヒ仰付候御沙汰物」と墨書がある。 法量(省略)
ニ 江戸初期、萩藩当役等の書状(折紙)を1つに綴じまとめたもの。(目録番号63~68)
ホ 「享保元丙申年、兄部與右衛門宗和 御證拠物控全」と表題され、奥書に「右御證文之写由緒等先祖より代々□趣□此□申□(候)以上 享保元丙申歳二月吉日 兄部與右衛門」と記され、(イ)に収められる文書のうち32通が書写され、ほぼ1通毎に覚書が添書される。(目録番号54)
ヘ 周防國商人長職御證拠物一巻 輝元公秀就公御判物一巻 但シ箱ニ相恭分 兄部」と表題され、見返しに「此ニ巻本書子孫ニ至度々致披見候時は巻物損し候ニ付文面并かな遣等相改候此巻物江相添箱ニ入置候事 天保十三壬寅ノ二月 兄部盤右衛門佳近代」、奥書に「〆本書四拾七通内御判物三通 外ニ右書拾四通/右之外御證拠物之儀は内之本ニ委敷相調置候事 同日」と記され、(ホ)を補足した冊子。(目録番号58)
ト 天保十三壬寅ノ二月吉日 周防國商人長職御證文一巻 輝元公秀就公御判物一巻 御地料諸役御免御裏書一巻 御吉例酒御用酒御證據物一巻 御本陣并勤功之御證據物一巻 但御證據物都不残写之 兄部盤右衛門佳近 一根之分 外ニ此内より廉立分板書ニ〆相調候分二三有之」と表題、見返しに「天保十五辰年鈴木泉先生親子蒙り御内用防府中古筆写取都合人大野九良右衛門様ヱ被差出候事」、奥書に「惣〆御証據物高五拾六通 内御証據物四十五通壱巻 御判物三通壱巻御地料諸役御免御証據物壱巻 但此分ニ付御相渡壱通相添 御本陣并勤功之御証據物六通壱巻 外ニ酒屋株御□書弐通壱巻 〆廉立巻物都合五巻有之事、外ニ色々御返翰其外巻物数有之事」と各々記され、さらに(ヘ)を補完した冊子。
チ 「洞春寺様御三百回忌御法會ニ付 御由緒申出書 宮市町々人 兄部弥権右ヱ門」と表題され、奥書に「右之通ニ御座候間此度之義も先例之如ク御焼香被仰付度奉願上候此段冝被成御沙汰可ヒ遣候以上 慶應四辰八月 宮市町々人 兄部弥権右ヱ門 渡邊小源太殿」と記される冊子。
リ 「累代遺語抜萃 全」と表紙に題箋貼布され、見返し表紙に「累代遺語抜萃 恭輔編輯」と記される。「此遺語ハ従来藩主ヱ上申シタル御由緒書並願書類等往々時ノ忌憚ヲ避ケ事実ヲ隠蔽スルト、又各自ノ筆記重複シテ諸者之レヲ厭ヒ且惑ヲ生センコトヲ恐ルルトニ由リ更ニ甲乙ノ記ヲ参考シ前書ニ遺漏スルモノノミヲ抜萃ス其一事蹟ニ係ルモノハ皆其所ニ類集シ以テ子孫ヲシテ一覧ニ便ナラシムルモノナリ」と緒言があり縦罫紙10行、48丁の兄部家由緒書といえるもので、明治10年頃に編輯された冊子。
ヌ 「系譜 恭輔編輯」と見返し表紙に記され、縦罫紙10行、37丁の始祖を豊城入彦とするという兄部家の家系をまとめ、最末に普提山(国分寺)や西念寺の兄部家累代の墓地を図示した冊子。
ル 前半部を欠失する「和漢朗詠集上」1巻。奥書に「右一巻自七夕至佛名葵花苑頓何(阿)法師之所筆而和漢朗詠集闕本也惜其首末亡而不全矣今依人之求染腐毫以為證左 天和壬戌夷則上旬 畠山牛菴 義真(印)とある。木版本。 頓阿法師(1289-1372)は、南北朝時代の歌人で慶運、兼好、浄弁とともに和歌四天王と呼ばれた人物である。
(2)兄部家後添の文書
この4通は直接的に兄部家と係わりが認められ難い文書であり、故意に抹消した部分が多々見られる。
(3)酒舗看板
表裏に各々「御用銘酒 瀧水」と陰刻され、片や隷書体、片や行書体で表現される。木製。 法量 縦125.7㎝ 横38.4㎝ 厚さ2.8㎝(最大)
その他参考となる事項
本文書はすでに「防長風土注進案」三田尻宰判古文書38に「防府宮市町兄部氏古文書」として50通が記載されており、近くは防府史料第18集「防府と兄部家」(昭和46年防府市教育委員会発行)に65通が紹介されている。
また、兄部氏については、「防府市史・上巻」(昭和31年防府市教育委員会発行)に「宮市の合物座と兄部氏」と前掲防府史料に論述がある。
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