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文化財の概要

文化財名称

日置八幡宮文書

文化財名称(よみがな)

へきはちまんぐうもんじょ

市町

長門市

指定


区分

有形文化財

一般向け説明

 日置八幡宮は現在の長門市宮馬場に鎮座する北浦屈指の古社。藤原北家の流れをくむ三条家の荘園であった日置庄の鎮座社であり、その建立は鎌倉時代以前と考えられている。「日置八幡宮文書」は、鎌倉時代から明治初年までの文書類で、1253 年(建長5)の「日置庄官等連署補任状」が最も古い。これらの文書により、八幡宮の変遷と中世における北浦地域の荘園の歴史を知る上で貴重な資料。
  「棟札」は、1395年(応永2)以降室町、戦国時代のものが四枚残されている。棟札は、棟上げのとき工事の由緒、建築の年月、建築者の名など記して棟木に打ち付ける札。
  「紙本着色八幡縁起絵巻」は、1433年(永享5)に製作されたもの。社寺の縁起を絵巻きに描いた縁起絵巻の中では、山口県下最古のものといわれている。

小学生向け説明

  「日置八幡宮文書」は、鎌倉時代から明治初年までに作成された6巻54点の文書です。「棟札」は、室町時代の1395年以降の4枚が残されています。「紙本着色八幡縁起絵巻」は、1433年(永享5)につくられたもので、縁起絵巻の中では山口県内でもっとも古いものといわれています。

文化財要録

要録名称

日置八幡宮文書 
 付 棟札 
紙本着色八幡縁起絵巻 
日置八幡宮文書 
 付 棟札 
紙本着色八幡縁起絵巻 

指定区分・種類

古文書

指定年月日

昭和57年4月16日(山口県教育委員会告示 第1号)

所在地

長門市日置上5212番地

所有者

宗教法人 日置八幡宮

制作等の年代又は時代

(1)日置八幡宮文書 鎌倉時代~江戸時代中期
(2)棟札 応永2年(1395)、永正6年(1509)、永正10年(1513)、天正9年(1581)
(3)八幡縁起絵巻 永享5年(1433)
 文書は明和3年(1766)に一度整理されたのち、明治初年に今日に見る巻子装にされた。
 系図は一つが江戸中期の成立(24代房実まで)。二つが明治中期の成立(27代弥一まで)。
 縁起絵巻は、寛政8年(1796)の修理。

員数

六巻、五四点
 付 四枚
   二巻

由来及び沿革

(1)社領の移遷
年代/社領の概要/依拠史料
弘安3(1280)/大神田1町小神田1町2段/30
永禄2(1559)/2石6斗/38
永禄5(1562)/(免田) 1丁3反余(3石1斗)/21
天正16(1588)/修理田8段300歩(2石6斗3升)/40
 〃      /祭田1町3段30歩(4石1斗4升)/40
 〃      /畠3段半10歩(銭180文) /40
天正18(1590)/6石8斗余 /42
寛永2(1625)/2反7畝26歩余(4石余)/47
正保4(1647)/田4反2畝(3石)/46
(2)日置庄について
 日置庄は、深川庄とともに久しく藤原北家閑院流三条家の荘園であり、この領家の存在は戦国期まで確認されるが、その間南北朝前後には石見津和野の領主、吉見氏が給主として、次いでまた麻生氏が給人として本庄に地歩をもつこともあって、庄内の押領が頻々として続いている。なお、吉見氏は寛永12(1635)年の日置八幡宮社殿再建に対し、献銀を行った事実がある。かくして、大宮司高山氏は本庄の維持保全に大内氏や毛利氏の力を仰いでいるのであるが、各々の関係は詳らかでない。
 日置八幡宮々司高山家党首一覧
代/当主名/通称等/卒年月日/関係文書番号
1/兼(包)房/藤四郎/建長6・2・16/1
2/包宗/弥四郎/建治元・10・18/-
3/重房/藤四郎、備前守/元応2・2・25/3、7、30
4/朝(友)/掃部丞/暦応4・6・3/4、5、7
5/恒貞/源太夫/応永2・5・18/-
6/承貞/縫殿丞/応永25・7・3/2
7/範貞/宮福、縫殿丞/応永31・4・16/-
8/重種/-/-/-
9/貞恒/監物、蔵人/享徳3・4・10/-
10/道藤/藤四郎/明応9・正・18/6、8、9、10、44
11/道種/弥四郎、縫殿允/大永4.7.12/11、12、16、18、19
12/春種/市若、宮鶴丸、藤四郎/享禄4・9・15/14、15、16
13/重次/善四郎、備前守、縫殿允/永禄10・10・8/17、34、35、37、39、45
14/春保/善四郎、縫殿、藤四郎/天正17・6・2/17、20、25、38
15/道保/縫殿允、兵部丞/元和4・3・18/21、22、23、40、41、42、50
16/道恒/長左衛門、和泉守/寛文2・8・27/43、46、47
17/春房/市之允、縫殿丞/享保6・11・28/48、49
18/義房/宮福、伊織/元文元・9・7/28、49
19/友房/弥四郎、備前守、掃部助/享保20・5・22/29
20/貞房/権九郎、伊織/元文元・12・28/-
21/恒房/松千代、縫殿丞/-/-
22/正房/弥四郎、和泉/寛延元・12・18/-
23/恒房/縫殿/寛政2・8・28/-
24/房実/和泉,石見/安永2・3・5/-
25/房直/大和守/天保3・8・26/-
26/茂徳/若狭介/慶応元・8・8/-
27/茂邦/直平、茂直、茂嶽/明治16・3・28
(系図より作成)

 なお、八幡宮の別当として神宮寺が南北朝時代まであったことがわかるが、応安7年(1374)、同時には造営料として1段、位牌料として2町30歩、屋敷2ヶ所があった。
(3)文書の状況について
 巻1~3所収文書の編綴保存の経緯についてみると、現在の巻子に仕立てられたのは幕末~明治5年頃と考えられるが、それまでの経緯はおよそ次のとおりである。
 寛保元年(1741)「寺社由来」差出時、文書は毛利氏関係のものを先に掲げながら任意に写しており、この時点では文書は巻子化されていない。明和3年(1766)に文書改めを行っているが、この際、前の「寺社由来」、後の「風土注進案」所載文書が脱けていることから考えて、この時、一部の文書については巻子化された可能性がある。
 天保年間、風土注進案作成の段階ではすでに巻子化されていたと思われる。すなわち、現状の巻子所載文書の配列が注進案のそれと相当部分一致しているからである。明和3年の改めから天保期にかけて、巻子仕立てが相当箇所剥離分離し、その部分が異動して現在の巻子に仕立てられたものであろう。

品質及び形状

【形状・品質・法量等】
(1)日置八幡宮文書(省略)
(2)棟札
 年代    法量(タテ×ヨコ)  厚    材
応永2年    86.5×10㎝    1.1㎝  杉
永正6年   121.8×9.7    1.5   (檜)
永正10年  137.8×8.5    1.8   (檜)
天正9年   115.7×7.1    0.8   (檜)
(3)紙本着色八幡縁起絵巻
 ・形状・品質 紙本着色、巻子装
 ・法量    上巻26.5×1163㎝(29紙)
         下巻25.8×1269㎝(35紙)

銘文

銘文等
〇棟札墨書銘
   (省略)
〇紙本着色八幡縁起絵巻
 ア、下巻奥書(墨書)
   「于時永享五年ショウ丑五月十五末代之為
   長寳仍如此書寫仕 日置荘八幡宮
   納是殊神之威光増者也 願主種盛敬白」
 イ、下巻奥修理銘(墨書)
   「寛政八年丙辰十二月吉旦縣令白井
    吉兵衛知胤脩飾焉而以奉納者也」

参考情報





地図

画像

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