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文化財の概要コンテンツ

文化財名称おおむらますじろうはか
大村益次郎墓
指定国指定
市町山口市区分記念物時代明治時代
一般向け
説明
  大村益次郎は、1825年(文政8)吉敷郡鋳銭司村(現山口市鋳銭司)の医家に生まれた。蘭学・医学を学び、兵学をもって萩藩に仕えた。幕府との四境戦争(1866年(慶応2))に際しては、防長四境に迫る幕府軍に対して優れた戦術をもって破り討幕の機を早めた。戊辰の役にも参謀として活躍。明治維新後は軍政最高の地位にあって国政を改革し、日本の軍政の近代化に尽力した。しかし、それがため旧思想の武士たちの反感を招き、1869年(明治2)9月、襲撃を受けて重傷を負い、11月大阪の病院で死亡した。遺骸は船で郷里に運ばれ、自宅近くの今の地に埋葬された。
 山口市鋳銭司にある墓は花崗岩で作られ、正面に「故兵部大輔贈従三位大村永敏墓」とあり、側面には没年月などが刻まれている。並んで妻琴子の墓がある。墓の後方に1878年(明治11)に建立された神道碑があり、その南の長沢池畔に大村神社が建てられている。
小学生向け
説明
  大村益次郎は、1824年(文政7)、吉敷郡鋳銭司村(現山口市鋳銭司)の医者の家に生まれました。医学やオランダの学問を学び、のちに萩藩の軍の指揮官として活躍しました。
 明治になってからは日本の軍隊を新しくするために力を尽くしましたが、反感をもった旧武士に襲われ、1869年(明治2)に亡くなりました。益次郎の墓は、妻の墓とともに山口市鋳銭司にあります。
画像<大村益次郎墓>縮小画像(オリジナル画像表示リンク)

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