一般向け 説明 | 江戸時代の記録によると、大内氏の重臣で長門守護代としても活躍した内藤氏の家督を継いだ内藤隆春(ないとうたかはる、1528~1600)が、荒滝山城を居城としていたとある。発掘調査の結果からも十六世紀中頃から後半にかけて利用されていたことがわかった。 荒滝山城跡は、標高459m、比高約400mの荒滝山に造られた中世の山城跡である。遺構は東西約700m、南北約200mの山稜や山腹に広がる。山頂の主郭を中心に、東側尾根の出丸、西側尾根の西郭の3つの曲輪群によって構成される。県内で最大級の規模をもつ。山頂からは、瀬戸内海と吉部盆地、美東地域、秋芳地域など広範囲にわたって交通・通信上の重要経路を展望でき、防衛戦略上の好位置に所在している。 3つの曲輪は、急峻な自然地形を利用し、山頂や尾根筋を削って平坦地を造り出すことにより形成されている。各曲輪群は2重・3重の「堀切り(ほりきり)」によって分断され、虎口(こぐち。出入り口)や塁線の仕切りなど要所には石積みが多用されている。各曲輪群の北側斜面には、敵の侵入を防ぐため、竪堀(たてぼり)を連続して掘り込んだ「畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)」が配されている。 北側の山麓には平時の居館があったとされ、荒滝山城は戦時・非常時における「詰め城」(要害)としての機能を果たしたものと考えられる。 戦国・織豊期における長門地域の山城を代表するもので県内最大級の規模をもち、地域の歴史を考える上でもきわめて貴重な史跡といえる。 |