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文化財要録コンテンツ

名称関連文化財名称常徳寺庭園
要録名称常徳寺庭園
指定関連指定区分・種類名勝
指定年月日平成12年12月27日
所在地関連所在地

阿武郡阿東町大字蔵目喜字町一四九七番

阿武郡阿東町大字蔵目喜字町一四九八番

阿武郡阿東町大字蔵目喜字権房七五四番ノ第一のうち実測四六五・七九平方メートル

阿武郡阿東町大字蔵目喜字権房一五八〇番のうち実測四二五・一五平方メートル

阿武郡阿東町大字蔵目喜字寺上七五三番のうち実測三七七・三九平方メートル

所有者関連所有者

文化財詳細
由来及び沿革

(1)蔵目喜の位置と歴史

 常徳寺が所在する蔵目喜地区は、大将山・木和田山・大原谷山などの標高400m以上の山に囲まれた狭隘な山間に位置し、その谷底を東から西方向に町川が貫いて銅集落付近で蔵目喜川に合流している。現在、この地区の中央を県道萩-篠生線が走るが、江戸時代には石州津和野(現 島根県鹿足郡津和野町)及び山代亀尾川(現 岩国市美和町)に至る往還が通っていた。

 『防長地下上申』(寛延4年(1751)書上)によると、蔵目喜は、江戸時代初期までその南東側に隣接する生雲郷の枝郷で鉛山村・銅村・大山村に分かれていたが、その後三村をまとめて蔵目喜村と称するようになった。また、『防長風土注進案』には、「今の蔵目喜町と申は鉛山村にて繁昌の節付近の村々より鉛山へぞめきに行と申候て若者とも集来り候所、いつとなく村名に呼来り、只今にては一郷の名と相成申候」とあり、蔵目喜が旧鉛山村の中心地として栄えたことを示している。

 鉱山としての蔵目喜の歴史について、これを裏付ける直接的な資料は、知られていないが、『防長地下上申』には、須ノ原に鎮座する厳島大明神社の縁起から大同年間(806~809)に溯ることが記載されている。また、平成3年度に阿東町教育委員会が実施した「蔵目喜銅山跡分布調査」において、町の集落内で鉱滓や輸入磁器(16世紀代の明の白磁)片とともに古代の緑釉陶器片が採取され、その開発の古さを窺知することができる。

 この鉱山の産出状況を示す資料に『三井蔵田検地帳』(慶長15年(1610)書状)があり、蔵目喜山鉛代銀として3,241石8斗9升があげられ、長昇(現 美祢郡美東町、銅代銀10,608石9斗9升)や根笠(現 久我郡美川町、錫代銀3,566石5斗4升)などとともに、当時の防長両国における代表的鉱山であったことがわかる。

 江戸時代中期以降の蔵目喜は、銅山経営が芳しくなく、『延享三寅巡見使郡方記録一』(延享3年(1746)書上)によれば、元文5年(1740)から延享4年(1747)まで休山状態であったとみられる。

 しかし、宝暦年間(1751~1763)頃から蔵目喜では、再び活発に採掘が行われるようになり、しばらく盛況が続いたと推定されるが、その後、『防長風土注進案』に「町近辺山子稼方のもの銅白目鉛拾ひ吹仕候処、少々上り申候」「鉛銅白目拾ヒ吹之分凡五百斤程 此代銀凡五貫目位」とあるほど衰退して幕末に至った。

 現在、常徳寺を含む町集落一帯には、川井山鉱山跡をはじめ鉱山関連施設や間歩・鉱滓捨場、石垣を伴う屋敷跡などが密集し、盛況をきわめた往時の様相を伝えている。

(2)常徳寺の沿革

 出銅山常徳寺は、蔵目喜の東域、現在の町集落の最奥部にある浄土宗鎮西派の寺院である。『防長寺社由来』(寛保元年(1741)書上)には、「当寺往古天正年中より浄土宗常徳寺と申候、開基建立年号旧記無御座相知不申候、開山諫譽上人岸水和尚」とあり、『防長風土注進案』には、「本堂桁行六間梁行五間半、庫裏五間半ニ四間屋根萱葺 門八尺ニ六尺五寸瓦葺 當寺家以黄ハ東譽岸水和尚天正年中草創之由、縁起棟札古証文鐘銘等無御座」とあり、常徳寺の当時の建物規模や開創時期などに関する記載がある。

 現在、本堂の東側には、板碑(流紋岩質凝灰岩で作られ、梵字と蓮座、慶長十四年(1609)、五月十六日、南無阿弥陀仏の刻銘がある。)、山腹に営まれた墓地に慶長元年(1596)の「開祖源蓮社諫譽上人岸水和尚」銘の無縫塔が遺存する。また、庫裡の北側には、鎌倉時代末~南北朝時代頃の製作と推定される安山岩製の宝塔があり、本堂前の墓地には、中世から江戸時代のものとみられる古墓・石塔群が現存する。これらのことから、天正年間以前にも同地に寺院が所在した可能性が考慮される。

 その後、明治3年(1870)7月に出火して堂宇が焼失し、翌4年に再建され、現在に至っている。度重なる災禍により、寺史をひもとく文書資料類の殆どが失われているが、銅山関係者(山年寄)の渡邊茂右衛門が享保21年(1736)に寄進した手水鉢、寛政11年(1799)に冶工郡司七兵衛藤原信尚が製作した梵鐘が残る。 

 現在の常徳寺は、平成2年より浄土宗願行寺(萩市大字福井下)住職が兼務し、また、地元檀家により本堂や庫裏、境内が管理されている。

(3)庭園の作庭時期と変遷

 池泉の護岸石組や中島の拡張、遣水内部の石組の遺存状況などから、庭園は、作庭後に大きく2回改修されていることが明らかである。最初の改修は、輸入磁器(中国福建省ショウ州窯の青花碗)などの出土遺物からも17世紀初頭と推定でき、従って、作庭は、これを溯る時期となる。発掘調査では、その時期を確証する資料は得られなかったが、庭園の様式手法や境内に散在する古墓・石塔群の年代などを考慮すると、室町時代後期の作庭と推定される。

 2回目の改修については、陶磁器類などの出土遺物より18世紀後半から19世紀初頭までの時期が考えられる。中島及びその周辺に設定した試堀坑の土層断面を観察すると、庭園の北側斜面が崩落して池泉の一部が埋没したことが明らかであり、これが改修の一要因であったと推定される。その復旧の過程で排土を利用する方策が採られ、中島の東側に盛土を行いつつ後方に拡張し、同時に対峙する岩盤裾部にも盛土して張り出す形に仕上げられたと考えられる。

 また、中島の南西端の石材は、当初、立て据えられていたものが前方に倒され、亀頭石のように置かれた状態になっている。



構造及び形式

1)概要

 庭園は、常徳寺の境内の東側に位置し、裏山斜面とその南方を流れる町川との間をひらいて築造された池泉観賞式庭園である。池泉の広さは、東西約22m、南北約13mで、そのほぼ中央に中島が築かれているが、泉水は涸れた現状にある。

 『防長風土注進案』(19世紀半ば成立)には、「雪舟之築庭常徳寺境内にあり 但年月不詳、方今は破壊して築石池のかたちわつかに残り候、此庭の画図当寺に伝来仕候処、故ありて萩山田何某様へ譲与有之由に御座候事 御代官所考云、当寺開基は天正年中と前に相見候処雪舟と時代たかへり、かゝる事甚だ多し、取捨すへき事なり」とあり、当時、雪舟作庭の伝承があったことと、荒廃した庭園の様相が記載されている。

 平成2~3年度に山口県教育委員会が実施した「山口県庭園調査」の成果をふまえ、平成8~10年度に国庫及び県費補助事業として阿東町教育委員会が発掘調査を実施し、池泉を主体に取水路となる遣水や排水路など埋没部分の遺構を検出するとともに、作庭後に大きく2回にわたり改修を受けていることが判明し、庭園全体の規模や様式なども確認された。

(2)庭園の構成と様式手法

 発掘調査において、本堂東隣の平坦地(広さは、東西約8m、南北約11m)で礎石の痕跡がみとめられ、書院などの建物が所在した可能性がある。その規模などの詳細は、確認できなかったが、位置関係からみて、庭園は、この建物から座って観賞したと想像される。正面に露出する高さ約7mの巨岩(砂岩)を遠山石に見立て、その南裾部を巧みに加工して力強い渓谷風の滝石組に仕上げている。

 池泉は、境内の南東方向にある石灰洞(通称蝙蝠穴)からの湧出水を導いて遣水に通し、滝口から流入させて池尻より排出させる構造である。なお、池底のレベル(標高)は、滝口部が池尻部より約40cm高く、中島の南側より北側が約20cm高くなっており、この勾配からみて、滝口から入った水は、主に池泉の南寄りを流れて池尻に至ったと考えられる。また、池尻部の水深は、周辺の護岸石組の高さから推計して最大50cm程度であったと考えられる。この部分の池底に設定した試堀坑の断面観察の結果、帯水があったことを示唆する粘質土の堆積層が、厚さ約2~5cm確認された。

 遣水は、全長約23m。滝石組から東奉公に約12mの位置まで比較的丁寧に構築された護岸石組がみられ、さらに、粘土の土手でしつらえられた溝が取水口へと延びている。

 池泉の周縁部は、やや扁平な角礫(石灰岩・ヒン岩など)を多用して高さ約50~90cm積み上げ、要所には、縦長の大石を据えて護岸石組の補強を図るとともに、単調気味な護岸線にアクセントをつけている。

 中島は、山形石など外形の優れた石材を選んで蓬莱山風に組まれ、特に西側の汀線寄りにみられる板石を横に使う技法は、室町時代に多くみられる。中島の規模は、作庭当初東西約8m、南北約7mであったが、後世の改修で東方向に拡張され、最終的に東西約15mと長大化して行ったことが判明した。

 排水路は、護岸の石組と溝底の敷石が整然と構築され、町川へと続いていたと考えられるが、現在はその西半分が墓域に含まれ埋没した状況にある。

 なお、庭園の石材には、砂岩・石灰岩・ヒン岩・流紋岩質凝灰岩・流紋岩などが使用されているが、いずれも金隣地に分布するものを搬入したとみられる。

 池泉と町川との間には、作庭時の排土や後世の池底浚渫に伴う盛土部分があり、その南西側で礎石が検出された。これは、『防長風土注進案』に「堂一間半四面、向拝入四尺横一間尺茅葺」とある薬師堂の遺構と考えられる。




地図



画像
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