名称関連 | 文化財名称 | 紙本淡彩牧牛図 雪舟筆 (牧童) |
要録名称 | 紙本淡彩牧牛図 雪舟筆(李唐) | |
指定関連 | 指定区分・種類 | 絵画 |
指定年月日 | 昭和18年6月9日(文部省告示 第642号)国宝(旧) 昭和25年8月29日 文化財保護法施行により重要文化財 絵第228号 | |
所在地関連 | 所在地 | 山口県立美術館 |
所有者関連 | 所有者 | 山口県(昭和56年5月18日所有者変更) |
斗方の小幅の中に団扇形の画面を区切って画いた雪舟の彷古的な聯作は、浅野家に四幅あるのが有名になっていて、本誌も先に紹介したことがある。その他に一二同類のものが世に伝はっているが今その所在を知らない。浅野家所蔵の中の一幅に添うた書付に狩野常信が「雪舟添書十二枚之内也」と記しているので、この聯作はもとは十二図あったことがわかる。何れも団扇形の内側に雪舟と款署し、団扇外の一隅に夏珪とか李塘と夫々師彷した画家の名を記している。十二図の大部分は、真蹟はなくとも狩野家の模本によって概略は知ることができる。それによると、浅野家蔵幅の夏珪、李唐の外、梁楷、牧溪、玉澗など雪舟の時代に中国の画家として最も高く評価されていた数人の画家の画体を彷ったものである。
李唐、夏珪、梁楷らは何れも南宋画院の画家であり、南宋の院人の作と言はれる画には団扇また斗方の小品は珍しくないことである。しかし牧溪や玉澗のような画像の作に院人のような団扇画があったか、厳密に真蹟とは限らず、雪舟の時代に雪舟が両人の作と認め得たものの中にあったか、疑問である。むしろ雪舟の意匠として、院人の団扇画と同じ形式の中に収めることを試みたと見える。著しく性格の異った数人の画家の画体を、特殊な画面形式の団扇形に一まとめに画いたこの聯作は、何か特別の製作目的によってできたと考えられるのであって、これを流書とした常信の言葉は否定し難いものがある。流書の必要があった時代だからである。
李唐の牛図には閑かな野趣が写され、夏珪の山水には細い擦殻の写実的な描写が示され、各幅夫々に画家の特色が伝えられてゐる中に、通じて何より顕著に雪舟自身が表れている。数種の画体がかように雪舟の特徴的な筆法に乗って画き出されるのは、それらが全く雪舟独自の作風の中に熔融されていなければできないことである。梁楷に倣った人物画の黄初平の像は、姿勢も衣文も、室町時代以後に反覆して現れるもので、恐らく雪舟がより所とした原画に極めて近いものと思われる。他の図にも程度の差はあれ、同様のことがあるかも知れないが、それは作品全体が必ず模倣的であることを意味しない。この画の製作目的が何であったにせよ、雪舟の製作意識は創作的で、師倣した画家の名は団扇形の外に、雪舟の落款はその内側に入れたのも創作的意識の表れと言えよう。倣古と標榜してゐないが実質的に倣古作としてよい。この聯作の中、師倣する画家一人につき一幅または二幅であるのに夏珪だけは四季の山水四幅となっており、かつその真冬の二図は雪舟の夏冬山水図と密接な親縁関係が認められるから、夏珪に対しては雪舟は特に深く傾倒してゐたと考えられる。
呆夫良心が雪舟のために書いた天開図画楼記の中に、人物では呉道玄、梁楷、山水には馬遠、夏珪、花鳥では易元吉、銭選と中国の第一流の画家の名を列べて、雪舟がそれらの画体を悉くよくしたことを歎賞してゐる。それを全部文字通りに信じられないとしても、雪舟が広く種々の画体を画き得たことはこの聯作で実証されるわけである。ここに現れた画家の外に、高彦敬の筆意に彷った画巻もあることは周知の通で、かように多くの画体を体得していると言うことは、雪舟の時代は全く驚歎に値することであった。
常信が流書と言うのは流儀の画体を標本的に示すものゝ意味であろう。日本に夏珪流派や牧溪流派があったわけではないが、室町時代の画家は夏珪や牧溪のやうな、当時代表的な画家の作と考へられた舶来画を流派の派祖に対する如く、営々と師倣した。夏珪様とか牧溪様で画くことを要求されることもあった。優れた画家であるためには、それらの著名画家の画体を幾通りか画けることは必要な条件であったかに見える。中国では明清の間に倣古作が盛である。倣古作は構図だけを古人の作に借りて筆法は自由に自己の筆法によるものと考へられがちだけれども、必ずしもそうではなく如何なる点を古人に倣ったのか容易に悟り難いものがあり、また細部の描写手法も古人の法に従ったものもある。何れにしても、自己の作風を作り上げるための研究的習作以上のもので、すでに自家の作風を成した人がる種の美を画くために特定の画家の画法を借りた場合が多い。その製作意識は創作的な色合が強いのである。自尊心の高い文人画家が得々と某々の筆意に倣うと題識に書くのもそれ故のことである。室町時代の画家が夏珪様とか牧溪様その他で画く場合はそれとはよほど違ったものである。雪舟、雪村を除いて倣古作と言へるものがどれだけあろうか。大部分の画家にとって、名高い中国画は絶対に模範たるべきもので、模範は乗り越えられるべきものとは考えられず、むしろ遵奉すべき依拠すべきものとする傾向が強い。画家は力作を作ろうとする時、却って努めて中国画を模倣し、鑑賞の側からもそれが要求されたと思われる。夏珪様を画く時には二三の特定の夏珪画をとって、その構図の殆ど全部を模倣し小部分を改変するか、または増減する。かなり創意を加える場合でも一局部の構成をそのままに二三の部分を組み合せて一図を作り上げるのが普通である。画家のつながりと画風の伝承発展による流派でなく、遊離した作品が模範的定型として設定され、図様的に外形的に模倣されることから一種の流儀ができる。そうした時代の中にゐて雪舟のこの傑作があるのは、時流を高く抜き出た雪舟の偉さを示してゐる。
中国の倣古作は古くから始まったことではない。元代に南宋画が確立され、元の四大家と彼らの新作風の淵源となった北宋の南宋画派に数えられる諸大家が、明の文人の南宋画家にとって古典となり始めた時から行われるようになったものである。杜瓊あたりが倣古作を画いた早い例で、沈周以後は盛に行われる。雪舟が入明した時は、あたかも倣古作が盛になり始める時期に当っている。雪舟は文人の南宋画家とは疎遠であったが、彼の交渉のあった全滉は画をかく人であり、一方雪舟は高房山に倣った作もあってこの方面に全く注意しなかったのではないから、彼の倣古的製作について、右のような明朝の風潮から受ける影響と言うことも考慮に値するであろう。
「李塘牧牛図」島田修二郎(「國華」第700号、昭和25年7月発行)より
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