本州の最西端にあり、南は関門海峡を隔てて九州とは指呼の間にあり、西は対馬海峡をはさんで朝鮮半島に対している。
市域は山陽・山陰に広がり、中心部は山がちで起伏に富んでいる。古くから交通上の要地で人や物や文化が激しく往来した地である。
響灘(なだ)に浮かぶ蓋井(ふたおい)島に残る亥(い)の子歌は他に例をみないような独得の歌詞をもっている。盆踊りもいろいろあり、それぞれ独得のニュアンスをもっていたが、近年になって平家踊りという名のもとに観光にむけて画一化されてしまった。
明治三十二年に政府から民謡や盆踊りの禁止令がだされたが、その中に下関が含まれていたことが、山口県の民謡をすたれさせた原因ともなっている。
(財前 記)
県の西部に位置し、周辺を豊田町、美祢市、下関市、豊浦町に囲まれている。中央部に菊川平野が展開し、平野部の開発は早く、弥生前期の住居跡や貯蔵穴、墓瀇がみつかっている。
この町には、四節踊があり、この踊は大干魃の時に竜王様にお願いをするもので、古文献の発見により、室町時代の終り頃から行われていたことが判った。歌詞は名文で、節は今様風である。
昭和三十年代には、田植歌や臼挽歌が残っており、田植歌を歌わぬと凶作になるといって、この歌は田植以外には絶対に歌わなかった。このほか、糸引歌や、婚礼披露(ひろう)宴の祝い歌があったが、今では全く採集できない。
(伊藤 記)
豊浦郡の北東部に位置し、周辺を長門市・美祢市、菊川・豊浦・豊北・油谷の各町に囲まれている。長門市の俵山に源を発した木屋川が菊川町を経て、町の東南側を北東から南西に流れる。流域に木屋川ダムと豊田平野を形成する。華山、狗留孫(くるそん)山は古くから霊場としてあがめられ、木屋川ダム、石柱渓とあわせて豊田県立自然公園に指定されている。
酒席で歌われるヨイショコショ節は、ここでも見つかり、農作業歌として田の草取り歌と臼挽歌が採集できた。子守歌やお手玉歌も残っている。山間部にしては作業歌が以外と残っていなかった。
(伊藤 記)
豊浦郡の西南部本州最西端に位置し、西は響灘に面し、そのほかを豊北町、豊田町、菊川町、下関市に囲まれている。町の中心は川棚で、国道一九一号線と山陰本線が、町のほぼ西側を南北に走る。
今回の調査では、童歌、作業歌ともに採集できたが、四十年代の初めには、臼挽歌や糸つむぎ歌が残り、年中行事に関する歌として、亥の子歌があり、子どもの遊び歌も数多く聞くことができた。
(伊藤 記)
豊浦郡の北部に位置し、西を響灘、北を油谷湾に面する。北西一.五キロの沖合には、角島が浮かぶ。
平城宮跡出土の天平十八年三月廿九日の日付のある木簡に、角島からわかめを貢上したことが記載されていた。海岸沿いに国道一九一号線が走り、北長門ブルーラインと呼ばれている。響灘に面した土井ヶ浜には弥生時代前期初頭から中期初頭にかけての集団墓地があり、国指定史跡「土井ヶ浜遺跡」として広く知られる。
農作業歌として、田の草取歌と、臼挽歌を採集した。地搗歌も残っていた。酒の席での歌もわずかではあるが歌われている。長い海岸線を持つにしては、海に関する歌が残っていなかった。
(伊藤 記)
北側を日本海に面する水産業と観光の町で、南側の山地から流れ出た深川川が仙崎湾に注ぐ河口に中心市街地が広がる。仙崎の半島を境に東が仙崎湾、西は深川湾で対岸に北長門国定公園を代表する青海島が浮かぶ。
仙崎と青海島の間の海峡は百二十メートルあり、昭和四十年に橋が架かり青海大橋と呼ばれている。
島の南側は内湾で、通浦は捕鯨基地として栄えたところで、鯨の墓(国指定史跡「青海島鯨墓」)もある。鯨を捕獲んて帰って来ると村の衆は総出で迎え、酒宴が行われ鯨歌が歌われた。
山間部の真木には君が代踊が伝わり、この歌の詞型は五七五七七の短歌形式で、この詞型の歌は少をく油谷町川尻の鯨歌にこの詞型に近いものがある。
(伊藤 記)
大津郡の東端にあり、北は仙崎湾があり、沖合には青海島を望む。東は萩市、南は秋芳町と美東町、南から西にかけては長門市に接する。
仙崎湾に面する海岸線は北長門国定公園の一部に含まれる。
三隅八幡宮には田楽「三隅の腰輪踊」が伝わり、県指定無形民俗文化財となっている。
今回の調査では作業歌はみつからず、踊り歌を二種類採集した。
昭和四十年代には、近世小歌調形式の田植歌や田の草取り歌が残り、酒作りの?摺歌もあった。
祝い歌としては兎渡谷に、しょんがい節があり、中国地方の日本海沿岸に分布する博多節も歌える人がいた。
(伊藤 記)
大津郡の西部に位置し、北は日本海、東は長門市に接する。
町の中心である古市は赤間関街道に沿った宿駅で、国道一九一号線と山陰本線が町の中心を東西に走る。
海岸線は北長門国定公園に含まれる。
ここにも南条踊が伝わり、大正の初め頃に俵山を経て赤崎神社へ奉納されたものである。
大津杜氏(とうじ)のいる町らしく、造り酒屋で歌われる酒の?摺歌がある。
酒の席でよく歌われるヨイショコショ節は、ここにも分布していた。
(伊藤 記)
かつての美祢郡の西半分に当たる山間の地で、ほぼ中央を厚狭瀬内海に南流し、大体それに沿って国鉄美祢線が走っている。
古くからの習俗が早くすたれた地方で、かっては西厚保町でさんこ節を伝える者もいたが、それも消滅してしまった。
現在は伊佐町と西厚保町に盆踊りの歌が残っている程度である。 伊佐町小林と上野のものは全く同じ詩型であるが囃子詞が異なっているというニュアンスの相違がある。
また、上野にはヤンセ踊というものがあるが、これは美祢郡美東吉敷郡小郡町、厚狭部楠町にもある。
現在でも結婚式などの時には長持歌が歌われる地方が残っている
(財前 記)
本県中央の内陸部に位置し、南北に長い町で、周辺の小河川を集めて大田川が南に流れ、厚東川の本流に注いでいる。町の中心は大田で近世には萩・吉田間の往還が通り、美祢宰判の勘場が置かれていた。
奈良の大仏を鋳造した銅をここから掘り出したと伝える長登銅山があり、江戸時代には産出量も多かったが、次第に衰え幕末には全山休山状態であった。明治三十八年頃再び盛況を呈し、大正八年まで採堀が続けられ、昭和初期から戦後しばらくの間も稼業された。
大正期の鉱山歌が数種類残っていて貴重だ。地搗歌も数種類みつかり長持歌も採集できた。江戸時代には下関節と言われた「さんさしぐれ」が古態を留めて遺存しているのは特に注目される。
(伊藤 記)
県の南西部、周防灘に面する工業都市。東は宇部市に接し、西は厚狭川が山陽町との境を流れ周防灘に注ぐ。
古代には本山岬で須恵器が生産されていて、大須恵の地名が残る。近世に入ると石炭の採掘も始まり、有帆では生活の助けに石炭を掘り、附近の塩田の燃料として売っていた。石炭を地上へ捲き揚げる南蛮押しの歌が昭和三十年代の初めには残っていたが、石炭事業の蓑退とともに今は採集できなくなった。
農作業や船頭歌も消滅した。今回の調査で採集したものは口説形式の盆踊歌のみであった。
(伊藤 記)
県の南西部に位置し、南は周防灘に面する。東は山口市と小郡町、阿知須町、北は美東町、西は楠町と小野田市に接する。
地域発展の原動力とをったのは石炭で、すでに近世初期から採掘が行われていた。藩政時代に入り石炭製塩の燃料として瀬戸内沿岸の塩田で使用されるようになったので、需要は増大した。幕末には採掘した石炭と水を地上へ捲き揚げる南蛮車(なんばぐるま)が発明された。この南蛮車を押しをがら歌ったのが南蛮歌。
沿岸部には酒の席の歌も残り、西岐波では長持歌が採集できた。北部の山間地域に木挽(こびき)歌が残っていたのは貴重だ。市全域から大量の童歌が採集できた。
(伊藤 記)
日本海側のほぼ中央に位置し、日本海に点在する大島・櫃(ひつ)島・肥島・羽島・屋島・相島や見島をその市域に含めている。市街地は県下第二の長流である阿武川のデルタに発達しており、藩政時代は防長統治の中心地であった。
萩の民謡といえば「男なら」という名称で知られているオーシャリ節が有名である。
見島には農作業に関する民謡のほか、ションガエ節・ヨイショコショ節・伊勢音頭・見島追分をどといろいろをものが残されているが、島の者も船で出かけることが多く、また他国の船の立ち寄ることも多かったことによるものであろう。
山口県内をみても、島にはバラエティにとんだ民謡を伝えるところが多い。
(財前 記)
阿武都の南西部に位置する山間の村で、村内を阿武川が西流し、西北部を国道二六二号線が通る。
林業の盛んな村で、特に杉の木が多い。ユズの栽培が行われ、ユズ酢やユズ味噌に加工して出荷しており、ユズの自生地は国の天然記念物に指定されている。阿武川の鮎(あゆ)漁は盛んで、村の産業の中でも主要なものの一つである。
労作歌としては、田植歌が採集されたのみで、木挽歌や木おろし歌は採集できなかった。
婚礼の席での祝い歌は各所に残っている。盆踊歌は県下全域に分布する白川踊歌や、ひとつの物語を歌っていく口説形式のものがある。
(伊藤 記)
山口県の東北端を占め、北は日本海に面する町で、東を島根県益田市、西と南を須佐町に接する。日本海沿岸以外は山間部で平野は少ない。町の中央を田万川が流れ日本海に注ぐ。
近世末期には山間部で紙漉が行われており、原料となる楮の木の皮をはぎ取る時の歌が今に残る。小川地区から農作物に関する仕事歌を多く採集した。木挽歌もかなり残り、家屋建築の際の地搗歌や棟上げの祝い歌もある。沿岸部からは数種類の船歌や網引歌を採集した。盆踊歌もまだ歌われている。
沿岸部から子どもの遊び歌を多く採集したが、古い遊びもだんだんすたれ、歌も滅びるであろう。
(伊藤 記)
阿武郡の中央部に位置し、周囲を阿武町・阿東町・福栄村にかこまれた山村。各所に玄武岩や安山岩性の小火山が密集し、特異な景観を呈する。耕地は多くないが、まとまった水田は吉部地区に集中する。溶岩台地の千石台は開拓して大根の栽培を行っている。
田植歌、芋取歌、臼挽歌等農作業に関する仕事歌が多く残っている。
馬で荷物の運搬を行っていたころの馬子歌か残っていたのは珍らしい。木挽歌は歌詞も多く伝わっている。昭和三十年代には糸引歌や機織歌が残っていたが、今回は採集できなかった。口説形式の盆踊歌は数多く歌われている。
(伊藤 記)
阿武郡の北に位置し、町の北側は国指定名勝の「須佐湾」である。須佐湾沿岸には船の進水の時の祝い歌が残り、弁天祭の奉納船歌もある。
山間の弥富や鈴野川では近世末期に農業の片手間に紙漉きに従事するものが多く、税として納めた残りを江崎や須佐へ運んで醤油、塩、油と交換していた。ここでは製紙の原料となる楮の木の皮をはぎ取る時の歌が残っている。このほか、農作業や林業に関する作業歌もある。
上三原には、噺し田形式の田植歌が伝わり、「上三原の田植ばやし」として県の無形民俗文化財に指定されている。弥富地区には近世小歌調形式の田植歌も残る。盆踊歌は沿岸、山間部ともにまだ歌われている。
(伊藤 記)
阿武部西南端に位置し、昭和三十年に明木村と佐々並村が合併して成立した村である。北を萩、南を山口、東を川上村と阿東町、西を美東町に接する。耕地は狭いものが多く、近世末には「小百姓計りにて」と記録に見え、薪・炭・蕨(わらび)縄等の産物を萩へ運んで売っていた。村内を明木川、佐々並川が流れ、夏には鮎釣で有名である。
祝いの酒席での歌は、かなり残っているようだ。家屋建築の際の柱の根固めの地搗歌も採集できた。労作歌では、木挽歌しか採集できず、田植歌は採集できなかった。盆踊歌はまだ多く残っている。
(伊藤 記)
阿武郡の西北部に位置し、西側は日本海に面し、山側は須佐・萩・福栄・むつみの市町村に接する。集落は海岸線と小河川の流域や盆地の周辺部に散在する。海岸線を国道一九一号線と山陰本線が通る。町の東南端には、宇生賀盆地があり洪積世の火山噴出により湖盆化したものである。長い湿田の時代が続き、田植の時は二間の竿の上に乗って作業したと言う。この頃の苦労が田植歌に歌われている。
「三度飯ゅ喰うて 二度酒を飲んで いやじゃ宇生賀の二間竿」地理的事象を歌い込んだ貴重な歌詞だ。今回の調査では地搗歌を除き、作業歌は採集できなかった。三十年代には木挽歌も残っていたが滅びたのだろうか。盆踊歌は海岸部・山間部ともに大量に残っている。
(伊藤 記)
県の中央部、やや南寄りに位置し、瀬戸内海に面する一部を除き、周辺を山に囲まれている。市の中心地は山口盆地であり、県庁や関連諸機関を持つ県政の中心地である。
中世には守護大名として勢力をのばした大内氏が居館を山口に移し、キリスト教の伝来もあり西日本随一の大都市として栄えた。近代に入っても県政の中心地として早くから都市化傾向をたどり、古い作業歌や童歌は急速に滅びた。
昭和三十年代には、農作業や林業に関する作業歌が残っていたが、今はない。わずかに旧宮野村から長持歌と雨乞に歌われた歌と鋳銭司からわらべ歌を採集した。
(伊藤 記)
県の中央南側にあり、南部を周防灘(なだ)に面する。佐波郡奥地から南流して来た佐波川がここで周防灘に注ぐ。河口には沖(ちゅう)積低地が開け、遠浅を利用して早くから干拓も行われ広い防府平野を形成した。
多々良山の南には、大化改新以後に周防国の国府が置かれ、古代には周防国の中心となった。近世初期に入ると恵まれた気候条件と遠浅の海岸を利用して入浜式塩田が開かれ、防長塩業の中心とをった。固くなった塩田を金子という用具で深く掻き起こす作業の時に浜子が歌ったのが浜子歌で、今に歌い継がれている。大道には国府節が伝わり、昔は雨乞いにこ町盆踊歌を歌った後、太鼓に合わせて「さんさしぐれ」を歌っていたという。
(伊藤 記)
旧都濃部の南半の大部分を占め、広い市域を持つ。市域の東側は美川町、周東町、熊毛町、下松市が接し、北側は錦町、鹿野町、西側は新南陽市の和田地区と防府市などに囲まれている。南は徳山湾に面する。
今回の調査が沖合の大津島と馬島に限ったため、内陸山間地域の作業歌は採集できをかった。
大津島は祝い歌が多く残っており、ヨイショコショ節や長持歌、地挽歌がある。農作業の歌として臼挽歌を採集した。
馬島には島にしては珍しく、囃し田形式の田植歌が残っていた。
藩政時代の主要産業の一つである蝋(ろう)の原料となるハゼの実をもぎ取る合間に歌われたハゼもぎ歌が、山間の川曲に残っていて、昭和四十年代には聞くことができたが、もう聞けないようだ。
山間部の囃し田系の田植歌の歌詞に、五七五七で完結するものと、五五七五・五五七五で完結するものとがあり、近世以前の成立をうかがわせる貴重なものである。
五七五七型
○朝露に花篭(かご)さげて花摘(つ)みに 御前のまえに
五五七五・五五七五型
○代かきはあがりたが うなりはどこへ行かれたあ 早船にとびのりて
わかめを買いに行かれたあ
(伊藤 記)
市域は瀬戸内側の富田・福川地区と北部山間部の飛地である和田地区とに分れている。南部と北部とでは自然環境や人文現象に大きなへだたりがある
瀬戸内海沿岸には干拓地が発達し、福川には塩田があったが、つぼしめ歌という作業歌がここだけに残っている。
ダムの建設によって水没してしまったが、和田地区の大谷には盆踊りにツクハネ・数え歌・高い山や口説があり、この四つのものをひとまとめにして思案橋といい、衣裳は菅笠(すげがさ)に襷(たすき)かけをし、持ち物は大うちわで槍も使ったということである。
竹島がらすという童歌もこの地方独自のものであって注目してもよいものと思われる。
(財前 記)
熊毛都の北部に位置し、東は玖珂部周東町、北は徳山市、西は下松市南を熊毛郡大和町に囲まれている。北の山間部は特別天然記念物ナベヅルの渡来地「八代のツルおよびその渡来地」としられる八代地区である。
作業歌としては囃田系の田植歌・田の草取歌・木挽歌・臼挽歌があり、祝歌として亥の子歌・餅搗歌がある。
盆踊りにはきそんがあり、関のヨイショコショ節も伝わっている。
毛まりつき歌・子守歌・お手玉歌があるが祭礼に付属している華麗な花笠踊りが残されていることが特徴である。また、徳山さんさなどいうものも残っている。
(財前 記)
瀬戸内海の笠戸湾に面し、東は熊毛町と光市、北と西は徳山市に接する。切戸川の河口に中心市街地がある。市の南半分は、切戸川と末武川の形成する平野があり、東と北は三、四百メートルの山地で小河川に沿った谷間に集落が点在する。末武平野には条里型地割が見られ、早くから開発されていた。
農作業や農産加工品に関する仕事歌は山間の久保地区に多く残っている。塩業の浜子歌は海岸部に伝わり、笠戸島には舟歌や口説形式の盆踊歌がある。全域から子守歌が多く採集できた。正月の遊びを中心にわらペ歌も大量に残っていた。
(伊藤 記)
山口県の南東部、周防灘に面して広がる。市域のほぼ中央を島田川が流れ周防灘に注ぐ。島田川の河口には広い平野があり沿岸の虹ケ浜は海水浴場として有名である。左岸の平野部は工業地帯となっている。
室積は古い漁業集落でもあり、室積大漁歌と呼ぶ櫓(ろ)こぎ歌や網引歌が残る。
沖合の牛島にも船おろしの祝儀歌や大漁節が伝わり、牛島盆踊もよく知られた踊である。
山間部には囃し田形式と近世小歌詞形式の両方の田植歌が残っている。しょんがえ節で歌われる餅搗歌や米搗歌を採集した。
子どもの遊び歌は、沿岸、内陸ともに多く残っていた。島田に馬子歌が残っていたが今は聞かれない。
(伊藤 記)
山口県の東端の町で、北は小瀬川を挟んで広島県の大竹市に接し、西・南は岩国市に囲まれ、東側だけが瀬戸内海に面している。
ここは小瀬川のつくった沖積低地と新田開発によって作り添えられた平地とから成り立っている。岩国の文化の影響をうけた地方で、田植えの時には囃田があり、盆にをると盆踊りとして小糠踊・岩国音頭をどがあったが、臨海工業地帯として、急速に発展し、かつての生活環境が急変し、人口の流入、住民の交替が激しかったため、現在では民謡の採集が不可能とをってしまった。
(則前 記)
山口県の東端に位置し、瀬戸内海に面し、市域の中央を山口県第一の長流である錦川が東流し、市街地は同河川のデルタに立地している。労働歌がたくさん残っている所に大きを特色がある。田植歌は囃田系であり、田の草取歌、紙漉歌、糸引歌、機織歌、粉挽歌、籾擢(もみすり)歌、木挽歌等があり、祝歌として餅搗歌、地搗歌、盆踊はここの特色を示す小糠(こぬか)踊、岩国音頭がある。
座敷歌としてはサノサ節が貴重であり、稲の虫送り歌が残っているのも見逃すことはできない。
(財前 記)
玖珂郡の東南にある町で、俗に玖南といわれている。東は瀬戸内に面し、北は岩国市、北西は玖珂郡周東町、西から南にかけては柳井市に囲まれている。
かっては、田草取歌・籾摺(もみすり)歌・地搗歌・餅搗歌・亥の子歌等の作業歌や祝い歌、盆踊歌をどたくさんの民謡が採集されたが、今はそれを伝承する者もなく、周防部の東半分(大島郡も含む)に濃密に分布していた花田植(囃田)だけが、旧由宇村の北部で採集されるだけである。
(財前 記)
玖珂郡の中央部から僅かに南に寄った所に位置する町で北から東にかけて岩国市を控え、北から西・南にかけては玖珂郡周東町に取り囲まれている。
岩国市の文化圏にはいるため盆踊にも小糠踊がみられるが、特色のあるのは鞍掛踊である。鞍掛は鞍掛山から取った名称であるが、その歌に
さんさ時雨か すずしの霧か
今日も鞍掛や うすぐもり
アラサ コラサ キナエ
とあるが、さんさ時雨の変型と思われる。
亥の子歌は数え歌型式のもので、瀬戸内沿岸に広く分布しているものと同じである。
玖珂踊は歌詞の内容からみて大正以降のものである。
(財前 記)
玖珂郡の中央部の北寄りに位置し、北と西は玖珂都錦町、東は玖珂郡郡美和町、南は同美川町に囲まれた山間の地である。
藩政時代には勘揚(かんば)のおかれた所で、近隣の者は本郷村に行くと格式ばらなくてはならないといっていた。
祝いの席で最初に歌われる「高い山」があるがこの歌は広く分布しており、さんさ節の歌詞は小野田市にあるこうのう踊り歌という、さんさ時雨の変型したものの後半の歌詞とほとんど同じものが歌われている。
田植歌は囃田系であるが、角力取甚句をどの新しい民謡が多いのも特徴である。
(財前 記)
玖珂郡のほぼ西南に位置し、西は徳山市・熊毛郡熊毛町、南は熊毛郡大和町・柳井市・・玖珂郡由宇町、東は岩国市・玖珂郡玖珂町、北は珂郡美川町に囲まれている北西から南東にのぴる細長い山間の町である。
囃田系の田植歌があり、他に・不挽歌、地搗歌が残されている。
盆踊は岩国の影響をうけて、小糠踊、小糠さんさ・岩国音頭がある。
新民謡として角力甚句・伊勢音頭・磯節がある。
かっては、亥の子歌・手まり歌・子守歌・ほたる歌などがあったが、消滅してしまった。
(財前 記)
北東を広島県佐伯郡、北西を島根県鹿足郡に境界をもつ県境の町で、東北から西南に長くのびており、小盆地や谷合いの地に集落が点在している。
田植歌は囃田系であるが朝歌と星歌が残っている。高い山・木挽歌・臼挽歌・長持歌・ヨイショコショ節・さんさ等があるが、特徴のあるのは船頭歌(いかだこぎ歌)であるが、これは錦川が人や物の運搬に利用されていた折に歌われたものであろう。
他にお手玉歌、子守歌・でまり歌をどの童歌や相撲取歌(角力取甚句)、米山甚句、安来節、新磯節、二上新内などが歌われている。
(財前 記)
近世には奥山代宰判に属していた山間の村で、玖珂郡の中央部に位置する。錦川が町の北西部から東南部へ流れ、それに沿って岩日線と国道一八七号線が走る。
当町は山代紙の集散地で、南桑船と称する川船があり、萩藩の専売紙であった山代紙を運搬する御用船と私有船があり、岩国との間を往復していた。
この船は根笠川にもあり、村の産物を運搬していた。岩国通いの船は大正の末まで続いた。この船の船頭さんが歌った船頭歌が残る。添谷地区には明治・大正期の鉱山歌が残っていたが、歌える人は絶え歌詞だけが残る。農作業や山仕事の歌もまだ残っており柴刈歌があるのは貴重だ。盆踊歌も多く残り、県東部に分布する小糠踊歌も伝わる。このほか、子どもの遊び歌も採集した。
(伊藤 記)
山口県の南東部に位置し、瀬戸内海に面している。熊毛半島の東半分とその北部及び平郡島をその市域としている。
藩政時代から商業の町として栄え、柳井木綿の産地として有名であった。その名残りであろうか糸つむぎ歌がみられ、他に童歌・餅搗歌、臼挽歌があるが、熊毛半島の阿月や伊保庄では盆踊りがさかんである。
田植歌は囃田系のものであり、琉球節・博多節などが歌われているが、琉球節はここだけでみられるものである。
(財前 記)
熊毛郡のほぼ中央に位置し、東は柳井市・熊毛郡平生町、北は熊毛郡大和町、西は光市と接し、南は周防灘に面している。
平生湾に臨む地域は干拓地で、田布施川流域とともに農村地帯として発達している。
ここでは囃田系の田植歌が姿を消し、祝い歌としての地搗歌・餅搗歌・幟立歌が残り、作業歌としては農耕としての代掻歌、木を伐採する時の木挽歌が採録される。
明治以降の新民謡として伊勢音頭が残っているにすぎない。
(財前 記)
熊毛半島の西側に位置し、東と北は柳井市、北西は田布施川を挟んで熊毛都田布町に接し、西側は海に面し、南は熊毛郡上関町と境界をなしている。
熊毛都一帯は酒造りの杜氏(とうじ)を出した所で、一般に熊毛杜氏と呼ばれているが、ここにも酒造りの時の桶洗歌・驟寳ꀀ歌(もとすり)歌があるのがうなづかれる。
作業歌・祝歌なども他所と大差はないが、惜しまれてならないのは、浜子歌が収録できなかったことだ。この地方は藩政時代から塩田があり、平生塩田といわれ、浜子歌が歌われ、採譜されたものもあるが、この度の調査ではでてきていない。
(財前 記)
熊毛半島の南端の西側と長島・祝島・八島などの島で構成されている。
上関港はかつての瀬戸内海航路の要港で下関・中の関(防府市)とともに重視されていた。八島は肥前の国に鯨取りに双海船を漕いで行った所で現在も鯨歌があり祝いの序での最も大事を歌とされている。島は盆踊の盛んを所で祝島にあるものは阿波蹄によく似ている。
櫓漕(ろこぎ)歌・船おろし歌・大漁歌・鰯網(いわしあみ)の歌・えびこぎ歌をどのように海に関するものが多いのか地域性を表わしている。
なお、祝島は酒造りの杜氏をたくさんだした所であり、酒場の 摺(もとすり)歌も残されており、八島はかつては牛の飼育の盛んな所で、牛飼いの子を雇っていた。
(財前 記)
屋代島の北部に位置し、瀬戸内海に面し、昔から近郊の商業の中心地であるとともに、久賀の石工や大工が多く出た所であり、現在は温州密柑の栽培が盛んである。
ここは実にたくさんの民謡が歌われていた土地であった。
作業歌としての田植歌は大島郡一円に共通する囃田系のものである。特色のあるものとして角島という一本釣りの歌があるが、これは、ここの漁船が豊浦郡豊北町の角島の周辺に鯛の一本釣りに行っていた折に歌われたものである。
(財前 記)
屋代島の西部に位置し、西と北は海をはさんでそれぞれ柳井市と玖珂郡大畠町に対している。そして、本土と屋代島を結ぶ交通の拠点となっている。
藩政時代から小松塩田のあった地で金子歌が残っているのも肯定できる。笠佐島は古くは柳井塩田の薪島であったが、小松の人が渡って開いた所である。
大島郡は子供の亥の子行事が盛んな所でどこでも亥の子歌が採集され、亥の子の日には子供たちの勢力争いの姿もよく見られたといわれている。
また、岩国音頭という盆踊り歌があるが、岩国との往来が多かったことを物語っている。
松坂という盆踊が町の全域で行われている。
(財前 記)
屋代島の東部、即ち屋代島を金魚に見たてると、その尻尾に当たる部分が東和町に相当している。北、東と南の三方を海に囲まれ、情島、片島・沖家室島を含む。
沖家室は漁業基地で盆になると帰省客が多く、島が沈みそうにをるといわれるくらいにぎわい、夜通し盆踊がをされている。
ここでは船おろし歌がみられ、他に地搗歌、綱引きの折の囃子詞があり、雲作音頭という道中歌(馬子歌)はここだけしかない。
(財前 記)
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